八
理恵太による強制で、惣助は完全に目黒富士での出来事を思い出した。
億十郎は惣助から目黒富士で起きた事件について聞き出すと、理恵太を休ませるため、一人で清洲屋の店先から通りへと出た。
山伏か……。
厄介な事件である。
目黒富士を築山した相手は、どこかの寺社に関係している。当然、寺社奉行の管轄であり、八州廻りの億十郎が口を挟める筋合いではない。
これからのあてを考え、歩いていた億十郎は、ふと尾行が従いているのに気付いた。
目の端で、ちらちらと背後を確認すると、人の群れに混じって億十郎を尾行している男がいた。
年の頃は三~四十くらい。縦より横幅が広そうな、蟹のような体型をしている。顔もまた蟹のようなご面相で、常に不機嫌を表現しているような、面つきである。
恐らく、岡っ引きだろう。
目黒富士での神隠しは、清洲屋のお蘭だけではなく、かなりの範囲に広がっていると聞く。従って、町奉行が乗り出していると見なければならない。
清洲屋にも、監視の目が張り付いていたのだ。そこに、八州廻りの億十郎がのこのこ現われたので、尾行が従いたのだ。
いい頃合である。億十郎は密かに、笑いを浮かべていた。
東本願寺から田原町へ出て、材木町から大川端へと、のんびりと歩く。大川を右手に見て、浅草寺裏へと足先を向けた。
まだ尾行は従いてくる。
浅草には大小の寺が犇くように並び、思いもかけない細い路地があって、億十郎は人気のない通りを選んで歩いていた。
どうやら尾行は、あの蟹のような男、一人きりらしい。本来なら、数人が組んで、前後に人をばらまいて尾行する。人手が足りないのが、億十郎にとっては、好都合である。
億十郎はさっと、物陰に隠れた。
身長六尺、体重三十貫という巨体によらず、億十郎は素早い。篠竹一本で姿を隠すという狼の技には及ばないが、尾行の目を眩ますなど、億十郎には眠っていてもできる。
物陰に隠れた億十郎の目の前を、岡っ引きが何も知らず、通過した。
足音を立てず、岡っ引きの背後に回ると、億十郎はさっと腕を伸ばし、岡っ引きの首に腕を巻きつけた。
「!」
岡っ引きはびくんと一瞬、驚愕に身体を強張らせたが、さすが商売柄か、すぐに億十郎の把握を逃れようと、身動きを始めた。
普通の相手なら、すぐに身を振りほどき、逆襲に出られるところである。だが、生憎と億十郎も、八州廻りとして三年の経験を積んでいる。
じたばたと暴れる相手の急所を掴み、身動きを止める。そのままじわりと首に回した腕に力を込めた。小具足の技を使っているので、素人には億十郎の把握を逃れるのは、無理である。
「騒ぐな! 殺しはしねえ……。しかし、無駄な抵抗をすると、その約束も反古になる」
億十郎が岡っ引きの耳元に囁くと、抵抗が止んだ。
もちろん、諦めたわけではなかろう。億十郎が力を緩めれば、あっという間に反撃に出られるよう、体力を温存するつもりなのだ。
ずるずると億十郎は岡っ引きを物陰に引き摺って、隠れた。
はあはあと、岡っ引きは鞴のような荒い息を立てていた。
「俺を知っているか?」
億十郎の質問に、岡っ引きは小刻みに首を振って否定した。億十郎は、岡っ引きは、南北どちらの奉行に属しているのだろうと考えていた。どちらにせよ、奉行所に目をつけられるとは、気分が良いものではない。
「おめえ、手先か?」
「違う! 手先なんかじゃ、ねえ!」
初めて岡っ引きは言葉を発した。億十郎が首を締め上げているので、ざらざらとした塩枯れ声になっている。
「ほう、それじゃお前さんは、何のために、俺を尾行していたんだ? 清洲屋から、ずっと後をつけていたろう。俺の正体を知って、尾行してたに違いねえ!」
「知らねえ! 離してくれ! おりゃあ、あんたなんか知らないし、御番所なんかにも関わりはねえんだ!」
億十郎は「くくっ」と喉の奥で、乾いた笑い声を立てた。
「語るに落ちたな。俺は何も、お前が奉行所の手先だと言った覚えはないよ。何で、御番所の名前が出てくるんだ?」