夏の始まり①
思えば何もかも上手くいかない人生だった。
煩いくらいのサイレンの音が脳味噌をかき混ぜる。誰かの怒鳴り声と、子供の鳴き声。それに負けないくらいのけたたましい鈴の音が辺りに響いて耳がイカれそうだ。それだけじゃない。身体の中を何かが侵していくように這いずって動き回る不快な感触。気持ち悪くて吐きそうで、だけど身体が言うことを聞かない。感覚が遠くなって、何かがこぼれ落ちていく。鈴の音が煩くて、考えられない。自分は、自分の、名前すら。ああ、このまま自分は消えるのだろうか。消えたって構わないようなどうしようもない生き方しかしてこなかった。だけど、本当に無くなると思うと怖い。怖くて怖くて堪らない。なのに、もう、自、ぶんが、きえ、てーー、
「消えないよ。ほら、頑張れ。」
だれ?
「消したくないんだろう?大丈夫。出来るから。」
だれ、なんだろう。
「ふふ、うん。いいね。」
誰か分からないけれど、落ち着く。
声を辿るように意識が形を作っていく。自分が、形作られていく。そうだ、思い出した。自分の名前も、自分の人生も。思えば何もかも上手くいかない人生だった。それでもたった一度だけ、誰かを助けられたら。そう、思って。あの子はちゃんと逃げられたんだろうか。
「うん?ああ、無事だよ。君のおかげだ。」
そっか。良かった。あの子は助かったんだ。だったら、オレのどうしようもない15年間も報われる。ああ、だけど、でも、本当は。本当は、ずっと。
サイレンの音がした。沢山の人が動き回る音と、肌に触れる生温い春の夜風。瞼の裏が眩しくて、おそるおそる目を開ける。途端に白い光に脳まで焼かれたようだ。そんな中、自分の目の前に座る人影に目を向けた。細いシルエットと、黒い影。何故かは分からないけれど、惹きつけられる気がしてそっと手を伸ばした。今までずっと、誰にも掴んでもらえなかった手。くだらない日々から助けて欲しくて、でもどうしようもなくて、本当はずっと誰かに掴んで欲しくて、掴んでもらえなかった。しかしそんな記憶を吹き飛ばすように、その人はしっかりと自分の手を掴んだ。
「よく頑張った。偉いね。……君、名前は?」
「たかなし……ざんか……。」
まだ眩む視界に広がるアイスブルー。ただその色だけを記憶に焼き付けて、目を閉じる。掴まれた手は温かくて、何処か安心できた。
この日、15年間生きて初めて小鳥遊残夏は自分の手を掴む手の温度を知った。
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思えば何もかも上手くいかない人生だった。それもこれも全部、持って生まれた特殊な力のせいだと残夏は思っている。およそ人には見えないモノ。一般的に幽霊や妖と呼ばれるモノが生まれつき残夏には見えた。そのせいかは分からないが、残夏の父親は残夏が物心つく前に何処かへ消えてしまった。そして残された母親は過労で残夏が13の冬に亡くなった。その母親は残夏を愛してはくれていたが、残夏が見えるモノについては最期まで理解してくれなかった。そして残夏は、誰からも理解されないまま、友人すら出来ず孤独のままに生きてきた。家でも学校でも母親が居なくなってから入れられた施設でも。そんな生活に嫌気がさしたのは仕方がない事だったと思う。というよりも、一回だけで良い。誰かに気にかけて欲しかった。毎日施設で誰からも理解されずに透明人間みたいに生きていたから。だから、補導でもなんでも良かった。夜中に抜け出して繁華街を彷徨いて。そうして誰かに声をかけられたら自分がちゃんと存在するんだって実感できると思ったから。
だけど、適当に歩いても残夏に声をかけてくる人はいなかった。それがどうしようもなく辛くて、もっと危険な事をと立ち入り禁止のテープを潜ったその時。小さな女の子が沢山の影の手に呑み込まれそうになっているのを見つけたのだ。その光景と、女の子がこちらに助けを求めるように伸ばした手に残夏は飛びついた。自分を助けて欲しいとか、誰かに認識して欲しいとかそんな事は頭から消えた。ただ、助けたかった。だってその子は残夏に助けを求めていたから。だから飛びついて、その子を引っ張って、だけど逆に影に呑み込まれて。そして気がついたら誰かに助けられていた。記憶に残るアイスブルーの色彩と確かな温度。そして。
次に目を開けた時、残夏は沢山の敵意の目に晒されていた。
「え……。」
スポットライトに照らし出される中で、眩しさに目を細めながら身体を動かす。しかし後ろ手に鎖で厳重に縛られていて上半身を起こすだけで精一杯だ。それに内心パニックになりながら、辺りを見回す。円形の広く暗い部屋は残夏のいるところが一番底で、劇場のように階段状に椅子が全面に並べられている。そこに集まった人、人、人。その無数の目が全て残夏に敵意を向けていた。ひゅっと喉が鳴る。腕に絡まった鎖が重い音を立てた。
ーーなんだ、これ……。
まるで重罪人のような、死刑執行を待つような空気。責め立てるような視線が痛くて恐ろしい。勝手に震えだす身体と吹き出す汗。必死に息を吐いていたら、コツンと何かを打つ音が響いた。
「……小鳥遊残夏。」
それは、感情を抑え込んだ厳格な声だった。名前を呼ばれるだけで身体が固まるような。息苦しい中で残夏は声の主を見上げる。そこに居たのはまだ30も半ば程の冷たい顔をした男がいた。コツリと指が打つのに、先程響いたのはこの音だった事に気がつく。その男は鋭い眼光のまま、残夏を値踏みするように見つめた。
「覚えているか?」
「……え?な、なにを……?」
問われた意味が分からない。何を覚えているのか。そもそもここは何処なのか。どうしてこんな所で捕まっているのか。彼らは誰なのか。そんな疑問が溢れて止まらなくなっていく。しかしそれ以上の恐怖と困惑が残夏の言葉を詰まらせていた。
「なるほど……。」
残夏を見下ろす男が息を吐く。少しばかり疲労が滲むのに、残夏の心にも小さな余裕が生まれた。厳しそうではあるが、話せば、もしかしたら。きっと何かの勘違いなのだ。残夏は確かに繁華街をふらついていたけれど、悪い事はしていない。だから、話せば、きっと。
「あ、あの……、」
「お前はハグレモノの封印の場に乱入し、儀式の失敗を招き、その身に化物を取り込んだ。」
「は……?」
言葉を遮って、何ひとつ意味が分からない言葉を紡ぐ男に残夏の声が漏れた。ハグレモノ?儀式?化物を取り込むって、なんだ。
「その化物は討伐が難しいものだ。今はお前の身体で鎮静化しているが、いつ活性化するかも分からない。そもそもお前の意識が小鳥遊残夏のものかも分からない。」
「オレは小鳥遊残夏です!!」
咄嗟に声が出た。さっきから何を言っているのか何も分からない。だけど、だけど、それだけは。自分は自分だ。そのはずだ。しかし、男は残夏の言葉に更に眼光を鋭くする。それに残夏の身が竦む。
「そうか。ならば、小鳥遊残夏。……貴様は人間か?化物か?」
低い声で問われて、残夏はようやく気がついた。彼らは最初から残夏を化物だと疑っているのだ。先程のよく分からない話も、全部、残夏が人間じゃないと言っているのだ。だけどそんな訳がない。生まれて15年。残夏はずっと人間だった。人間じゃないわけない。そんな訳、ない。
ーーだけど……。
漸く思い出してきた光景が喉を締める。頭がイカれそうな鈴の音と、何かが身体の中を這いずる感触。そして消えていく意識に上書きするような絶望と怨嗟の声。思い出して息が吐き出せなくなった。過呼吸のようで息苦しい。だけどこのまま黙っていたら、きっと良くない事が起こる。きっと、殺されてしまう。残夏は目の前が暗くなるような気持ちのまま、掠れた声を絞り出した。
「お、オレは、にんげ……、」
「もう良いでしょう、司令官。十分だ。こんなものは処分した方が早い。」
「……南宮。」
「良いではないですか。疑わしきは罰せよ、でしょう?早々に処分すれば、我々の管理もひとつ消える。良いこと尽くしだ。」
南宮と呼ばれた、神経質そうな声の男によろよろと顔を向ければ、声と同じく神経質な容貌の男が残夏を睨め付けていた。その男の発言に周りもざわざわと声を大きくしていく。そのどれもが残夏を責め立て、南宮の意見に寄り添う言葉ばかりだった。いや、もしかしたら違うのかもしれない。それでも残夏の耳には非難の声のだけがはっきりと聞こえた。化物だ、殺せ、という騒めきが辺りを包む。それに耳を塞ぎたいのに腕が縛られていて動けない。残夏の瞳が涙で霞んでいく。夢だと思い込もうと目を瞑れば余計声は大きく聞こえた。
ーーもう、ダメだ……。
どうしてかなんて、分からない。だけどここにいる人達は皆んな残夏の死を望んでいるのだ。恐怖と絶望で残夏の心が暗く沈み込もうとしたその時、残夏の背後の扉が音を立てて開いた。途端に騒めきがぴたりと止む。コツン、と軽い靴音が響いた。
「すみません。遅れました。」
言葉とは裏腹に、少しも悪びれた色が乗せられていない涼しげな声が耳に届く。まるで夏風がそよぐようなその声に、残夏はそっと目を開けた。そうすれば残夏の視界に、黒スーツを着た細身の男が隣に立っているのが映る。その男は分厚いガラスの眼鏡に軽薄な笑みを浮かべた、何処か存在感の希薄なやつだった。声で男だと判じられるが、一見すれば華奢な体格にどちらか分からない。眼鏡のせいで瞳が見えないからか、感情が読み取れなくて気味が悪かった。
「亜月……。」
「そんな顔しないでくださいよ、東條さん。これでも急いで来たんですよ?……それで?いまどういう状況なんですか?」
司令官もとい、東條に溜息を吐き出されても亜月と呼ばれた男の笑顔は崩れない。にこにことしたまま小さく首を傾げるのに、東條はもう一度息を吐き出すと肩を竦めてみせた。特に言葉にせずともそれで伝わったらしい。ふむ、と頷くと嘲笑の笑みを浮かべた。
「つまりは、寄ってたかって子供を虐めてるんですか?」
「亜月玲!!貴様、遅れて来たくせになんて言い種だ!!」
呆れ顔の東條ではなく、南宮と呼ばれた粘着質な男が声を荒げる。それにも特に臆する事なく玲は芝居がかった素振りで腕をあげると首を横に振った。
「俺は忙しいんですよ、貴方と違ってね。」
「貴様……!!8番隊を愚弄するかっ!?」
「まさか。貴方たちが防御だけに集中出来るようにこちらは奔走してるんです。持ちつ持たれつでしょう?」
くすくすと耳に軽い笑い声が響く。尤もらしい言葉の中にも揶揄が混じっているようだった。それに南宮の顔が紅潮し、顔が苛立ちで歪んでいく。一触即発の空気に静止を掛けたのは東條の静かな声だった。
「そこまでだ。……南宮。亜月の言葉遊びに付き合うな。亜月。それで?そこまで言うならお前にも何か案があるんだろう。」
残夏に向けられていた全員の視線が玲に向けられる。そんな中でもこの男の笑みは崩れない。小首を傾げて歌うように言葉を紡ぐ。
「貴方の御心のままにいたしますよ。」
「そんな事は聞いていない。お前が、小鳥遊残夏をどうしたいか聞いているんだ。」
東條の視線に、玲は少しだけ考える素振りを見せるとちらりと残夏に目を向けた。向けたのだと思う。眼鏡のせいでよく分からない。そのまま玲は笑うと、真っ直ぐに東條に向き合った。
「では……。私なら、小鳥遊残夏を使いますね。あの化物の霊力を使えるなんて優秀な人材じゃないですか。組織は人手不足。猫の手でも借りたいでしょう?……まあ、猫というより子犬ですけど。」
「暴走した場合は?」
「それこそ自明でしょう。首を切り落とせばいい。」
ぐ、と猫の子のように襟を引かれて鎖が重たい音を立てる。まるで軽い事のような発言に一瞬、何を言われたのか分からなかった。しかし締まった首にその言葉の重みが身体に伝わってくる。カタカタとまた震え出した残夏に玲はさっさと手を離した。そのせいで残夏は顔を強かに打つ。
「ふふ、こんなガキに本当に脅威を感じてるんですか?震えるだけしか出来ない子犬に?」
「……。……しかし身の内にあるものは強大だ。犬だと可愛がって手を噛まれる訳にはいかない。」
「躾ければいいでしょう。……いいですよ、東條さん。ご期待にお応えします。」
「それではーー、」
「ふ、ふざけないでください!!どうしてこんな……、こんな!!オレは人間だ!!!」
顔の痛みに、気がつけば残夏の感情が爆発していた。急にこんな所に連れて来られて、よく分からない事を言われて、自分の命を好きなように言われて。こんなのおかしい。残夏は、残夏は人間だ。顔を上げ周りを見渡す。南宮のように敵意を向けるもの、面白そうに目を細めるもの、心配そうに眉を顰めるもの。色んな表情の人、人、人。そんな中で残夏の声は大きく響いた。しかし次の瞬間、残夏の背に強烈な衝撃が走る。それが蹴られてからだとか分かったのは、残夏が再び地面に打ちつけられた後だった。
「……元気だね。よく吠える。だけど間違ってるなぁ……。今のお前に決定権なんて無い。決めるのは飼い主であるこの俺だ。だからちゃんと身体で覚えろ。誰が飼い主で逆らえばどうなるのか。」
残夏の背を踏んだまま、玲は笑う。そのまま力が込められていくのに、残夏は抵抗する力を失った。必死に息をすることだけに集中するが、背中からの圧力で苦しくてたまらなくなる。残夏の抵抗がおさまると、涼しげな声は楽しそうに言葉を重ねた。
「よしよし、おとなしくなったな。良い子にはご褒美をあげないと、ね。」
肺から空気が漏れて、変な声が出た。しかしそれで足の力が緩むわけでもない。残夏は苦しさと痛みで泣きながら、ただ地面に伏していた。そんな状況に騒めきが広がるが、東條の指の音で一瞬にして静かになる。そんな中、東條は温度の感じない声を落とした。
「良いだろう。この件、お前に任せた。そいつの命はお前のものだ。……精々、気をつける事だな。それではこれにて解散とする。」
その言葉に全員が席を立つ。沢山の足音が遠ざかっていく中で、残夏を踏みつけていた玲に視線を向ければ挑発するような笑みを向けられた。
「さて、それじゃあ今日からお前は俺の子犬だ。……先ずは目上のものに対する礼儀を学びなさい。」
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