浄化の正体
老騎士は、ボクの前に跪いたまま顔を上げ、じっとこちらを見つめていた。
「あなた様には……この地域の穢気は、さぞかし苦しいものでしょうな」
深く、低く、呟くような声だった。
「……どういうことだ?」
問い返すと、老騎士はにやりと口元を歪めた。
「この国の穢気は、あなた様が育ったセレフィア王国とは性質がまるで違うのですじゃ。あちらはどちらかといえば、長年の平和の中で私利私欲により発生した……いわば“平和ぼけした穢気”」
彼はそう言いながら、掌を上に向けて掲げると、そこに黒く濁った塊が現れた。まるで生き物のように蠢くその塊が、ぐるぐると彼の手の上で回転する。
「一方、このザイレムの穢気は、血と怒りと裏切りが織りなす、戦乱の産物……濃く、重い穢気」
老騎士はその黒い塊をつまむようにして持ち上げると、ふうと息を吹きかけた。塊は煙のようにゆらめき、また掌の中へと沈んでいった。
「儂らのような邪鬼の中にも、この国の穢気が好みの者もいれば、どうにも肌に合わんという者もおる。……ほれ、酒の好みに似とりますな。甘口が好きな者もいれば、辛口が合う者もおる」
まるで世間話でもするかのような調子に、ボクは言葉を失った。
「な、なんで……なんで、浄化の祠なんて呼ばれてる場所に、邪鬼であるあなたがいるのよ!」
隣でイリスが声を荒げると、老騎士はあからさまに鬱陶しそうにため息をついた。
「だから、人間は面倒でいかん。そんなの、簡単なことですわい。儂がこの地の穢気を喰うておっただけのこと。そこいらの連中に『ここに来れば身体が軽くなる』とでも噂を流してやれば、阿呆な人間どもはわらわらと群れてくる。そこでやってきた連中の中でたまにいる、穢気に犯されたやつらの穢気を儂が喰えば、あとは尾びれ背びれが勝手について人が集まるもんじゃ。それに供え物まで丁寧に用意してくれるんじゃから、いやはや便利な世の中になったもんじゃ」
そう言って、並べられた供え物へと視線を移す。その目は、まるで出来のいい獲物を前にした捕食者のようだった。
イリスは唇をぎゅっと噛みしめていた。怒り、そして戸惑い。その気配が横から伝わってくる。
老騎士はそんなイリスを無視するようにして、再びボクの方に顔を向けた。
「どれ……少々、儂の昔話にでも付き合ってくださらんか。“黒の器”様」
そう言って老騎士は、祭壇の脇にある石段にどっかりと腰を下ろした。
「昔、ザイレムの国中で戦があった頃――儂はこの地でそれなりに名の通った騎士団の長を務めておりました」
ボクは黙って、その語りを聞いていた。
「強さ、忠義、名声。すべて持ち合わせておったつもりでした。……だが、それを恐れたのですじゃ。愚かな領主が」
老騎士の声に、かすかに苦みが混じる。
「奴は密かに情報をねじ曲げ、兵士達の中で儂を“裏切り者”に仕立て上げた。そして……信じていた部下たちの手で、儂は背後から――刺された」
淡々と語るその目は、まるで遠くの記憶をなぞるようだった。
「死に瀕した恐怖。信じていた者に裏切られた絶望。そして、何より――愚かな領主への憎しみ、怒り。それらが、渦となって儂の中で渦巻いた。焼き尽くすほどの黒い炎となって」
老騎士の掌が再び闇に染まり、空中に黒い塊が浮かび上がった。
「最初はその黒い炎は儂の身体を蝕み、今のあなた様のようにこの身を苦しめた。でも、ある時ですじゃ。忠義も、理性も、何もかもがもうどうでもよくなった。そして、思うままに怒りに身を委ねた。すると……面白いことに、その感情が儂を癒し、そして力をくれたのです」
老騎士の口元に笑みが浮かぶ。その笑みは、あまりに冷たい。
「それが、穢気による“邪鬼化”ですわい」
老騎士は祭壇に並べられていたお供えの一つ、古びた陶器の徳利を手に取った。栓を抜くと、かすかに酒の香りが立ちのぼる。
「これも人間の“祈り”のひとつ。だが、儂にとっては祈りなんてどうでもよく、礼なんて返す気も無い。まさにただ酒ですじゃ」
そう言って、躊躇なく口元に酒を流し込む。ごくり、ごくりと喉を鳴らしたあと、ゆっくりと息を吐いた。少しだけ、老騎士は遠い目をしていた気がする。
「……どれだけ忠誠を誓おうが、正しく力を使おうと思おうが、行き過ぎた者は異端として恐れられ、いつか裏切られる」
その声には、あまりに深い闇があった。静かで、冷たくて、悲しみと怒りが同居したような。
そして、老騎士の瞳がまっすぐにボクを射抜く。そこに宿るのは――燃え盛る憎悪の焔。
「あなた様も、すでに経験があるはずですじゃ。幼き頃より、周囲から忌み嫌われた記憶が。そして異端として、恐れられた経験が。……どうか、思い出してくだされ。あなた様は、“こちら側”の人間ですぞ」
老騎士の周囲で、先ほどの黒い塊が再び現れる。ぐるぐると、彼の手の周りをまるで生き物のように旋回しながら。
「この力は、儂などよりもずっと……あなた様の方が、馴染むはずじゃ」
その黒い塊はボクの目の前でピタリと静止したと思うとスルスルと持ち主の元へと戻っていく。
「そこの小娘だって、いつ寝首をかきにくるかわかりませぬぞ? 人とはそういうもの。恐れるあまり、刃を向ける」
その言葉に、イリスが叫んだ。
「バカなこと言わないで!」
でも老騎士の耳には、もう届いていないようだった。
「こちらの世界はいいですぞ。力こそがすべて。強き者に、すべてが従う。シンプルで、美しい。そう思いませんかな?」
酔ったように天を仰ぎ、両手を広げる。その姿は、狂気すら帯びていた。
「是非、その御身にこの力を宿し、儂らの――いや、我ら“穢れの者たち”の、新たな希望の柱となっていただきたいのじゃ」
彼は立ち上がり、ふらりとこちらに歩み寄ると、ボクの両手をぐっと握りしめた。
「どうか……どうか……」
懇願するような声。揺れる目。強さと狂気と期待とが入り混じった感情。
でも、ボクは――その手を、振りほどいた。
くるりと背を向けて、静かに言葉を紡ぐ。
「……ボクは、生まれてからしばらくの間、忌み子として嫌われてきた。疎まれてきた」
記憶が、心の奥底から浮かび上がる。冷たい視線。汚らわしいと罵る声。小さな肩にかけられた、数えきれないほどの悪意。
「両親からも見放され、周囲からは汚物のように見られて、何を言っても届かなくて。あの頃の苦しさは、今でも胸に焼きついてる。……たぶん、一生、あの人たちを許すことはできない」
「そうじゃろう、そうじゃろう……」
老騎士の声が満足げにうわずる。だが、ボクは――
「でも」
振り返って、その目を真正面から見据えた。
「ボクは――良き師匠に出会った。リゼという人に。リゼはボク自身の価値を教えてくれた」
リゼの剣。教え。あの厳しさと、優しさ。そしてボクは横に立つイリスの方にちらりと目をやる。
「それに何より……良き仲間に出会った。イリスも、他のみんなも、ボクにとってかけがえのない存在だ」
胸の前で拳を握る。力を込める。
「たしかに、人は愚かかもしれない。異端を受け入れないかもしれない。……でも、そうじゃない人もいる。少なくとも、今のボクの周りには、“信じたい”と思える人たちがいる」
イリスが、かすかに声を漏らした。
「……コウ……」
老騎士はしばらく顔を伏せていた。静かに、酒の香りを残した息を吐き――やがて、ぽつりと呟いた。
「左様ですか……」
そのまま、ゆっくりと顔を上げる。
ニヤリ、と笑った。
「ならば、仕方あるまいな」
そう言った次の瞬間。
「その身体、“器”として――存分に、儂が使わせてもらうとしようかの」
その手から、黒い塊が放たれた。
速い。避ける暇もなかった。
「……ッ!」
黒い球は、真っ直ぐにボクの腹部、丹田に吸い込まれた。
身体を燃やし尽くすかのような衝撃とともに、次の瞬間にはボクの意識は再び遠のいていった。