出発前
イリスが部屋を出てから、しばらくぼんやりと天井を見つめていた。宿屋の室内は静かで、外のざわめきも遠く、なんだか世界に自分ひとりしかいないような気がした。
ボクは体を起こし、ゆっくりとベッドに腰を掛けた。ほんの数日、体を動かさなかっただけなのに、全身が石みたいに固まってしまっている。立ち上がって大きく伸びをしてみると、関節という関節から、バキバキッという乾いた音が響いた。
「……うわぁ……」と自分の体の鈍りに思わず苦笑しつつ、腕をぐるぐると回してみたり、軽く屈伸したりして確かめる。気を練ってみると、流れも問題なさそうだった。
「うん、だいぶ戻ったみたいだな」
つい数時間前までは気を失って倒れていたとは思えないほど、体調は戻っていた。
喉の渇きを覚えたボクはベッドの脇に置かれた水差しに手を伸ばす。イリスが準備してくれた水をコップに注ぎ、口をつけると、ひんやりとした冷たさが喉を潤してくれるとこれまで少しもやが掛かった頭の中がすっきりしてくる。
「イリス、大変だったんだな……」
思わず漏れた言葉は、静かな室内にしみ込んでいった。
影狼の群れの襲撃。それを退けたという話。
イリスは「通りすがりの冒険者が助けてくれた」と言っていた。
でも……それを聞いた瞬間、ほんの少しだけ、胸の奥にざらついた感覚が残った。
言葉にできない違和感。けれど、はっきりとあった。
(あのときに感じた違和感は……)
彼女の声のトーン、言葉の選び方、ちょっとした間。
以前のボクだったら、きっと何も気づかずに「ふうん、そうなんだ」とそのまま受け取っていたと思う。
だけど今は――そのごく僅かな「ずれ」が、なぜだか胸に引っかかった。
(……あれは多分、イリスは何かを隠している感じだ――)
でも、それが何なのかまでは分からなかった。
問いただすこともできなかったし、問いただすべきなのかもわからなかった。
ただ、確かに“何か”がある――そう感じた。
そして、そんな風に考えてしまった自分に、自分に驚いていた。
人の隠し事に――というより、人の気持ちの微かな揺れに、自分が気づけるようになったことに。
(……今まで、そんなこと、なかったのに)
これまでは自分を守るために人の怒りとか憎しみといった負の感情にばかりとらわれていた。だから、その他の感情に目を向けることができなかった。
でも、今のボクは――ほんの少しだけだけど、怒りとか憎しみ以外の人の心の動きを感じ取ることができた。
そのことが、嬉しくて。
けど、少しだけ、怖かった。
(人の気持ちって、こんな風に伝わってくるんだ……)
気を練るだけじゃなくて、“気持ち”を、感じられるようになった気がした。
それは、きっとリゼがボクに教えようとしていたことの一部なんだろう。
(……ほんとに、少しずつだけど。 ボク、変わってきてるんだな)
ふと、遠い日々を思い出す。ボクに気という力を教えてくれた、強く、厳しく、優しいリゼという剣士の姿。
そしてセリナのあたたかさも、イリスの真っ直ぐさも、ボクを支えてくれている。
(本当に……周囲の人に恵まれてるな、ボクは)
自然と、そんな感謝の気持ちが湧き上がってくる。
(特に今回イリスは……ボクを守るために、魔物を退けて、森を抜けて、ここまで連れてきてくれたんだ。 それだけじゃなくて、ボクの体調を治すためにいろんなところと話を付けてくれて……)
その姿を思い返すと、胸の奥がじんわりとあたたかくなっていく。
(ちゃんと……お礼、しなくちゃ)
「イリスから頼まれたからやるんじゃない。 ボク自身の意志で、イリスのために何かをする。 それが、今のボクが“したい”ことなんだ」
自分の心に、はっきりとそう誓った。
***
部屋の扉が小さく開き、イリスが戻ってきた。
「おかえり」
そう声をかけると、イリスは少しきょとんとした顔をして「もう大丈夫なの?」と返してきた。
「明日ね、浄化の祠に向かうわ。今日はさすがに、間に合わないから」
そう言われて、ボクは少し肩を落とす。
「そっか、今日行けるのかと思ってたのに」
すると、イリスはあきれた顔をして言い放った。
「……あんた、今さっきまで寝込んでたんだから、ちょっとはおとなしくしてたらどうなの?」
「いや、だってさ、 ここ数日動いてなかったせいで体がなまっちゃってる気がしてて」
と言うとイリスは嫌にたっぷりに
「あんたのその体が動かなかったせいで、私がどれだけ苦労したのか、わかってるのかしら」
まったく、と言わんばかりのその口調に、ボクは素直に「はい」とうなずくしかなかった。
その後、イリスは少し間を置いて、ふいに問いかけてきた。
「ねぇ、あんた。この国について、どう思ってる?」
急な問いに、少し考えてから口を開く。
「穢気の扱いについては、正直セレフィア王国よりずっと進んでると思う。セレフィア王国で穢気についてこんなに身近に感じることってなかったよね」
イリスはこくりとうなずいた。
「そう。穢気について図書館で調べたときはほとんど何もわからなかったのに、ここの人たち、知ってる人はちゃんと理解してるのよね。もちろん全員じゃないけど……だから、その差はすごく大きいと思う」
「穢気がどこまで武力に影響を及ぼすのかわからないけど、でも気の扱いに長けてるっていうのは注意が必要だと思うな」
「ちなみに、この国の人たちについてはどう思う?」
イリスは自分の考えの答え合わせをするように加えてボクに尋ねる。
「この国の人たち、すごく親切だよね、色んな場面で暖かいなって感じる」
「うん、私もそう思うわ。影狼の魔石がどの程度の価値かは分からないけど、それだけでカレン様が来てくれたんだもの」
そしてイリスはあっ、と気がついたように加える。
「そう、そういえばね、――カレン様って、実は帝王のご子息の付き人だったのよ」
「え、そんな高位な方の?」
イリスはうんと頷き、「ご子息はセルギス様って言うらしんだけど、その方の体に溜まった穢気を抑えこむ体調管理を任されているそうよ」と補足する。
イリスはふと、思ったことを口にした。
「ねぇ、コウ。セルギス様が黒の器って可能性はあるの?」
問われたボクは首をひねる。
「ボク自身は、人から黒の器だって言われただけだから詳しいわけじゃないんだけど……セルギスさんってボクと同じように黒目黒髪だった?」
「セルギス様は白髪だったわよ」
「そうなんだ……ボクが子供の頃村の人から嫌われていたのは、その黒目黒髪だったからなんだ」
「ってことは、セルギス様が黒の器って可能性はなさそうね」
ボクは頷きながらも、何となくモヤっとする違和感が残った。
けれど、それ以上に思ったのは――
「でも、そんな偉い人が直接出向いてくれる国って、本当にいい国なんだな、って思う」
イリスも、少し考えるように目を細めた。
「この国と戦争することになったら、どうする?」
イリスのその問いかけに、ボクは一瞬だけ、彼女の表情を見つめた。
その瞳の奥に揺れていたのは、“迷い”だった。
まるで、答えを求めてるんじゃなくて、同意してほしい――そんな風にも見えた。
「少なくとも、自分からこの国に攻め込むのは、嫌だな。ヴァルティアを守るため、っていうならまだわからなくもないけど……」
その答えに、イリスはほっとしたように深く頷く。
「ほんと、それよね……頭では分かっていたはずだったけど、こっちの人にも、ちゃんと“生活”があって、“日常”がある。それを“国のため”って理由だけで壊すなんて、私には納得できないわ」
そして彼女は、ふと窓の外の街を眺めながら、小さく呟いた。
「これが……お父様が、私に学ばせたかったこと、なのでしょうね……」
静かに、けれどしっかりと心に残るその言葉に、ボクは何も言えなかった。
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