九
ぎくり、と相手は緊張した。億十郎はさらに話を続ける。
「さてと、一つ良い話をしてやろう。清洲屋の使用人、惣助ってのを知っているか? もちろん、神隠しにあった、清洲屋の娘、お蘭の付き人だ。こいつは、目黒富士で、お蘭が神隠しに遭ったというのに、大事なお嬢様をすっかり忘れ果てていたらしい。同じような話が、他の家でもあったな?」
岡っ引きは無言である。が、全身で億十郎の話に、聞き入っている気配であった。
「その惣助だが、お嬢様の名前も、目黒富士で起きた事件も、完全に思い出せたってのはどうだ? 興味がねえかい?」
「本当か?」
岡っ引きは、首を捻じ向け、億十郎の顔を見上げた。顔には、深甚な驚きが弾けている。
億十郎は頷いてやった。
「本当だ。ある方法で、記憶が戻ったんだ。多分、他の拐わかされた娘の親御さんや、付き人の記憶も、戻るかもしれねえ」
億十郎は、締め上げた腕を離した。岡っ引きは苦しそうに首を撫で回すが、逃れる気配はなく、億十郎の顔を真剣に見上げていた。
「どうすりゃ、記憶を戻せるんだ? 他の家では、有名なお医者を連れてきて、診て貰っているらしいが、一向に戻る気配はなかったって、話だぜ」
億十郎は腰に手を当て、ぐっと目に力を込めて相手を睨んだ。
【遊客】なら、この一睨みで相手はぐたぐたになって、言いなりになるだろうが、億十郎はただの武士である。岡っ引きは多少、おどおどとした態度に出ただけだった。
「教えても良いが、その前に、おめえの名前を聞きたいな。俺の名前は、とうに御存知なんだろう?」
ごくり、と岡っ引きは唾を呑み込んだ。どうしようか、逡巡している様子だったが、好奇心が勝ったようだ。
「ああ。あんたは、八州廻りの、大黒億十郎さんだろう? 清洲屋の娘、お蘭との祝言がこれからって時に、神隠しにお相手が遭いなさった。御不運なこって!」
億十郎は、わざと驚いて見せた。
「そこまで調べがついているのか!」
億十郎の驚きに、岡っ引きはやや気分を良くしたようだった。鼻の穴をおっ広げ、顔を仰向けて億十郎を見上げる。
単純な奴だ。勢いづいて、相手はべちゃくちゃと喋り始める。
「御推察の通り、おいらは南の定町廻り同心・岡崎様の手下で、九八の平太ってんだ! 江戸の大店だけじゃなく、長屋住まいの貧乏人、武士の娘、とにかく、評判の小町娘がごっそり神隠しに遭って、一緒に目黒富士に登った身内は、全部が全部、記憶を失くしちまった。何が起きたか、手懸りもないってんで、御奉行様もてんで目先のあてがねえ……。なあ、本当に惣助の記憶が戻ったのかえ? どんな方法で戻したんだ?」
億十郎は重々しく頷いた。
「本当だ。が、そっちも少しはこちらに教えても良いだろう? 目黒富士についちゃ、お調べがついているはずだな? どこの、どいつが、目黒富士を造りやがったんだ?」
平太は目を光らせた。
「そいつを聞いて、どうしようってんだ? 御府内の事件は、奉行所の縄張りだぜ。八州廻りが鼻を突っ込んで、ただじゃ済まねえぜ!」
億十郎はかっとなった。
「教えるのか、教えねえのか、どっちだ!」
思わず怒鳴っていた。平太は、竦みあがったが、すぐ立ち直り、憎々しげな笑いを浮かべる。
「それじゃあ、教えてやる。目黒富士を築山したのは、水戸の天狗党って奴らだ。本山は筑波山にある。どうだい?」
億十郎は愕然となった。
水戸の天狗党だと?
八州廻りは関八州が縄張りだ。だが、八州廻りの、どうにも手が届かない場所がある。それが、徳川御三家の一つ、水戸家中である。
億十郎は息を吸い込んだ。強いて動揺を静める。
「よし、それじゃこっちも教えてやる。お前さんが仕えている同心……岡崎様とかいったな? 同心なら、懇意にしている【遊客】の一人や二人、いるだろう? その【遊客】に頼んでみな。目黒富士で何が起きたか、【遊客】の力で思い出させるんだ」
平太は呆気に取られる。
「本当か? 本当に【遊客】の力で、記憶が戻るのか?」
「ああ、請合う! 俺は【遊客】に頼んで、惣助の記憶を戻して貰った。多分、他の患者も同じように、戻るはずだ」
一息で喋ると、億十郎は平太をそのままに、プイと背中を見せて立ち去った。背後で平太が「おい!」と声を掛けたが、一切無視して歩き出す。
水戸家中! 思いもかけぬ名前に、億十郎は呆然となっていた。
その時、億十郎は何の根拠もないが、この事件には【遊客】が関わっているのではないかと考えていた。【遊客】なら、人の記憶を消すなど、簡単なはずだ。
億十郎の足は、報告のため、評定所に向かっていた。