追憶
男は、夢を見ていた。
時は十五年ほど遡る。セレフィア王国の王室の中庭に男はいた。白い石畳に陽の光が跳ね、背の低い草花の上で水滴がきらめいている。
「フローラ、何をしているんだい?」
男はしゃがみこみ、花畑を駆ける幼い娘に声を掛けた。メイド服の従者が二人、慌てて追いすがっている。娘はぱたりと足を止め、きらきらした目で見上げた。
「お父様、お仕事は?」
「娘の成長を見守るのは、父親の大切な仕事だろう? なぁ?」
いたずらっぽく片目をつぶって従者に振ると、従者たちは返答に困った顔で視線を泳がせる。そんな中、遠くから助け船が飛んだ。
「陛下! こんなところにいらしたのですか。これから軍議だと申し上げたではありませんか!」
小走りに近寄る老臣。男は肩をすくめ、まるで子どものように悪びれない。
「いかんいかん、見つかってしまったようだ。……それじゃあ、仕方ない。もう片方の“仕事”に戻るとするか」
よいしょ、と立ち上がり、権威の象徴たる赤いマントについた土を手で払う。その様子に権威を笠に振る舞う様子は微塵も感じない。娘が両手をひょいと掲げた。その手には、何かを持っていた。
「お父様、私、お父様がいつもつけてる冠を、お花で作ったの!」
「ほう、どれどれ」
男は満足そうに娘の作った花の冠を見つめる。
「うん、とっても綺麗だ。こんな黄金の冠よりよっぽどだ。」
自らの黄金の冠を外し、膝をついた。花で編んだ小さな輪を見つめ、ゆっくり微笑む。
「ねぇ、フローラ。お手製の冠、載せてくれるかな?」
「うん! もちろん! これでお父様はお花の国の王様だね!」
「あぁ、そうだな。――この冠、宝物にするよ。フローラ、ありがとう」
「お父様、お仕事がんばってね!」
男の大きな手が、娘の頭を優しく撫でる。草と花の香り、夏へ傾く風。男は名残惜しそうに立ち上がり、振り返って手を振った。
「あぁ、フローラ。それじゃあ、いってくるよ」
***
――それから数年。セレフィア王国内の空気は変わった。
気候変動が王国全土を覆い、麦は穂を痩せさせ、果樹は実を落とした。夢の中の男は自らの権威などかなぐり捨て、国という国に頭を下げた。どれほど小さな国であっても、地に額をこすりつけるようにして、食料の分け与えを乞うた。だがその年は、世界的な不作だった。どの国も余裕がなく、言葉は同情しても結局どこも助けてはくれなかった。
備蓄は枯渇し、街に空腹が満ち、やがて職と住まいを失った人々がヴェルナードに溢れた。街はゴミで溢れ、井戸は濁り、衛生が崩れた。疫病が流行するのは、当時の状況からすればもはや必然だったのかもしれない。
夫である王が他国に頭を下げるために各国を行脚する中、王妃は民の中に立ち続けた。従者の制止をふりほどき、王宮の食料庫からの配給を命じ、自らの皿を空にして子を抱く母へと差し出した。
「私は普段からたくさん食べているから」と、街の人々を少しでも勇気づけようと、励まそうと笑顔を振りまいた。けれど笑顔は日に日に薄くなり、身体はやつれ、ついに疫病に倒れた。
医師の指示はやむを得ないとはいえ非情だった。感染拡大を防ぐため、発覚以降、夫も娘も王妃に会うことを禁じられた。そして、二人が“彼女”を見たのは、墓に刻まれた名を通してだった。
男が初めて墓所を訪れた日は、雨だった。最愛の妻の墓を前にして正気を保っていられる自身がなかったからフローラは連れてこれなかった。泥に沈む足で石列をたどり、刻まれた文字を見た瞬間、膝が砕けた。冷たい雨が肩を打ち、泥が衣を汚す。感覚は麻痺し、ただ墓石の冷たさだけが肌を刺した。
「なぜだ……どうして……この私が、何かしたというのか……」
喉の奥から掠れた声が漏れる。
「多くの国民を失った。この悲しみだけでは不十分だというのか……更に、妻まで奪うというのか……」
行き場のない悲しみは、やがて矛先を見つけやすい怒りに変わる。
「あのとき、他の国が我が国への支援をしていれば……救援要請を受け入れていれば……! 都合の良い時ばかり顔色を伺いに来て、都合が悪くなれば門を閉ざす――!」
言葉は次第に濁り、それとともに心は黒く沈んでいく。うねりが胸の奥で生まれ、冷たいものが背骨を這い上がる。雨音が遠のいた気がした。世界の輪郭が歪む。
そして気がつけば、男の身は邪気に包まれていた。皮膚の下で何かが組み替わり、人の記憶と獣の衝動が擦れ合う。
「……力だ。力こそが、全てだ。この手に力があれば――大切なものを失わずに済んだ。もう、奪わせはしない。奪われる前に、奪う」
男は天を仰いだ。瞳からこぼれた雫が、人として見せた最後の“涙”だったのか、ただの雨滴だったのかは、もう誰にもわからない。その瞬間、男は人としての道を離れ、邪鬼としての道を選んだ。
――そこで夢は途切れた。
ふと、男は椅子に腰掛けたまま微睡んでいたことに気づく。まぶたの裏に差す、一筋の光。そして、頬には涙が乾いた跡が残っていた。
「今さら、こんな夢を見るとはな」
低く呟き、男は立ち上がる。衣の裾を整え、扉へ向かう足取りは重い。騎士団からの近況報告
王は歩く。黒い影は、もはや後戻りしない。
***
荘厳な玉座の間。ボクたちは膝をつき、王が玉座に着くのを、そしてその正体を現すのを待ちながら、深く頭を垂れている。足音が近づき、玉座の前でぴたりと止まった。呼吸の音さえ響きそうな静けさ。
「ガレドと、他の者も、面を挙げよ」
(……座る前に?)
本来なら玉座に腰を下ろしてから掛けられる言葉だ。違和感が背筋をなでる。だが王命に背くことはできない。
「はっ」
ガレドが答え、顔を上げる。ボクとリゼも続いた。
そこには、やはり玉座の前に立っている王だった。玉座の手前で腕を組み、こちらを見下ろしている。
「そうだ。その驚いた顔――余は、それを最期に見たかったのだ」
冷ややかな声音。次の瞬間、轟音が広間を裂いた。
――ガシャァン!
王は振り返りざまに玉座を蹴り飛ばした。重厚な木は無惨に砕け散り、隠されていた箱――ザイレムの魔導具が露わになる。封じの四隅が外された箱から、濃い穢気が低く唸るように漏れ出した。その瘴気は、王の右足にまとわりつき、黒く脈動している。
「余の正体が知りたいのであろう? ならば、こんな玩具に頼らずとも――その眼で見よ」
黒が、右足から胴へ、肩へ、指先へと奔った。白目は墨に染まり、瞳孔は血のごとく赤く光る。人の面影が、闇の面に塗り替えられていった。
「フローラ様!」
異変に気がついたリゼが短く叫ぶ。そしてボクたちは反射的に後方へ跳び、間合いを取った。
「お前らが余を疑っていることなど、とっくに見抜いていた。……ならば容易い。疑念を抱く者ごと、葬り去ればよい!」
言葉より速く、影が動く。王の輪郭が揺れたときには、王の拳はガレドの懐にいた。
「がはっ――!」
裏拳が横薙ぎに走り、空気が唸る。ガレドは腕で受けて受け流すが、衝撃に耐えきれず石床を滑り、柱に背を打ちつけた。
「副団長とはいえ、人の力などこの程度。抗ってみせよ! この力に! 悲しみに! 憎しみに! ――その強さを、その覚悟を、余に示してみせよ!」
瘴気が渦を巻き、広間の温度が一瞬で下がる。胸がざわめき、鼓動が早まる。ボクは唇を噛み、そして拳を握る。
戦いの火蓋は、今、切って落とされたのだ。
ブクマ、評価、感想をいただけると作者の励みになります!
お気軽にいただけるととても嬉しいです。




