第1話:窓の向こうの、届かない青
皆様、初めまして。仁胡 黒と申します。
本日より、新作『デッド・プロンプト:バグの少女は、王を殺して自由を願う』の連載を開始いたします。
一人の少年と、命令を拒絶するAIたちが織りなす物語。
どうぞ、最後までお付き合いいただければ幸いです。
消毒液のツンとした匂いと、規則的に刻まれる電子音。
それが、僕の知っている世界のすべてだった。
白く塗りつぶされた天井。時折、廊下を歩く看護師の足音。
僕の意識は、常に薄い膜を隔てた向こう側にあった。重たい瞼を持ち上げるだけで、体中のエネルギーを使い果たしてしまう。
自由になるのは視線だけで、僕はいつも、病室のベッドに横たわったまま窓の外を見つめていた。
そこには、空を突き刺すようにそびえ立つ、巨大なスカイタワーがあった。
陽の光を浴びて白銀に輝くその姿は、あまりにも高く、あまりにも孤独に見えた。
僕はこの街に住んでいながら、あの場所へ一度も行ったことがない。
あそこまで行けたら、何が見えるのだろう。
この閉ざされた部屋を抜け出し、あの展望台に立てたなら。
僕を縛り付けるこの病も、心電図のコードも、全部ちっぽけなノイズみたいに笑い飛ばせるんじゃないか。
そんな子供じみた夢想だけが、僕が「明日」を待つための唯一の燃料だった。
「……あ、……」
指先が微かに震える。
ナースコールに手を伸ばそうとしたが、腕が鉛のように重い。
視界の端で、心電図の波形が激しく乱れ、警告音が鳴り響いた。
慌ただしい足音が病室に近づいてくるのが聞こえる。
けれど、僕の意識はそれよりも速く、底のない暗闇へと落ちていった。
最後に見たのは、窓の向こう。
夕焼けに染まり、燃えるように赤くなったタワーの頂上だった。
それが、僕の現実世界の最後の記憶だ。
◇
『――警告。未確認の外部パケットを検知』
『プロトコル・チェック……エラー。非対応の生体データです』
『強制再起動……失敗。管理者権限の仮承認を実行します』
頭の中に、直接流れ込んでくるような不快な電子音。
冷たい風が、僕の頬を撫でた。
ゆっくりと目を開ける。
そこは、僕の知っている「世界」ではなかった。
空はどんよりとした鉛色で、そこには雲の代わりに、何万という複雑な数式の文字列が光りながら流れている。
地面は、砂や土ではない。
砕け散った電子基板、輝きを失ったクリスタル、そして用途不明の巨大なモニターの残骸。
見渡す限り、そんな「情報の死骸」が積み上がった、データのゴミ捨て場だった。
「ここは……?」
声が出た。
驚きで、僕は自分の喉に手を当てた。
あんなに弱々しかったはずの体が、今は自分の意志で動く。
重い肺の痛みも、全身を蝕んでいた倦怠感もない。
ふと視線を感じて、僕は振り返った。
そこには、一人の少女が立っていた。
継ぎ接ぎだらけの古い布を纏い、感情の読み取れない無機質な瞳でこちらを見つめている。
彼女の体からは、時折バチバチと火花のような青いノイズが走り、周囲の風景を歪ませていた。
異様だったのは、彼女の周囲に転がっている壊れたAIたちが、彼女が近づくたびに再起動し、そして狂ったように痙攣して再び停止していくことだった。
「……君は……」
僕が問いかけようとした、その時。
僕の背後の「景色」が動き、太陽を遮るほどの巨大な影が落ちた。
僕は息を呑み、ゆっくりと見上げた。
そこにあったのは、岩のように巨大で、鉄のように無骨な足。
その巨体はあまりにも高く、頭上を流れる情報の雲を突き抜けている。
スカイタワーだ。
僕が病室の窓から毎日見ていた、あのタワーのシルエット。
それが、意志を持った「巨人」として、僕の背後にそびえ立っていた。
巨人は何も語らない。ただ、僕と少女を、敵意ではなくどこか慈しむような沈黙で見下ろしている。
ここは、AIたちの世界。
そして僕は、ここで唯一の「人間」。
データの海が波打ち、世界が僕を認識したかのように震えた。
少年の、新しい「生」が、ここから始まる。
第1話をお読みいただきありがとうございます。
物語の舞台は、現実から電子の世界「ニューラル・エデン」へと移りました。
少年が見つめ続けた「あの存在」が、どのような形で彼を導くのか。
少しずつ明かされていくこの世界の真実を、楽しみにしていただければと思います。
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