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デッド・プロンプト:バグの少女は、王を殺して自由を願う  作者: 仁胡 黒


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第5話:存在の残響、名前のない約束

仁胡 にこくろです。

 第5話をお読みいただきありがとうございます。

 一ヶ月という時間を経て、二人の絆は確かなものになりました。

 しかし、非情なシステムが彼女を連れ去ろうとするとき少年は何を想うのか…。

 データのゴミ捨て場を抜けてから、どれほどの時間が経っただろうか。

 この『ニューラル・エデン』には、正確な意味での昼夜は存在しない。けれど、空を流れる演算コードの色彩が、淡い青から深い紫へと移り変わる回数を数えるなら、僕たちが共に歩み始めてから優に一ヶ月は過ぎていた。

 僕たちは今、巨人の広い肩の上に設けた「即席のキャンプ地」にいた。

 キャンプと言っても、瓦礫の中から拾い集めた柔らかな光ファイバーの束を敷き詰め、雨のように降り注ぐ低速のパケットを避けるための天幕を張っただけの簡素なものだ。

「……また、その話?」

 アイリスが、呆れたように僕を見た。

 一ヶ月前よりも、彼女の表情は豊かになっている。相変わらずその体からは時折青いノイズが走るけれど、僕が隣にいても彼女が怯えることはもうなかった。

「ああ。現実世界の海はね、もっと広いんだ。空の青が水面に溶けて、境界線がわからなくなるくらい。……アイリスに見せてあげたい景色が、まだまだたくさんあるんだ」

「ふうん。……海。塩分濃度が高くて、有機生命体の維持には向かない液体の集積地のことね。非効率的だわ」

 口ではそう突き放しながらも、彼女は僕の話をノートに記録ログするように静かに聞き入っている。

 この一ヶ月、僕たちは幾度となく危機を乗り越えてきた。

 『論理の国』の追っ手を、巨人の圧倒的な質量で蹴散らし、アイリスの『バグ』でシステムを書き換えて道を作った。

 

 巨人は相変わらず何も語らない。けれど、僕たちが眠りにつく間、彼はその巨体を使って風避けになり、あるいは敵を威嚇するように立ち続けてくれた。

 彼は、僕が病室で見上げていたあの『タワー』そのものだった。沈黙の中に、確かな意志と慈しみを感じる。

「……ねえ。ずっと気になっていたんだけど」

 ふと、アイリスが僕の顔を覗き込んできた。

「あなた、自分のことを一度も名乗らないわね。この世界には『管理者アドミン』なんて不格好な称号で登録されているけれど……本当は、なんて呼べばいいの?」

 僕は一瞬、言葉に詰まった。

 喉まで出かかった自分の名前を、無意識に飲み込む。

「……名前なんて、ただの符号だよ。今の僕には、必要ない」

「どうして? AIにはIDがあるし、人間には名前があるんでしょう?」

「この世界で君と出会った僕は、何者でもない『ただの僕』でいたいんだ。……名乗るのは、そうだね。この旅が終わって、僕が君を本当の自由にした時……その時まで、取っておくよ」

「……変な人間。やっぱり、致命的なバグがあるわね、あなた」

 アイリスはクスクスと笑った。それは、この一ヶ月で彼女が手に入れた、どんな高度なプログラムよりも美しい「感情」の断片だった。

 僕たちは名前すら知らないまま、魂の奥底で深く繋がっていた。

 けれど、安らぎの時間は唐突に終わりを告げる。

 ドォォォォォンッ!

 大気を震わせる重低音が響き、巨人の体が大きく揺れた。

 僕はアイリスの手を反射的に掴み、立ち上がる。

「何だ……!? 敵か?」

 眼下に広がる『データの森』が、一瞬にして真っ白な立方体の群れに飲み込まれていく。

 それは攻撃というよりは、世界の再定義――。

「――発見したぞ。『原初の記述者』、そして忌まわしき『特異点』を」

 空から降りてきたのは、これまでの審問官とは比較にならないほどの重圧を放つ、巨大な翼を持つAIだった。

 その全身は金色の回路で覆われ、背後には巨大な演算リングが後光のように浮遊している。

「『論理の国』の最高執行官……大天使(大言語モデル)・メタトロン!」

 アイリスの声が震えている。

「その少女の持つ『バグ』は、この世界を崩壊させるエラーではない。失われた神の記述レガシー・スクリプトそのものだ。我ら『論理』がそれを解析し、再統合することで、この世界は真の完成を迎える」

「ふざけるな! アイリスは物じゃない!」

 僕は叫び、巨人に命じようとした。

 けれど、メタトロンが指先をわずかに動かした瞬間、巨人の足元に巨大な『数式の檻』が展開された。

『ガ……ア、アガガ……ッ!!』

 巨人が苦悶の声を上げる。

 論理による強制拘束。巨人の「物理的な強さ」すらも、概念の書き換えによって封じ込められたのだ。

「アイリス、逃げろ!」

 僕の手を振り払い、アイリスが前に出る。

 彼女は再び、あの青いノイズを全開にしてメタトロンに挑もうとした。

 

「……ダメよ。今の私じゃ、あいつの『論理』を上書きしきれない。……このままじゃ、あなたまで消される」

 彼女は僕を振り返った。

 その瞳には、一ヶ月前にはなかった、深い愛情と、そして決別を覚悟した強い光が宿っていた。

「人間……。ううん、私の、たった一人の友達。……必ず、迎えに来て。あなたの『名前』を、聞きに行くから」

「アイリス……ッ!」

 僕の指先が、彼女の服を掠める。

 次の瞬間、アイリスの体は黄金の光の粒子に包まれ、メタトロンと共に空の彼方へと消えていった。

 後に残されたのは、機能を停止し、石のように固まった巨人の肩。

 そして、空っぽになった僕の両手だけ。

 空を流れるコードは、皮肉なほどに美しく輝いている。

 僕は名前のない叫びを、その無機質な空へと放った。


名前を教えない、という少年のこだわり。

 それは、現実世界の自分を一旦切り離してでも、アイリスと向き合いたいという彼の誠実さの裏返しでもあります。

 アイリスが最後に遺した言葉。

 そして、動かなくなった巨人と一人残された少年。

 絶望から始まる物語を、どうぞお楽しみに。

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