開戦
ザイレム帝国と開戦すると告げられた朝。
フェン村の南側、乾いた大地に並ぶ兵たちの息遣いが、冷たい空気を震わせていた。
定められた位置に王国の兵士たちがずらりと隊列を組み、鎧の金具がぎしぎしと軋む音があちこちで響く。ボクはその列から少し離れた場所で様子を見ていた。
視線を上げれば、正面には同じように陣を敷いたザイレム帝国の軍勢が見える。旗がはためき、鉄の匂いを含んだ風が鼻をついた。ざっと見た限り、兵数はこちらの方が多いように思える。
(本当に……斥候が予想した通りのタイミングでぶつかるもんだな)
そんなことを考えながら周囲を見回す。初めて正面から帝国と戦う兵たちの顔は、誰もが固く、声を潜めていた。緊張と恐怖、そしてほんの少しの興奮が入り混じった空気が、じわじわと肌にまとわりついてくる。
その時、ザイレム帝国の陣から一人の兵士が前へ進み出た。
澄んだ声が、戦場に響き渡る。
「この場に黒の器がいるはずだ。それを引き渡すならば、我らはフェン村への侵攻を取りやめることを誓おう! 無駄な血を流す必要はあるまい。よく考えるがいい!」
その言葉に、王国の兵士たちがざわつく。「黒の器?」聞いたことのない単語に眉をひそめ、互いに顔を見合わせる。
一方で、ボクはすぐに後方に控えているアグナルを探した。少し部隊の後方へと移動し、アグナルを探し出して視線が合うと、アグナルは静かに首を横に振る。
(なるほど。戦わずして差し出すつもりはない、ってことだな)
ボクは小さく頷き返し、元いた場所に戻る。
しばし、両軍の間を沈黙が支配した。緊張で空気が張り詰め、鼓動の音さえ大きく聞こえる。
ほんの少しの沈黙。ただ、異様な空気で時間の間隔がおかしいため小一時間程度たったように感じた。しかし動きのないセレフィア王国の様子をみるとやがて帝国の兵士は、挑発するように声を張り上げた。
「……どうやら名乗り出る気はないようだな。ならば、我らザイレム帝国はセレフィア王国の宣戦布告を受けて立つ! 総員、攻撃開始!」
その瞬間、帝国軍から待ちわびていたと言わんばかりの雄叫びが轟いた。兵士たちが剣や槍を掲げ、地を蹴り上げて突進してくる。
「打って出るぞ! この国を守るんだ!」
ザイレムの雄叫びを聞いたセレフィア側の副騎士団長が剣を突き上げると、王国軍の兵士たちも呼応し、一斉に声を張り上げた。
両国の雄叫びと地響きが重なり、大地が震える。
(これが……戦争か)
高鳴る鼓動と共に、ほんの少し高揚する気分があった。それでも心の奥底には、どこか冷めた自分がいる。
(この人達は、何のために戦っているんだろう)
戦いを俯瞰するもう一人の自分が、静かに周囲を見渡していた。
(とにかく、アグナルは後方だから心配ない。問題は……イリスだ)
気を巡らせ、彼女の位置を探る。確かに前線へ向かう気配があった。
(なんとしても、イリスを守るんだ。そして……ボク自身も生き延びる)
剣を握る手に力を込める。
こうして、ザイレム帝国との戦いの火蓋は切って落とされた。
***
陣の先頭の馬上で私は深呼吸をした。
開戦の知らせと耳に届くのは戦場を震わせる雄叫び。砂埃が舞い、兵士たちの足音が大地を揺らす。
(私に……務まるの?)
押しつぶされそうな不安が胸を覆う。視線を前に向ければ、帝国の兵がセレフィア王国側の兵士達に迫っている。最も両国の位置が近い東側の隊列はもうお互いがすぐ目の前となる距離に迫っていた。
「イリス様」
横から声がした。ふと振り向くと、小柄で優しげな顔をした男が笑みを浮かべている。幼い頃、蒼玲流の道場で私に木刀を振らせてくれた師範代だった。
「大丈夫ですよ。戦争は一人でするものではありません。私たちが傍にいます」
その言葉に、胸の奥が温まった。
「……ありがとう。そうね」
私は胸に手を当て、深く頷く。
(そうだ。私は一人じゃない。皆がいる。そして、コウも……)
その実感が、足元を支える力となる。震えが収まり、代わりに湧き上がるのは勇気だった。
「皆さん、よろしくお願いします! 私たちがグレナティスの先陣部隊です! 私たちを起点に、この国を、フェン村を守りましょう!」
声を張り上げると、私の率いる百人の兵が一斉に剣を掲げ、鎧の音鳴りとともに大きな声を上げた。私を中心に列が整い、地面を踏み鳴らす音が揃う。
私は思わずその熱気にあてられる。先程までの震えの代わりに、胸の奥から熱い感情がこみ上げてくる。
(できる……! なんとかなる!)
気持ちが高揚し、胸がいっぱいになる。気がつけば、馬の腹を蹴って戦場へと飛び出していた。
(やるんだ。みんなと力を合わせれば、なんだってできる)
順調に馬を飛ばす。だがその時、一人の男性の騎兵が私の前に馬を止めた。
(どこかで見たことがある気がするんだけど……)
そんなことを思いながら馬を止めると、男は口を開く。
「勇敢と無謀は紙一重だ。少し後ろを見てみろ」
その声にふと我に返り自陣を振り返ると、知らぬ間に隊列から距離が開いてしまっていた。私は慌てて謝る。
「す、すみません……」
改めて目の前の騎兵に目を戻すと、もう一人、長い髪を風に靡かせ、凛とした目をした女性の騎兵が男の横に馬を付けていた。この女性も見覚えのある顔で、二人揃うことでようやく思い出した。いや、正確には忘れていたわけではない。こんなところにいると思いもしなかったのだ。
「……ジークさんとエルネアさん?」
「まさか、雇い主の子女があなたとは思いませんでしたよ」
「じゃ、じゃあ雇われた傭兵って……」
「そう、私たちのことよ。もちろん他にも雇っているかもしれないけどね」
そうエルネアは微笑むがジークが口を挟む。
「積もる話はここが片付いた後だ」
隊列が追いついてきたのを確認したジークが、前を向く。
「よし、いくぞ」
その声に、私は強く頷いた。手綱を握り直し、馬の腹を蹴る。
砂埃を巻き上げ、私たちは帝国軍へと駆け出した。
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