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悪魔の囁き

 黒い塊がコウの腹に吸い込まれたかと思った瞬間、彼の身体を黒い気が覆い尽くし、そしてその身体を宙に浮かせる。渦を巻くように立ち上るその穢れは、祠の中の空気を重く、濁らせていく。


 「ふむ……流石、黒の器ですじゃ。穢気が良く馴染んでおる。あの身体が、もうすぐ儂のものに……そうすれば、邪気の国でも、もっと上に……」


 満足げに老騎士が呟くのが聞こえた。その声音には、まるで我が子の成長を喜ぶかのような……気味の悪い慈しみすら感じられた。


 私は唇を噛みしめる。


 「ちょっとあんた、さっきから黙って聞いてれば……コウに何をしたのよ!」


 叫ぶと、老騎士はゆっくりとこちらへ顔を向けた。その目には、先ほどまでコウに向けていた興味も情熱もなく、ただ冷たい、まるで汚物でも見るような視線があった。


 「……まだ鼠風情が残っておったか」


 ぽつりとそう呟くと、彼は腰にぶら下げていた剣を引き抜いた。刀身には黒い気が纏い、まるで毒を含んだ蛇のようにうねっている。


 同時に、私も水の気を纏って剣を抜き、正面に構えた。しかし、相手と正面から対峙した瞬間、思わず鳥肌が立った。まだ、老騎士は構えすらとっていなかった。それなのに、相手の足さばき、重心の位置、手の角度――どれをとっても隙がない。剣士としての経験が、全身の肌で危機を感じ取る。


 「……なんなのよ、こいつ……」


 思わず小さく舌打ちする。その音に、老騎士がにやりと口角を吊り上げた。


 「鼠の癖に、儂の剣の格がわかるとは……なかなか、鼠も捨てたものじゃないの」


 そして次の瞬間、視界から彼の姿が消えた。


 (ッ!? 速い――!)


 思考が追いつくよりも先に、上段から鋭い一閃が振り下ろされてくる。反射的に相手の剣に沿わすように剣を上段に構えて相手の剣を受け流し、なんとか初撃を躱す。


 金属と金属がぶつかる音が祠に響き、老騎士の眉がわずかに動いた。


 「ほう……この儂の初撃を、その歳で捌くか。やりおるのう」


 しかし、老騎士は休む間もなく連続でその剣を振るう。重く、滑らかで、そして何より――美しい。


 (……この剣筋……蒼玲流に似ている――)


 流れるように連なり、攻撃しながら相手の動きを制限していく、あの特有の型。紙一重で受け続けるしかなく、反撃の隙がまるで見つからない。何より、圧倒的に相手の技量が上だった。同系統の剣技だからこそわかる実力の差。


 すでに何度か身体をかすめ、服の端が裂け、皮膚に熱が走る。致命傷には至っていないけれど、確実に体力を奪われていく。


 (守るだけじゃ、ジリ貧だってのに……)


 「その見覚えのある剣は、蒼玲流じゃな? 久しぶりじゃのう、蒼玲流とこうしてやり合うのは」


 そんなことを言いながらも奴は一歩も退かず、まるで遊んでいるかのような動きでこちらを翻弄してくる。そして、その表情に焦りはまったくない。むしろ、どこか楽しんでいるようにすら見える。


 (それでも、諦めるもんですか!)


 集中する。

 視界が狭くなり、老騎士の動きだけが際立って見えた。これまでの自分の経験と、そしてこの少しの間、老騎士と斬り結んだことで見えてきた相手の癖から一瞬、相手の重心がわずかに右側に傾いた。


 (ってことは、左から振り下ろされるっ)


 「――はっ!」


 斬り降ろされた刃を、すれすれで躱し、その懐に踏み込む。水の気を一気に剣へと集中させ、横一線に薙ぎ払う。


 ――ザクリ。


 老騎士の腹部に、浅い切り傷が走った。


 「……ほぉ」


 驚いたように彼が目を見開いた。初めての一太刀。浅いが、確かに入った。

 私は息を切らしながら剣を構え直す。汗が額をつたう。


 「……どうよ、やればできるんだから」


 気丈に言ってみせた。ほんの少し、自分を鼓舞するように。

 けれど――


 「……ふふ、面白い」


 老騎士は不気味に笑うと、腹部の血を指先でなぞり、ぺろりと舐めた。


 「ただの鼠ではないとは思っておったが……この歳で、儂に傷をつけるとはな。だが――」


 その目が、冷たく光る。


 「それでも、お前では儂に届かぬ」


 次の瞬間、剣の軌跡が霞んだ。


 (一撃……来る!)


 でも、間に合わない。なんとか剣の腹で受け止めるが、衝撃を止めきれず、そのまま肩口に鈍い衝撃。体勢を崩されながら弾き飛ばされ壁面に叩きつけられる。


 「……っ、く……!」


 衝撃で呼吸が止まる。肩から血が滲んでいるが骨には届いてない。けど、今の一撃は、これまでとは間合い、速さ、気配、全部が違った。


 (……どうしようも、ない)


 認めたくないけれど、明確だった。一太刀は返せた。でも、それは単なる“気まぐれな余白”に過ぎなかった。


 「これが、本当の力の差……」


 ぐらりと膝が揺れた。でも、踏ん張る。倒れたら、終わる。


 (諦めるわけにはいかない)


 私は、歯を食いしばって剣で身体を支え立ち上がりながら老騎士をにらみつける。


 「これだけの実力差を、肌で感じておろうに……まだ、その目か」


 彼は感心したように頷くと、ぽつりと呟いた。


 「ここで殺すのは惜しいな……どうじゃ、お前も、こっち側に来ぬか?」


 思いがけない提案に、私は一瞬、呼吸を忘れた。


 「……は?」

 「儂はあの“黒の器”の身体をいただくつもりじゃ。だが、お前もその身を邪鬼に変えれば――理性を保ったまま、あやつと共に永遠の時を過ごせよう」


 静かに剣を降ろし、まるで懐かしい友人に語るような口調だった。


 「お前、あやつのことが好きなのじゃろう?」


 胸がひくりと鳴った。


 「邪鬼になれば老いも病も無縁。穢気がある限り、いくらでも力は得られる。愛する者と、一生を共にできる。 ……悪い話ではなかろう?」

 

(……違う、そんなはずない。だけど――)


 私は息を呑んだ。たしかに、今の私の剣では、この男に勝てる見込みはほぼない。コウは動けず、私が倒れたら、もう誰も止められない。

 このままじゃ、守れない。


 (力があれば、コウを救える? グレナティスの民も、もっと守れる?)


 相手の甘い誘いにぐらり、と心が揺れた。

 それを理解したのか老騎士は、さらに言葉を重ねてくる。


 「力があれば、お前の望むものは何でも手に入れられよう。欲しいのは、武力か? 地位か? 名誉か? それとも――男か?」


 その言葉に、頬がかすかに熱を持った。老騎士はニヤリと口元を吊り上げる。


 「邪鬼の力は、そのすべてを叶えるぞ? さあ――どうじゃ?」


 再び、彼の手のひらに黒い球が浮かび上がる。それをこちらに差し出しながら、一歩、近づいてくる。


 「これに触れさえすれば、後はもう悩むこともない。痛みを感じることもないじゃろう」

 「その若さで、その実力。さぞかし、鍛錬を積んだのであろう。流石の儂もその歳でその実力はなかった。誠に天晴れじゃ」


 ゆっくりと、こちらを諭すようなその誘いとともに、私が心の底で言って欲しいと思ってる言葉を投げかけてくる。頭では「そんなうまい話はない」と遠くで理解しながらも、次第に私は何も考えられなくなっていた。


 (いっそ、手にしてしまえば……)

 (もしかしたら、なんとかなるかも……)


 その黒い塊に、ゆっくりと指を伸ばした。

 そのときだった――


 「……イリス……だめだ……」


 かすれた、でも確かに届いたその声に、私は動きを止めた。


 「……コウ?」


 黒い気に包まれ、苦しそうにうずくまるコウの唇が、小さく震えていた。


 「そっちに行っちゃ……だめだ……」


 コウの声に私は慌てて我に返る。


 (私は今、何をしようとしていたのかしら……)


 それと同時に老騎士が舌打ちする。


 「チッ、もう少しだったのに……!」


 そう吐き捨てると、黒い塊を振りかぶり、再びコウに向けて投げつけた。


 ――だめ。


 (これ以上、絶対に、だめ!)


 思考より先に、身体が動いていた。私はその黒い塊とコウの間に飛び込んでいた。

 目の前がゆっくりになる。そして、苦痛の中で驚いた顔をコウが私の目に映る。


 (あぁ、これ、ダメなやつかもね)


 スローモーションでときが流れる中で私は覚悟を決める。


 同時に、黒い塊が私の胸に吸い込まれた。

 視界がぐらりと揺れる。

 重たい。そして、次にくるのが嫉妬、憎悪、怒り。

 ああ、これが、穢気――。

 全てを自分の意のままにしたい。壊したい。


 「ははははははっ! こやつ、自分から飛び込みおったぞ!」


 老騎士の高笑いが祠中に響き渡る。


 「“黒の器”を守って、自ら堕ちるか。滑稽じゃのう。だが――気に入った。我が側近として使ってやろう。その前に、器様の身体をいただくかのう。この娘も、この老いぼれのままじゃ受け入れがたいじゃろうて」


 笑いながら、ゆっくりとコウの方へ歩み寄る。


 私は動けない。

 視界が滲む。


 (立って。動いて――こいつを殺すのよ。八つ裂きにするの……)


 しかし、意識はそこで暗転する。

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