混乱の収束
燃え残る梁がぱちぱちと音を立て、煤の匂いが夜風にさらわれていく。リゼは崩れた石畳の上で膝を折り、灰の中に転がった小さな光をつまみ上げた。掌にすっぽり収まる、澄みきった透明の結晶。月の筋が差し、芯のない光が内側にだけ脈打つように見えた。
「……コウ」
彼女は結晶を逆光にかざし、ひと呼吸分だけ黙ってから言った。
「この水晶のことは他言無用で頼む。時が来たらお前にもちょっと手伝ってもらうかもしれんが――少なくとも王宮や騎士団の連中には、絶対に知られないようにしてくれ」
こくりと頷く。喉の奥がひどく乾いている。あれは水晶だろうか。首飾りにできるよう、鎖が付けられている。どこかで似たようなものを見た記憶があったが、それがどこだったか思い出せない。
そして気がつくと、人波を背に、イリスとアグナル、それに数名の騎士が駆けて来ていた。
「終わった……のか……?」
アグナルが息を整えながらリゼへ問う。彼女は黙って頷き、傍らに落ちていた長剣を拾い上げると、柄をアグナルへ差し出した。
「これは……騎士団長の……」
鍔に刻まれたグレイス家の紋章が、煤に汚れた指でなぞられる。アグナルはそっと剣を押し返し、低く呟いた。
「では、この騒ぎは彼が……?」
「ああ。私に胸ぐらを掴まれたのが相当、頭に来たんだろうな。邪鬼化しやがった」
(――やはり、この水晶のことは、アグナルさんたちにも伏せておいた方がいいってことか)
ボクは胸の内でそっと線を引いた。
「それで、彼はあなたとコウ君で?」
「あぁ、そうだ。こいつが押さえ込んでくれたお陰でな」
リゼが横目でこちらを見る。片端だけ口角が上がった。
「にしてもコウ。お前、もう“調和気”まで使えるようになったのか。……いよいよ私に教えられることはなくなってきたな」
わしわしと髪をかき混ぜられ、思わず顔をしかめる。
「そういうリゼさんこそ、どうして黒の器でもないのに調和気を?」
「こんなのは“コツ”だよ。ただ――その“コツ”に触れるまで、誰も辿り着けないだけだ」
豪胆な笑いは、心の中に落ちる影をごまかすかのようにボクには見えた。
「……これから、大変になるな」
アグナルの声が夜に溶ける。「騎士団長の邪鬼化。国が、傾くぞ」
***
翌朝、空が白みはじめる頃、副騎士団長ガレドの使者が宿へ現れ、人払いののち兵舎での打ち合わせに呼ばれた。兵舎ではガレドがすでに待っており、開口一番、淡々と告げる。
「本件は――事故として処理されました」
「なんと……!」
アグナルの口が乾いた音を立てる。あまりに唐突で、乱暴だ。だが、ガレドの顔は微動だにしない。
「流布すれば国は乱れる。国内外に知られれば、被害は拡大する。……国民を、これ以上悲惨な目に遭わせないための情報整理だと、上は説明しています」
言い聞かせるような声だった。それはボク達だけではなく、彼自身に対してもだろう。
「陛下は、なんと?」
リゼが探るように問えば、ガレドは一瞬だけ視線を落とし、低く答えた。
「むしろ、今回の一連の決定は陛下その人のご判断です。騎士団としては責を問われるかと身構えたのですが――何のお咎めもありませんでした」
リゼは大きく息を吐き出し、そして誰も口にできないことをさらりと言う。
「ふぅん。……王家が絡んでるってことか」
「リゼ、流石にそれは……」
アグナルが周囲の耳を気にして小声で咎める。ガレドはさらに声を落とした。
「騎士団内でも、これまでの“侵攻方針”やこれまでも今回と同様の処置に、懸念を抱く者がいないわけではありません。ただ――」
「ただ?」
「そうした者たちは、相次いで失踪しました。あるいは、不慮の“事件”で命を落としています。……残念ながら、ほぼ全員が」
言葉の端に、ガレド自身が口に出せない残念さが滲み出ていた。
「完全に真っ黒じゃねぇか」
リゼの吐き捨てるような一言に、ガレドは沈黙で頷く。
「ただ、そうはいっても――」
彼は拳を握った。
「騎士や領主の多くは、我が身だけでなく、家族や領民を抱えています。無闇に動けば、背後のすべてを巻き込む。……それが怖いのです」
「アグナルさんと同じ、だな」
リゼが横目で笑うと、アグナルはうなりながら頷くことしかできなかった。
重い沈黙を、椅子の軋む音が破った。リゼが背もたれに身体を預け、天井を一度だけ見上げてから、アグナルへ向き直る。
「なぁ、アグナルさん。この件、コウと私で預からせてもらえないか?」
「え、ボク?」
「あぁ、お前だ」
リゼは椅子から乗り出して、卓を囲む顔ぶれを順に覗き込む。
「この話は他言無用だ。特にガレド――お前は立場上、何も知らん顔を通せ」
ガレドは短く頷いた。その一拍を合図に、リゼが言葉を継ぐ。
「私はな、この国のどこかにちょっと前から――邪鬼と通じてる人間、もしくは邪鬼そのものが潜んでいる気がしてる。で、黒の器は邪気に対して“感応”が強い。だからコウの力を借りて、この国に巣くう悪の元凶を洗い出したい」
イリスの視線がボクに刺さる。心配と、何か別のものが混ざっていた。リゼはそれを見て、口角を上げた。
「おや、イリス嬢。こいつが心配か?」
「そ、そんなんじゃ……!」
「安心しな。今のこいつ、全力を出せれば私と同格か、それ以上だ」
「流石にそれは言い過ぎじゃ……」
ボクの反論は無視され、リゼはぽん、ぽん、とイリスの肩を軽く叩く。
「それに、やるのは殺し合いじゃない。戦闘は最終手段だ。――まぁ、一緒にいる時間はちょっと減るかもしれんがな」
カカカと笑ってから、すぐに真顔へ戻る。声の温度が一段下がった。
「ガレドが言ったとおり、これ以上ヴァルティア家が表に出ると、何かあった時に領民ごと巻き込まれる。だから、この件は“大きな家”とは無縁な私とコウが適任だ」
「……配慮、感謝する」
アグナルが深く頷く。
しかし、思わぬところから声が上がった。
「お父様。……それ、私も手伝っちゃだめでしょうか?」
藍の瞳に力強い灯が宿る。
「なぜだ?」
「私も、この国の“真実”を知りたいです」
言い切った声に揺れはなかった。この言葉は、元々は父である彼が娘へ授けた言葉だ。だが今この場で首肯するには重い――アグナルは一瞬だけ迷った。すると横で、リゼが指を一つ立てる。
「じゃ、こういうのはどうだ。イリス嬢は父親と大喧嘩して勘当された、ってことにする。理由は――そうだな、こいつと駆け落ちってことで。これで形式上はヴァルティア家とは無関係だ」
「か、駆け落ち!?」
思わず立ち上がってしまう。
イリスは頬を真っ赤にして、机を叩いた。
「そ、そんな! こんなスケベでなよなよしたこいつと駆け落ちなんて、するわけないじゃないですか!」
「なよなよって……」
「だって、いつもなよなよしてるじゃない!」
ぴしゃり。けれど、次の瞬間には真剣な顔へ戻っていた。
「……でも、形としては筋が通ります。お父様、それでどうでしょう?」
アグナルは額に手を当て、「ぐぬぬ……駆け落ち……」と小さく唸ってから、やがて観念したように頷いた。
「体面上の話だ。仕方ないだろう――ただし、危険は伴う。イリス」
彼は娘の眼をまっすぐ見つめる。
「お前にとっての真実を、自分の足で見極めてこい。そして、ちゃんと生きて戻ってこい」
「……ありがとうございます、お父様」
こうして、ボクはリゼ、イリスと共に王宮の裏側を調べることになった。
***
ガレドと打ち合わせが終わった夕刻、王都は昨夜の騒ぎが嘘のような薄いざわめきに戻っていた。
アグナル、セバスチャンを見送ったボク達の影を沈みかけの夕日が長く延ばす。
夕日に背中を押されるボクとイリスの背中をリゼはポンと叩いて言う。
「ま、気楽にいこうや。そのうち尻尾は捕まえられるさ」
「「はい」」
夜の気配が、三人の背を等しく押した。
こうして、ボクたちは“王宮の影”に潜む邪鬼の縁を追うため、最初の一歩を踏み出した。
これにて、第8章王都、動乱、終了です!
ここからラストに向かって、一気に物語が動いていきます!
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