夏の始まり③
その日、残夏は初めて霊力操作の授業を受けた。葉っぱなどの自然物に自身の霊力を纏わせる授業だ。
この世界では、初歩中の初歩らしく、高専に通う者なら当たり前のように出来るらしい技術。だけど、残夏にそんな経験はない。
周りが各々の霊力を使って葉をそれぞれの色に輝かせていくのを見ながら、残夏は途方に暮れていた。
しかし頼るべき担任も残夏に近づいてきてくれない。凪は頑張って教えてくれようとしたが、説明は酷く抽象的で要領を得なかった。
結局その日、残夏は周囲の密やかな嘲笑の中で自身の葉を輝かせることは出来なかった。
そして帰り道。いつも通り凪と教室を後にしようとしてた残夏はいつもなら無視できるような囁き声につい足を止めてしまった。
「霊力も使えないんだって。」
「なんで高専にいるんだろうね?……やっぱり14番隊は変な部隊だよ。きっと役に立たない奴らの寄せ集めなんだ。」
くすくすと耳に届く笑い声に、残夏の眉が寄る。確かに残夏は霊力も使えない落ちこぼれだ。使い方すら分からない。
だけどこれまで関わってきた14番隊の人たちは皆んな暖かかった。役に立たないなんて事、絶対にない。変な部隊なんかじゃない。
「……そんな事ない。」
気がつけば、残夏は声に出していた。まさか残夏が反論してくるとは思っていなかったのだろう。嘲笑していたクラスメイト達が少しだけ騒つく。
「な、なんだよ急に!本当のことだろう!?」
「違う。オレは確かに落ちこぼれで、ダメな奴だけど……皆んなは違う。14番隊は役に立たない人間の寄せ集めなんかじゃない。」
「残夏くん……。」
隣で凪が残夏の腕を掴んだ。だけどもう止まれない。一度言ってしまえば溜まっていたものが溢れ出してくるようだ。
「は、よく言うぜ化物!俺は8番隊だけど、隊長も副隊長も言ってるよ。あそこは落ちこぼれがいく部隊だって。隊員の西廣たちも、副隊長の柳瀬も皆んな実力もない負け犬だって!」
「負け犬なんかじゃない!清治さんも、梓さんも、圭さんも、柳瀬さんも、凪も皆んなしっかりしてて凄い人達だ!」
「蓮池が凄い訳ないだろう!!そいつも化物だぞ!」
「なんだよそれ!凪に謝れ!!」
売り言葉に買い言葉。手が出るのも早かった。あっという間に揉み合って、殴り合いに発展した。
凪や周りは止めようとしてくるけれど、残夏は止められなかった。せめて、凪に対する言葉だけは謝らせたかった。
そうしてお互いの体力も尽きて、身体中の痛みに顔を顰める頃、そいつは決定的なひと言を叫んだ。
「くそ……っ、14番隊なんて化物ばっかりのお荷物部隊だ!!お前らの隊長の亜月玲なんて司令官に取り入っただけのお飾りの癖に!!!」
その言葉に残夏の頭は一瞬にして真白に染まる。隊長。
まだ会ったことのない、話だけ聞いて残夏が会ってみたかった隊長。
きっと暖かい人だとそう信じている。なのに。
「いま……なんて……、」
「だから、14番隊の隊長の亜月玲は隊長の器なんてないお飾りだって言ったんだよ!!」
亜月玲。あの日、残夏を踏みつけて残酷に笑ったあの人。あの人が、
ーー14番隊の隊長……?
咄嗟に見た凪の焦り顔に残夏の顔から急速に血の気が引いていった。
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「待って!待ってよ残夏くん!!」
凪の声を後ろに聞きながらも、残夏は足を止めずに駆け続けた。何かの間違いであったらいいという願いは凪の必死な様子で砕かれる。信じていたものが砕けていく。
だけど、それでも残夏は清治の言葉が聞きたかった。どうして黙っていたのか、きっと清治なら納得のいく説明をしてくれるはずだ。
そう願って、駆けて、そうして14番隊の扉を開いたそこに広がっていたのは残夏が見たくなかった光景だった。
「え、残夏?どうして……こんなに早く……。」
驚いた表情の清治の隣に並ぶ、清治よりも少しだけ背の低い華奢な男。肩までの黒髪と白い肌。それらを隠すように掛けられた不恰好で時代遅れの分厚い眼鏡。薄らとした記憶が鮮明に頭に映し出される。
ああ、この人が、亜月玲が、14番隊の隊長なのだ。そんな残夏の視線に気付いたのだろう。清治が慌てて口を開いた。
「ざ、残夏!落ち着いて……!玲はーー、」
「騙してたんですね。」
自分が思うよりもずっと低い声が落ちる。それに清治は一瞬怯んだように息を呑んだ。
「違うよ、僕たちは、」
「嘘つき!……信用……してたのに……。」
「待って、残夏!!」
清治の静止の声も振り切って、追いついてきた凪の横を擦り抜けて、残夏はただ駆け続けた。どこか、ここじゃない何処かに行きたかった。
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やってしまった。遠ざかっていく残夏に、清治の頭に真っ先に浮かんだ言葉はそれだった。
玲と残夏の確執は状況を全て見ていた清治にも十分によく分かっていた。
だけど、あれは仕方がなかったのだ。司令官である東條の政敵である南宮の発言は、あの場では正しかった。
ハグレモノを討伐する組織として、ハグレモノと一体化した少年を保護観察するなど言語道断なのだから。だからあの場で残夏を救うには、南宮以上の残酷さを持って有益さを証明しなければならなかった。そうでなければ、ハグレモノを毛嫌いしている人間から賛同など得られなかっただろう。
残夏は残酷な人間の監視下に置かれて、道具扱いされる。そういう筋書きが必要だった。
まあ、2割くらいは玲の加虐嗜好が入っていたとも言えなくはないのだけれど。まあ、それは置いておいて。
残夏に隊長について黙っていたのは意図的だ。あの後で事の次第を説明したところで残夏は受け入れられなかっただろう。だから、時間を置いて、残夏の回復を優先させた。
そして今日、面と向かって話し合う事で歩み寄れれば良いと案を練っていたのにこのザマだ。
残夏と凪はいつもゆっくり帰ってくるから今日はまだ時間があると思っていた。清治の認識の甘さがこの事態を生んだのだ。
焦燥感に騒つく清治の耳に、くすくすと軽い笑い声が響く。常と変わらず楽しげな己の隊長に清治は眉が寄るのを感じていた。
「ちょっと、玲!」
「ふふ、だって『嘘つき』って。信用されてるんだね。」
「よく言わないでよ……!どうしよう、残夏、あんなに霊力が乱れて……すぐ追いかけないと……。」
「まあ、落ち着いて。……梓、圭。残夏と凪を追いかけてくれる?何かあったら俺たちが駆けつけるまでは持ち堪えさせて。柳瀬さん、東條さんに連絡してくれますか?」
焦る清治とは裏腹に、玲は楽しそうな様子でテキパキと指示を与えていく。
成り行きを見守っていた3人は、玲の言葉にすぐ行動を起こした。
去っていく3人の後ろ姿を眺めながら、最後に玲は清治に顔を向けると柔らかく笑う。
「清治は俺についてきて。大丈夫。問題ないよ。」
その言葉に、どうしようもなく落ち着くのだから困ったものだ。清治は軽く頷くと、玲と共に執務室を後にした。
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どうして、どうして、どうして。そんな言葉が頭に渦巻く。信じてたのに、もしかしたら此処が残夏の居場所かもしれないと思えていたのに。
清治も凪も皆んな、残夏を騙していたんだ。残夏を人間扱いして、気持ちを浮上させて、そこで絶望させて何も考えない道具にしたかったんだ。
苦しくて苦しくてどうしようもない。追いかけてくる凪の声も何も聞こえない。自分の中の黒いもので全てが塗りつぶされていく。
残夏は苦しくなってその場に座り込んだ。ずっと駆け続けたせいで肺も喉も痛くて足が震える。
だけどもう此処にいたくない。ここにいたくない。
ーー何処か、消えたい……。
そんな残夏の願いに呼応するように、耳元で誰かが囁いた。
『消えたいのか?』
男とも女とも、老人とも子供ともつかない声。闇の底で蠢くみたいに、鈴の音が鳴り響く。残夏はその声に意識を集中させて応えた。
ーー消えたい。此処から消えてなくなりたい。
『では、力を使え。使えば全て消えていく。』
力?……ああ、そうか。残夏の中にある力。自分だけじゃない、沢山の何かが蠢いて鈴を鳴らす。この力があれば、残夏は。
「……なんだ。簡単な事だったんだ……。」
白い紙を墨で塗りつぶすように。残夏の世界が黒一色に染まった。
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清治が現場に辿り着いた時には辺りは重たい瘴気に包まれていた。幸い、梓と圭が術式で止めてくれているようで被害は少ない。
ただ、2人の顔を見るに限界は近そうだ。そんな中でも、隣の男は飄々とした様子で、興味深げに瘴気を観察している。
「玲……。本当に大丈夫なの?」
「うん?……大丈夫大丈夫。まだ誰にもバレてないし、楽にも協力頼んでるし。この位なら握り潰せるよ。」
「そうじゃなくて、残夏のこと。」
「ふふ、それはあれだね。やってみないと分かんないかな。」
この後に及んでこの軽さ。若干頭が痛くなるが、実際の対処は早い。
広報宣伝部隊である4番隊に協力を要請して、もし何かあってもある程度はパフォーマンスだと誤魔化せるように根回しはした。
司令官である東條にも連絡は取ってある。それにまだ実害は何処にも出ていない。
清治は4番隊が二つ返事で協力してくれた事を思い出して息を吐いた。こういう時、普段のサポート活動が活きている事を実感できる。
「清治、いける?」
「あれくらいなら……。でも玲が本気出したら保たないと思う。」
「大丈夫。俺、霊力ちょっとしか使わないから。」
その言葉に清治は頷いてみせる。本当は、ちゃんとサポートしなければいけないんだろうが、隊長格の本気なんて清治には荷が重い。
ただ、少しだけ心配は残る。玲なら大丈夫だと分かってはいるのだけれど。
清治は雑念を払うように息を吐き出すと、梓と圭に声を掛けようとして、こちらに駆けてきた小柄な影に動きを止めた。
凪だ。ずっと残夏に声をかけ続けてくれていたらしい。憔悴している様子がアイマスクをしていてもよく分かる。
「玲ちゃん!!」
勢いよく玲に抱きつくのに、玲は気にした風もなくその柔らかい髪をくしゃりと掻き混ぜた。
「よしよし。大丈夫だよ、凪。だから下がってて。」
「うん。……玲ちゃん、残夏くん良い子だよ。ぼくずっと一緒にいたんだ。ぼくが変でも怖がらないで側に居てくれた。ぼく、残夏くんと一緒にいたい。だから……だから、助けてあげて。」
切実な声だった。凪らしく、飾らない素直な言葉に玲が小さく微笑む。
玲はそのまま自分の眼鏡を外すと、凪の頭にそっと置いた。
「分かってる。……必ず助けるから。」
言葉は波紋のように、アイスブルーの輝きに溶けた。
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残夏は何処かいい気分だった。ずっとモヤモヤしていたものが消え去って、身体が軽い。少しばかり干渉されて動きにくいが、それさえも可愛らしい児戯のようなものだと笑えた。
もう少しすればこの干渉も消えて、残夏は真に自由になれる。そうしたら、先ずは視界の全てを黒く塗り潰してやろう。何も届かない程美しい黒に。
その為にも、残夏は無数の手を瘴気で形作る。霊力の扱いはとても簡単で、一度覚えてしまえば息をするよりも容易く残夏の願いを叶えてくれた。
周りに張られた結界をその手でノックする。ほら、あと少し。あと少しで、残夏の嫌いな世界は全て消えてくれる。
しかし、そう思ったのも束の間。自分の周りを阻んでいた結界が消えた瞬間、それまでの結界よりも強力なものが残夏の周りに幾重にも張り巡らされた。
これではとてもじゃないが窮屈だ。残夏は少し強めに結界をノックする。
しかし中々力は弛まない。それに苛立ちながら力を込めていれば、いつの間にか目の前に誰かが立っていた。
「何やってるの?」
涼しげな声は残夏に安堵と寒気を同時にもたらす。それに気を取られて、残夏は結界を叩くのをやめた。
ーー誰だっけ、この人……。
なんだか記憶が曖昧でよく分からない。だけど、寒いのに暖かい気がするから少し話をしてもいいや。
「此処から出たいから……。」
「そう。どうして出たいの?」
「だって……此処は、居場所じゃないから……。」
そう、そうだ。此処は自分の居場所じゃない。だから此処から出なくちゃ。全部黒く塗り潰さなきゃ。
そうしたら、きっと、きっとーー、
ーー……?
誰の、居場所を探してるんだっけ?あれ?自分は、自分?自分って、なに……、
「教えてやろうか?」
先程までよりも冷たい声に息を呑む。何も思い出せないけれど、この声は。こいつは、
「お前は、化物だよ。」
寒気に身体が震えた。見上げた先の笑みに、危機感が湧き上がってくる。こいつだ。こいつは、この男は。
「亜月、玲……!」
見上げた先で玲が楽しげに笑った。
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手を伸ばして、逃げ道を塞ぎ、叩き潰す。しかしそのどれも当たらない。亜月玲には当たらない。まるで手品のように、全ての手を掻い潜って余裕そうに微笑む。
「ああ、ああ、ああああっ!!!!」
オレたちの脅威だ。この男は殺さないと、殺さないと、じゃないと怖くて堪らない。
だけど何ひとつ当たらない。どんな攻撃も、全部。全部。全部。
そのまま玲は近づいてくると、耳元でそっと囁いた。
「どうした?化物。怖いのか?」
その声にビクリと身体が跳ねる。こいつは怖い。最初に見た時から、こいつだけはマズイと思っていたのだ。だから、だから、
「……殺さないと。」
逃げられないように、全方位から手を伸ばし、叩きつける。蟻すら逃さないように。それに仕留めたと笑おうとしたその瞬間、軽い音が響いて全ての手は跡形もなく消え去った。
それに、オレたちの、私たちの、我らの顔から血の気が引いていく。玲を見れば、片手に銃を持ったまま軽い足取りで近づいてきた。
対してこちらの身体はまだ未熟で霊力を直ぐには再構築できない。ぎり、と歯を食いしばっても笑みが深くなるだけだ。
「さて……化物。そろそろ残夏を返して貰おうか。」
「返す?返すだと?……こいつは我らに願ったのだ。全てを消すための力が欲しいと。それに手を貸してやっただけ。この身体はもう私たちのものだ。」
「ふふ、ハッタリは要らないよ。自分たちのものになってるのなら俺を殺してすぐに逃げ出せばいい。……まだ残夏はちゃんと抵抗してるんだな。」
玲が手を差し出す。我らの悪意よりも尚深く、美しい死そのもののような男。その手に導かれるように、身体が勝手に玲の方へと震える手を伸ばした。
「残夏。聞こえているだろう。化物でいいのか?このまま消えていいのか?お前は居場所が欲しいんじゃないのか?」
だって化物なのに。違う。化物なんかじゃない、消えたくない、だって、オレは、残夏はーー、
「小鳥遊残夏。お前は人間だろう!」
その言葉に更に身体の震えが大きくなる。少しずつ消したはずの意識が戻ってくる。
たった、これだけの事で。
抵抗するように鈴の音を鳴らした。大きな音を。全てが消えるくらいに。
しかしそれすらも呑み込んで、残夏の意識が浮上していく。鈴の音に、玲の声は聞こえないけれど代わりに甘い香りがする。甘くて、暖かくて、辿っていけば光が見えてきた。
だけどそれを阻むように、黒い手が残夏を掴んで底に沈めようとする。
しかし、その手は柔らかい何かに切り取られ残夏の代わりに底に沈んでいった。そのまま残夏は手を伸ばす。
白い光のような手のひらは残夏を掴むと引きずりあげてくれた。
「あ……、」
「帰ってこれたね。良かった。気分は?」
パキン、と音がして残夏の身体に残夏の魂がしっかりと収まった感覚になった。
驚いて周りを見回せば残夏の視界に薄青色の花弁が舞う。
いつの間にか日は暮れて、月明かりが差し込んでいた。その真ん中で残夏の手を取って玲が笑う。輝くような花弁に包まれて、その顔はこの世のものではないほど美しい。
特に宝石のように煌めくアイスブルーの瞳が何よりも美しかった。ああ、この色だ。脳裏に焼きついた色。思い出した。
ーーそうか……。この人が……。
あの日、残夏が化物に取り込まれて消えそうだった時、残夏の心を落ち着けて助けてくれた。
そしてまた、今回も助けてくれたのだ。残夏はその色の眩さに何度か瞬いて、しかしそっと目を伏せる。自分の置かれた状況は正確に理解していた。
「?どうしたの?何処か怪我した?」
「……いいえ。」
小さく首を横に振る。怪我なんてしていない。だけど、残夏は大変なことをしてしまった。自分の弱さに負けて自分の中の化物に力を求めてしまった。
残夏は、化物だったのだ。
もしかしたら、このまま殺されるのかもしれない。それで良いのかもしれない。うん、きっとそれで良いんだ。
そう覚悟したのに、玲はいつまで経っても何も言っては来なかった。だから残夏はそろそろと顔を上げる。そこには残夏が想像もしていないほど柔らかい笑みを浮かべた玲がいた。
「どうして……。」
「うん?」
「なんで、助けてくれるんですか……?」
初めて化物に取り込まれた時も、今日も、玲は助けてくれた。皆んなの前で、何かあったら殺すと言っていたのに。
あんなに怖かったのに、今のこの人からは暖かさしか感じない。
残夏の問いに玲は少しだけ目を丸くすると、楽しそうに目を細めた。
「だって『消えたくない』って言ってたから。」
「え?」
「『消えたくない』『居場所が欲しい』『オレは人間だ』って。あんな化物に取り込まれて、悪意に晒されて、それでも人間として生きることを望んでいた。……そういうの、嫌いじゃないんだ。」
残夏の声を聞いてくれていたのか。あんな怨嗟の声が犇めいている中、残夏の声を。
ただ、誰かに見つけて欲しかった自分自身を。
ーーだけど……。
残夏は自分で化物たちに手を伸ばした。それは変えられない事実だ。今回は助けてもらえた。でも次は。
残夏はあの化物たちを制御できるなんて思えない。今だって気を抜けば耳の奥で鈴の音が聞こえる。
「……オレは、化物で……。」
「でも人間として生きたいんでしょ?」
「だけどそんなの、許されない……!」
南宮の言った通りだ。こんな脅威、本当は生きていたらダメだったのだ。どうせ何処にも行くところがないのなら、いっそこのまま殺してくれたら。
残夏は玲から手を離すと俯いた。もう残夏の帰るところなんてない。人間でもない。残夏はずっと独りぼっちだ。
だけど本当はずっと誰かに手をとって欲しくて。手を伸ばしたくいけど伸ばせなくて。
玲はそんな残夏の額を軽く指で弾く。その衝撃に残夏は慌てて顔を上げた。
「許してやるよ。」
「え、」
「許す。……お前が人間として生きるというのなら、誰が反対したって俺が生きることを許してやる。」
「で、でも……こんなに、こんな事して……!」
「誰も傷つけてないし、気づかれてもいない。問題ないよ。」
「だけど、オレ、こんな力……制御なんて……!」
「学べばいい。何のための高専だと思っているんだ。折角大きいサイズの制服にしたんだから、存分に学べばいいさ。」
「でも、オレにはもう帰るところも……、」
「残夏。」
玲が名前を呼ぶ。それだけで不思議なことに残夏は惹きつけられた。どうしてかは分からないけれど、この声と笑顔に抗えない。
そんな残夏に玲はもう一度手を差し出した。
「生きたいと望め。居場所なら此処にある。ちゃんと此処に帰ってくればいい。……もちろん、お前が望むならだけど。」
そんなの。そんな事、望んでいいのだろうか。その問いに玲は茶目っ気たっぷりに片目を瞑る。それになんだか力が抜けて、残夏は息を吐くと手を伸ばした。
嘘でも良かった。一時だけの夢でも。
だって残夏の手をしっかりと掴んだ温度は暖かくて、涙が溢れて止まらなかったから。
何もかも上手くいかない人生の中で、これから先だってきっと上手くいかないけれど。それでも、この手の温度だけは信じてみたい。
残夏たちの周りを囲んでいた透明な結界が壊れる。それに伴って、残夏の周りに人が集まってくる足音が聞こえた。14番隊の人たちだ。
一番に駆けてきて、抱きついてきた凪にしがみついて、良かったと安堵をこぼしている清治たちの声を聞きながら残夏は涙が枯れるまで泣き続けた。
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「……調査結果はどうだった?」
「当たりですよ。そもそもあんな夜中に子供が彷徨いているわけないですからね。残夏たちが見たのは囮です。」
「……。」
報告内容に少しだけ言葉が詰まる。小鳥遊残夏。
善性を持った少年は、その善性のせいで化物を身に宿した。しかもその原因となる少女はどんなに探しても存在しない。
ある程度予想は出来ていたが、こうして事実を知るのは気分が良いものではなかった。
「……あいつか。」
「でしょうねぇ……。」
いつも通りの軽い口調に、優秀な部下へと視線を向ける。その表情は大部分が分厚い眼鏡で覆われていて口元だけしか分からない。
しかし、少しだけその手に持たれた報告書に皺が寄っているのに東條は息を吐き出した。
「暴走するなよ。」
「まさか。ご命令通りにしますよ。」
にっこりと笑うのにもう一度息を吐き出してから報告書を受け取る。相変わらず仕事が早いのは良い。
ただ休暇を与えたにも関わらず、結局色々と任せてしまったのは少し申し訳ない。
信用できる人間が少ないのはこの組織内では痛手だ。何人分も働いてくれる部下を労って然るべきだろう。
「……そうか。休暇中に悪かったな。」
「調査だけだったので。……ふふ、でも今度彰良に会ったら東條さん睨まれちゃうかもしれませんよ。」
「三島か……。」
仏頂面を思い出して、もう何度目かも分からない息を吐き出す。まったく、思い通りにいかない。それもまた道理ではあるのだが。
東條は軽く頭を振ると、手で退出を促した。これ以上引き留めても仕方あるまい。
しかし、東條の意思とは裏腹に飄々とした部下は退出せずに近づいてきた。
「……なんだ。」
「いえいえ。ちょっと特別報酬がもらえないかなーと。」
「は?」
「いいでしょう?貴方の命令で休まされて、貴方の電話で仕事したんですから。……実は高専の教師で気になる人がいまして。」
これだからこいつは。しかしここで突っぱねてもどうせ後から叶えさせられるのだから、さっさと望みを聞いた方が早い。
東條はまたひとつ溜息を落とすと、楽しそうに笑う玲に渋々頷いたのだった。
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「ああ、そうだ。お前たちの担任、変更になったから。今度の先生はきっと気にいると思うよ。だからサボらないでちゃんと授業は受けなさい。」
玲の言葉に残夏の瞳が丸く見開かれる。その驚いた表情が微笑ましくて清治は笑ってしまった。
残夏の暴走事件から数日が経った。あの後、休暇明けの玲に残夏たちの報告をして、問題として浮かび上がっていた残夏たちの担任はどうやったかは知らないが玲の根回しで違う学年に異動になったようだ。
いくら残夏が恐ろしいとはいえ、授業中に寝ていても起こさないし、挙句まともに霊力指導もしないとは。次の担任は熱血漢だがしっかりとしたまともな人だ。きっと、残夏たちの勉強も進むことだろう。
それから、後処理はしっかりと4番隊が務めてくれたらしく特に東條からもお咎めは来なかった。まあ借りになるから、その内玲には4番隊からの緊急招集が掛かるだろう。
ただ容姿のいい人間を着飾らせて写真を撮って楽しむ、という向こうの隊長の趣味丸出しの招集が。
まあそれは玲だけが被る被害だから清治は関係ない。そんな事より、残夏がおそるおそる玲に近づいていく目の前の光景の方がずっと大事だ。
「?どうしたの?」
「い、いえ!なんでもないです!!」
玲の言葉に猫のように跳ねて逃げていく残夏に、つい笑いが溢れる。
あの後から、残夏はどうも玲に興味が湧いたらしい。しかし距離の詰め方が分からないようだ。
流石に凪のように抱きつくなんて出来ないのだろうが、構っては欲しいのだろう。というか、褒められたいのか。
仕事を手伝いたいような素振りを見せているのが可愛くて仕方がない。
清治はそんな光景を眺めながら、柳瀬が淹れてくれた紅茶にひと息吐いた。窓の外を見れば、春の終わりが近づいているのか、太陽が高く昇っている。
もう直ぐ、夏だ。
残夏の瞳のような澄んだ青色に、陽光が弾けて輝いた。
読んでいただきありがとうございました。
これでエピソード1は終わりです。次回からはエピソード2になります。
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次回更新は来週予定です。




