一
お蘭の足下がよろけ、思わず片手を岩肌において身を支えた瞬間、惣助の手が伸びた。
「お嬢様、大丈夫で御座いますか?」
惣助の案じ顔に、お蘭はちょっと眉を顰めて見せた。
そう、いつもいつも心配顔で従いて回られると、鬱陶しくなる。まあ、山に登るのに、振袖で、草履というのも非常識であると判ってはいるが、本物の山に登るわけではないので、甘く見たのだ。
お蘭の従者である惣助は、六十がらみの、老僕である。お蘭が物心つく、遙か以前から仕えてきて、お蘭にとっては肉親とも言える近しい間柄だ。
当のお蘭は、芳紀十八になる娘盛りである。やや浅黒い肌に、強い目の光をしていて、険が強いのが難と評せられるが、美人である。性格も、容姿そのまま。多少は強情張りであるが、惣助には優しい顔を(時折)見せる。
実家は江戸で老舗の茶問屋で清洲屋という。上には姉が一人いるが、乳母日傘で育てられた。
しかし姉が婿を取って、実家の茶問屋が迎えた婿の働きで、いよいよ安泰となった頃、事情が大きく変わった。
お蘭が成長し、十七の春を迎えた頃、俄かに婚約話が持ち上がったのである。相手は、八州廻りの御家人だが、お蘭は今まで顔も見ていない。
優秀な婿を取り、跡取りの心配がなくなって、実家は江戸の商家にありがちな、将軍家直参の名跡を切望し始めたのである。お蘭が首尾よく御家人に縁付けば、本家は安泰、しかも、直参の列に並ぶと〝両手に花〟を狙ったのだ。
江戸の大店では、息子が生まれるより、娘が生まれたほうが喜ばれたという。
なぜなら、息子ならひょっとして苦労知らずに育ち、放蕩息子になる可能性があるが、娘なら優秀な婿を取って、店の経営を任せられるからである。
姉は優秀な婿を取ったので、妹は誉ある相手をと、両親、親戚一同が熱望し始めたのだった。
相手の御家人の名前は大黒億十郎といって、お蘭とは遠戚関係にあると聞かされたが、何しろ一度ぐらい耳にした程度では、どういう遠戚か、さっぱり判らないほどの遠縁らしい。ほとんど赤の他人といっても良いのだが、巡り巡って、お蘭の家に話が持ち込まれたのである。
この秋が過ぎて、初冬の頃には、お蘭は嫁に行かねばならない……。その頃には、相手の大黒億十郎様も、江戸に帰参しているはずである。
実を言うと、お蘭はこっそり相手の顔を見ている。八州廻りといっても、年がら年中、関東一円を巡っているわけではなく、報告のため、時々は江戸に帰参するのである。
評定所に現われるとの報せを聞きつけ、それっとばかりにお蘭は物陰に隠れ、相手の大黒億十郎という侍を見物したのだ。
大きい、というのが最初の印象だった。背は六尺近く、相撲取りのように太っていた。
顔は笠を被っていたので判らなかったが、ちらりと袖から覗く手足は、よく日焼けしていた。太っていても、お侍らしく、筋肉は発達して、逞しい感じだった。
どきどきしながら盗み見た相手は、お蘭には当然のことながら、気付くはずもなく、さっさと評定所の門へ消えてしまった。
その日以来、お蘭の胸に「大黒億十郎」なる名前は、しっかり刻まれたのである。
お蘭は、嫁ぐ日を、指折り数えるようになっていた。その最後の気儘な日々を楽しもうと、お蘭は張り切っていた。
「あのう……」
背後から登ってくる、他の登山客がおずおずと声を掛ける。お蘭が立ち止まっているので、後がつかえているのだ。
我知らず、物思いに耽っていたらしい。
後ろを振り返ると、登山の列が延々と伸びて、麓まで続いている。
ここは、目黒富士なのだ。
近ごろ、江戸では「富士講」が盛んであった。富士に登山し、霊験を受ければ家内安全のみならず、子宝に恵まれ、願望が叶うとされる。
だが、江戸の人間の総てが富士山に行けるはずもなく、こうして江戸の町に設けられた築山の富士に登るのが、代替手段として流行っている。
人の手で作られた富士ではあるが、ちゃんと頂上には浅間神社から勧請した祠も設けられ、参拝が可能である。
お蘭は、江戸に目黒富士が作られたと聞いて、無闇矢鱈と好奇心が刺激され、何が何でも登山したいと言い出した。
言い出したら最後、とことんまで意志を押し通す性格は家の者の総てが承知していて、それなら「従者の惣助を従き人としてなら」という条件付で繰り出したのだ。
目黒富士が築かれたのは、目黒不動近くの農地であり、お蘭の家がある浅草からは、かなり離れている。目黒富士に登るため、お蘭は朝早くから家を出て、惣助を伴って遠征したのだ。
登山を開始して、ようやく七合目に差し掛かった。
目黒富士は、頂上の高さ三十丈(約百メートル)。見上げるほどに巨大で、こんなに高いとは、お蘭にも意外であった。
本体は土を盛られているが、五合目から上の山肌には、本物の富士山から持って来たという岩が、びっしりと貼られている。
山肌に沿って、登山道がぐるりと円を描くように刻まれており、道なりに辿ってゆけば頂上に行き着くので、目黒富士の廻りには、蟻の列のように人が輪を描いて登っている。
頂上からは、下り口が再び輪を描いて、麓まで刻まれているから、登ってくる人間と、下る人間がぶつかるという不都合もない。
それでも、ここまで登ると、遠霞に、江戸の町が広々と見渡せた。あともう少しで、頂上に辿り着ける。
お蘭は息を弾ませ、足取りを速めた。