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穀潰しと呼ばれ厨房を追放された私、辺境のパン工房では粉まみれの騎士様が毎朝抱きしめます

作者: 冬野 しほ
掲載日:2026/08/19

痛い。


 フリーダの親指に、厚紙の角が食い込んだ。


「それ、片づけて」


 ドロテアが指したのは銀の皿でも、倒れた燭台でもない。


 白い席札だった。


 バルバラ。


 たった三文字。なのに今日いちばん重い。


「お嬢様の席をなくせ、と?」


「もうお嬢様ではないわ。盗人の席なんて、家族の食卓には必要ないでしょう?」


 椅子は八脚あるのに、人数だけ七人になった。


 数が合わない。給仕にとって数が合わないものは敵だ。パンの籠より先に退治したい。しかし今日の敵はパンではなく、ご主人方の判断力らしい。フリーダには荷が重すぎた。


 食堂の入口では、バルバラが外套も着ないまま立っていた。


「銀の匙は磨きに出しています。買物金は、冬の薪をまとめて買った代金です。受領票を確認していただければ」


「言い訳はいい」


 ルドルフが遮った。


 一回。


 フリーダは皿を置きながら数えた。人の話を最後まで聞かなかった回数だ。少なくとも今夜の一回目。これが最後なら、奇跡として教会へ報告してよい。


「ドロテアが、おまえが持ち出したのを見たと言っている」


「私は磨き屋へ渡しました。ドロテアも、その場に——」


「お兄様、怖いわ。まだ私まで巻き込むつもりなの?」


 家族へ向けるドロテアの声は、砂糖を三杯溶かしたように甘い。


「下がって」


 フリーダへ向ける声は、匙の柄より短かった。


 同じ口から出たとは思えない。だが口は一つ。嘘も一つなら助かるのに、そちらは数えきれない。


「バルバラ。婚約は解消する。今日中に出ていけ」


「せめて受領票を」


「聞こえなかったのか」


 バルバラの指が、腰から下げた鍵束に触れた。


 食料庫、乾物棚、裏門、薪小屋。バルバラは一本ずつ外し、卓上へ並べた。最後の細い鍵だけは、厩の裏口のものだった。


「今夜は冷えます。南へ向かう馬車に乗せてください。それから、塩漬け肉は明日切り分けないと傷みます。フリーダ、朝番の者には——」


「盗人が家の差配をするな!」


 二回。


 バルバラは口を閉じた。外套を借りてもよいかとは、もう言わなかった。


 フリーダは席札を抜いた。


 卓布の上には、その札が隠していた白い跡だけが残った。


    *    *    *


 最初の月例晩餐で、パン籠は卓の半分までしか回らなかった。


「一人分、足りません」


 フリーダが報告すると、ドロテアは自分の皿へ二つ目の丸パンを置いた。


「バルバラが買物金を抜いていたのでしょう。今月から料理を減らして」


「ですが薪も三束足りません。厨房の火を落とすと、煮込みが間に合いません」


「それも減らせばいいじゃない」


 料理を減らし、火も減らす。


 なるほど。次は食べる人間を減らせば帳尻が合う。もう一人減っていた。


 給仕の手も一人分なかった。バルバラは客人ではなかったが、厨房で鍋の順を変え、遅れた皿を拾い、伯父夫婦の薬湯まで食後ぴたりに出していた。


 今夜は冷めたスープが先、焼けていない肉が後、薬湯は忘却の彼方。


「フリーダ。なぜ誰も回っていない」


 ルドルフが眉を寄せた。


「一人いなくなりましたので」


「使用人を補充しろ」


「給金も一人分、足りません」


 ドロテアのナイフが皿に当たった。


「口答えをする給仕には、多すぎるくらいよ」


 謝る人も一人分、足りない。


 最後の一つは、どうやら毎月足りなくなる予定らしい。


    *    *    *


 二回目の晩餐では、保存肉が予定より十二日早く尽きた。


 三回目には仕入れ額が増えたのに、肉の厚みが半分になった。薄切りの向こうにルドルフの困った顔が透けて見える。料理としては失敗だが、観察器具としては優秀である。


 フリーダは席札を書く係だった。


 古い札を捨てなかったのは、厚紙がもったいなかったからだ。決して、バルバラの名を屑籠へ落としたくなかったからではない。解雇されたくない十七歳は、そんな危険な情緒を持ち合わせていない。たぶん。


 札の裏には、フリーダが料理数を控えていた。


 そのさらに下へ、細かな文字が残っている。


 七人に丸パン九つ。朝番四人には小麦粥。骨は翌日の出汁。油は今月二壺、来月一壺。


 バルバラの字だった。


 人数が増えれば足し、減れば引く。塩漬け肉は晩餐だけで割らず、使用人の食事と翌日の煮込みまで数に入れてある。


 フリーダは三回計算した。


 三回とも合った。


 現在の献立札も見た。


 ドロテアの字で、十五個の卵を八人へ二個ずつ、とある。


 一個、勇敢にも無から生まれていた。


    *    *    *


 第四回の晩餐で、ドロテアは客人へ微笑んだ。


「以前の豊かな食卓も、私が献立を考えていましたの。バルバラは私の指示を書き取っていただけ」


「では、塩漬け肉は何人分ずつ切り分けますか」


 フリーダは葡萄酒を注ぎながら尋ねた。


 ドロテアの笑みが止まった。


「そんなもの、料理人が決めることでしょう」


「料理人は、お嬢様の献立札どおりに十六等分したと」


「なら十六よ」


「先月は十四等分でした」


「細かいことをいちいち——」


「厨房の遅番は、何刻からだった?」


 ルドルフが口を挟んだ。


 フリーダは危うく葡萄酒をこぼしかけた。


 質問、一つ。


 これは珍しい。今まで命令ばかりだった男の口から、疑問符が出た。額に入れて飾りたい。


「使用人のことなんて、バルバラに任せていたから知らないわ」


「だが、すべておまえの工夫だったのだろう?」


「ええ。だから、バルバラに任せるよう指示したの」


 便利だ。


 成功は指示した者のもの。失敗は手を動かした者のもの。


 昔の受領票にもドロテアの署名があった。油を安くまとめ買いし、余った予算で冬の薪を確保した月のものだ。


 ドロテアは署名だけは毎回きれいだった。


 計算はバルバラ。交渉もバルバラ。署名はドロテア。


 美味しいところだけ食べる人は、肉の脂身にも似ている。ただし脂身は煮込めば役に立つ。


    *    *    *


 第五回、卵が十八個から十二個へ減った。


 油は二壺から三壺へ増えたのに、揚げ物は一皿も出なかった。


 薪は請求上では四束、薪小屋には二束。


 第六回、厨房の下働き二人への給金が遅れた。同じ週、傷んだ野菜が籠ごと捨てられた。バルバラなら根菜を上、葉物を下になど絶対に積ませなかったのに、ドロテアは「見栄えがよいから」と柔らかな葉の上へ蕪を山盛りにした。


 見栄えは半日もった。


 野菜は三日で潰れた。


「なぜ食費が上がっている?」


 ルドルフは請求書と軽い皿を見比べた。


「料理人が盗んでいるのではなくて?」


 ドロテアが答えると、厨房の扉の向こうで誰かが息を呑んだ。


 フリーダはエプロンの内側を押さえた。


 そこには古い席札が六束。いずれ十一束になる気がした。嫌な予感というものは、たいてい帳簿より正確である。


「バルバラがいた頃は、上がっていなかった」


「お兄様まで、あの女の肩を持つの?」


「質問しただけだ」


 二つ目。


 質問が増えても、席は戻らない。今さら賢くなるのは、焼き上がった後で小麦粉を入れるようなものだ。


    *    *    *


 第七回の晩餐で、フリーダはルドルフの皿の横へ古い席札を置いた。


 表には、バルバラ。


 裏には、七人分の晩餐、使用人九人分の朝食、保存分を分けた計算。


「これは?」


「当時の料理数です。受領票にも同じ割り方がございます」


「ドロテアの署名だ」


「はい。署名は」


 フリーダは現在の札も裏返した。


「十五個の卵を八人へ二個ずつ配る予定です」


 ルドルフは二枚を見比べた。


「一個足りない」


「そこに気づいていただけて、卵も浮かばれます」


「以前の計算を書いたのは誰だ」


 質問、三つ目。


「バルバラ様です」


 ドロテアが席を立った。


「古い紙切れで私を疑うの? フリーダ、その札を捨てなさい」


「卓上にございますので、晩餐が終わるまでは食器と同じ扱いです」


「今すぐよ」


「ドロテア」


 ルドルフの声は低くなった。


 ドロテアは兄と呼ぶ相手へ唇を尖らせただけだった。フリーダへ向けた目は、明日の給金を削る目だ。甘さと刃物の切替が早い。厨房なら重宝したかもしれない。玉葱相手だけなら。


 フリーダは二枚の札を回収した。


 捨てずに、エプロンの内側へ戻した。


    *    *    *


 第八回、砂糖壺が空になった。


「この子が盗み食いしました」


 ドロテアは十三歳の下働きを指した。


「していません」


「口答えした分も給金から引いて」


 家族へは「困ったわ、お兄様」と甘く訴え、下働きへは「黙って」と二文字で切る。砂糖より配分が露骨だった。


 その夜、フリーダはドロテアの部屋へ菓子箱を運ばされた。


 一箱、二箱、三箱。


「余計なことを言ったら、あなたも給金なしで追い出すわよ」


「承知しました」


 承知したのは、菓子箱が三つあることだけだ。口止めまで承知した覚えはない。


 食堂へ戻る途中、ルドルフと鉢合わせた。


「それはなんだ」


「砂糖を盗んだ下働きの部屋へ運ぶ菓子箱——ではございません」


「ドロテアの部屋か」


「はい」


 ルドルフの指が、空いた席の背へ触れた。


「バルバラのときも、こうだったのか」


 フリーダは答えなかった。


 見ていなかった。見ていないことを都合よく証言すれば、ドロテアと同じになる。


 代わりに、古い受領票を一枚出した。


 銀器磨きの預かり証。


 依頼人はバルバラ。受取確認の欄には、ドロテアの署名。


 ルドルフは何度もそこを読んだ。


 説明を遮った一刻は戻らない。紙は謝ってくれない。フリーダも代わりには謝らない。


    *    *    *


 第九回の晩餐前、ルドルフはバルバラを乗せた馬車の記録を取り寄せた。


 南の街道宿で火災に遭い、馬車も宿も焼失。


 生存者なし。


 当時届いた報告と同じだった。


「遺体は確認されたのか」


「焼け跡がひどく、人数までは」


 使者の答えに、ルドルフは唇を噛んだ。


 第十回には、料理が出る前からバルバラの旧席へ手を置いていた。


 パンが一人分、足りなかった。


 給金が一人分、足りなかった。


 謝る人が一人分、とうとう自分だと気づいたらしい。


「もし、生きていたら」


 ルドルフが言った。


 誰も続きを引き取らなかった。


 もし、の後へ何を置いても遅い。


 復職。復縁。家族。


 どれも空席へ勝手に座らせる言葉だった。


    *    *    *


 第十一回の晩餐は、妙に豪華だった。


 厚い肉、白パン、葡萄酒。ひと月前には消えたはずのものが、卓へ堂々と帰還している。


 めでたい。食材には帰る家があった。


 給仕を終えたフリーダは、搬出口から車輪の音を聞いた。


 外ではドロテアが、食料箱を自分の馬車へ積ませていた。


「急いで。銀器は布で包んで、葡萄酒は座席の下へ」


 使用人への声は短い。命令がよく弾む。


「何をしている」


 ルドルフが搬出口に立った瞬間、その声は痩せた。


「お兄様。これは、その、使用人が勝手に」


 甘さまで半分になっている。


 フリーダは箱の上の紙を取った。


「こちらに『ドロテアの馬車へ積むこと』とございます」


「フリーダが書いたのよ!」


「署名はドロテア様です」


 過去の手柄に付けた署名が、現在の盗みにもきれいに付いていた。


 フリーダは十一束になった席札をエプロンの内側へ戻した。ようやく数が合った。気分はまるで合わないが、そこは後日調整でよい。


「この子、私を陥れようとしているの。解雇して。そうすれば全部——」


「フリーダを解雇すると言って、口止めしたのか」


「違うわ、お兄様。私は家のために保管していただけ。バルバラだって同じことを——」


「同じではない」


 ルドルフは銀器の箱から預かり証を取り出した。


「バルバラは磨きへ出した。おまえは自分の馬車へ積んだ」


「家族を盗人扱いするの?」


「おまえは、バルバラをそう扱った」


 ドロテアの口が閉じた。


 ルドルフは使用人に箱をすべて降ろさせた。銀器が一つずつ食器庫へ戻り、葡萄酒が一本ずつ棚へ戻る。最後にドロテアの手から家の鍵を受け取った。


「持ち出した金品は返済してもらう。私物だけ積め。今夜、この家を出ろ」


「お兄様!」


「私はおまえの言葉を確かめず、バルバラの言葉を遮った。その責任までおまえに渡すつもりはない。だが、おまえを家族だからと庇えば、同じことをもう一度する」


 ドロテアは泣かなかった。


 代わりにフリーダを睨み、自分の宝石箱を抱えて馬車へ乗った。食料も銀器も葡萄酒もない馬車が門を出る。


 現行犯の晩餐は、冷める前に終わった。


 翌朝、ルドルフは銀器磨き、食料商、使用人たちを集め、バルバラへの告発が誤りだったと告げた。盗人という記録を撤回し、自分の署名で訂正文を出した。


 そして謝罪状を書いた。


 返事を求める文は入れなかった。


 宛先は空白だった。


 死者への訂正にしかならないと知りながら、それでも封をした。


    *    *    *


 煙が喉へ刺さるたび、バルバラは一つ仕事を減らした。


 まず、泣き叫ぶ弟を黙らせる仕事は捨てた。泣けるなら息はある。


「お姉ちゃんを荷馬車へ乗せて。あなたも乗るの」


「でも馬が!」


「馬は私がします。三つ数える前に動いて。一、二——」


「三!」


「今のは二です!」


 バルバラが二枚の濡れ毛布を姉へ渡した。姉は一枚を弟へ巻き、自分も一枚を被って、二人で空の荷馬車へよじ登る。


 厩では、怯えた馬が絡んだ引き綱を引き絞っていた。


 定位置に馬具包丁がある。宿の主人が毎朝研いでいたものだ。バルバラは壁から取り、綱へ刃を入れた。


 一度では切れない。


 二度。


 三度。


 切れた綱が頬を打った。馬を外へ追い、残った一頭を荷馬車の轅へつなぐ。


 次は車輪止め。


 煙の下へ身を伏せ、木片へ指をかけた。熱い。外れない。蹴る。もう一度。


 木片が転がった。


「坂を下ります! 荷台の縁を持って!」


 荷馬車が動き出す。


 速すぎる。


 バルバラは手綱を引いたが、馬も煙に怯えていた。道の先から騎馬が駆けてくる。先頭の男が外套を翻し、馬を寄せた。


「荷馬車を止めてください! 子どもが二人! 右の車輪へ回って!」


「わかった!」


 事情を尋ねない。


 素晴らしい。燃えている厩で事情聴取をする人は、だいたい長生きしない。


 男——オイゲンは自分の馬から飛び降り、荷馬車の横を走った。手綱をつかみ、警備隊の二人へ車輪を押さえるよう叫ぶ。


 荷馬車が止まる。


「子どもを先に。姉は歩けます。弟は足を打っています」


「あなたは」


「話は外で。水桶の脇に、もう一人いたはずです」


 オイゲンは反論せず、隊員を向かわせた。姉弟を降ろし、弟の足を布で固定する。


 最後にバルバラが荷台から降りようとして、膝が折れた。


「全員、います」


「あなたも人数に入れろ」


 即答だった。


 オイゲンの腕が背と膝裏へ回る。


「私は歩けます」


「今は却下する」


 実直な顔で言い切られ、バルバラは一歩分だけ抵抗を諦めた。


 その一歩が、火の外まで続いた。


    *    *    *


 それから一年近く後、再建した街道宿の開業晩餐には、椅子より人が多かった。


「主人席は私!」


「姉ちゃんは十二歳だから駄目!」


「十三歳よ!」


「じゃあ僕は六歳!」


「五歳!」


 宿場の姉弟が中央の席札を取り合っている。


「二人とも、それは置いてください」


 バルバラが鍋を運びながら言うと、二人は同時に札から手を離した。


 主人 バルバラ。


 名を書かれた厚紙が、卓の中央に立っている。


 厨房では焼きたてのパンが膨らみ、豆と塩漬け肉の煮込みが湯気を上げていた。オイゲンは腰に予備鍵を下げ、樽を運び、薪を割り、客の馬までつないでいる。


「オイゲン様、それが終わったら座ってください」


「あと一樽だ」


「開業初日に騎士を働かせすぎだと評判になります」


「もう騎士の勤務時間は終わった」


「では宿の手伝いを働かせすぎだと評判になります」


「その肩書なら、勤務時間はバルバラ次第だ」


 厄介な手伝いを雇ってしまった。


 給金を尋ねれば食事でよいと言い、部屋を尋ねれば物置の隣でよいと言い、休日を尋ねればバルバラの休日に合わせると言う。


 条件が良すぎる求人には裏がある。これは家政を担ってきた者の常識だ。


 ただし裏側から出てくるのが、薪を抱えた大柄な騎士だとは聞いていない。


「バルバラさん、手紙!」


 姉が封書を持ってきた。


 ルドルフからだった。


 汚名を公に撤回したこと。ドロテアが金品を返済し、家を出たこと。もし望むなら、家政を任せていた以前の立場へ復職できること。


 最後に、短い謝罪。


 返事は求めない、とあった。


 バルバラは読み終え、封筒へ戻した。


「帰るのか」


 オイゲンが樽を床へ置いた。


「いいえ」


 迷わなかった。


「私の席は、ここにありますから」


 手紙は帳場の引き出しへ入れた。燃やしもしない。返事も書かない。受け取った事実だけをしまって、鍵をかけた。


 それで終わりだった。


 戸口に正装した使者が現れたのは、全員が席へ着こうとしたときだ。


「オイゲン様。ご実家よりお迎えに参りました。家督継承の用意が整っております」


 食堂が静かになった。


 オイゲンは腰の小袋から、重い印を取り出した。


 バルバラも見たことがある。彼がこの宿へ来てから一度も使わず、それでも返さずに持っていた家督印。


 使者が両手を差し出す。


「ご決断を」


「ああ」


 オイゲンは家督印を、その手へ置いた。


「返す。家督は継がない」


「ですが、上座も財産も——」


「必要ない」


 実直な声だった。


「私が欲しい席は、別にある」


 オイゲンは懐から一枚の席札を出し、姉弟が取り合っていた札を卓の中央へ置き直した。


 主人 バルバラ。


 その隣へ、彼の字で書かれた一枚を置く。


 夫 オイゲン。


 バルバラは息を吸ったまま、吐き方を忘れた。


「オイゲン様。これは、順番が」


「わかっている。だから今から頼む」


 彼はバルバラの前で膝をついた。


 宿の者も、街道警備隊の仲間も、姉弟も見ている。使者は家督印を抱えたまま立ち尽くしていた。


「火傷の跡も、煙で咳き込む夜も、仕入れの値切り方も、余った骨を翌日の出汁へ回すところも知っている」


「後半は求婚に必要でしょうか」


「必要だ。私は、あなたの仕事を飾りとして褒めたいのではない。その仕事で誰かを食べさせ、自分も生き延びたバルバラと暮らしたい」


 軽口が喉まで来て、止まった。


 オイゲンの指には、薪割りでできた新しい傷があった。


「実家の上座より、あなたの隣がいい。今日だけではない。忙しい朝も、客の来ない冬も、鍋を焦がしてあなたに叱られる日も、そこを私の席にしてほしい」


「鍋を焦がす予定なのですか」


「努力はする」


「どちらに」


「焦がさないほうへ」


 バルバラの頬を、熱いものが伝った。


 火事場の煙より困る。あのときは仕事があった。毛布、姉弟、馬具包丁、車輪止め。順に片づければよかった。


 これは何から片づければよいのだろう。


 彼の家督。自分の傷。夫と書かれた札。隣にいてほしいという、あまりにも大きな申し出。


 片づけなくてよいのだと気づくまで、少しかかった。


「私の隣は、ずっと空けておきます」


 オイゲンの顔が強張った。


「困ります」


 バルバラは腰の鍵束から、一本を外した。


 予備ではない。


 再建した宿の玄関も、食料庫も、二階の住居も開く正鍵。


「毎日そこにいていただく予定ですから」


 鍵を、オイゲンの手のひらへ置いた。


「お受けします、オイゲン」


 初めて敬称を外した名が、食堂の端まで届いた。


 姉が口を両手で覆い、弟が「七人家族!」と叫んだ。


「六人よ!」


「今日から一人増えた!」


「元が五人!」


 数はひどい。


 けれどオイゲンは立ち上がり、鍵を握ったまま、自分の席札をバルバラの隣へ置き直した。隙間がないほど近く。


 バルバラはそれを離さなかった。


「もう、一人分も足りなくありません」

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