とある場所にて
どこかの国――セレフィア王国でも、ザイレム帝国でもない、名も知らぬその地に、静かに佇む壮麗な城があった。
高くそびえる尖塔と重厚な黒鉄の門。セレフィア王国のヴェルナード城にも勝るとも劣らぬその荘厳さは、訪れる者の足をすくませるほどの威圧感を放っていた。
その城の一角、書斎とも研究室ともつかぬ一室。棚には分厚い書物や、刻印入りの薬瓶、魔術具らしき器具が所狭しと並べられていた。
部屋の片隅に設けられた机で、白衣をまとった長身の男が椅子に腰掛け、丸眼鏡の奥の瞳を細めて報告書を読み込んでいた。
「……ふむ。これは、どういうことだ……?」
小さく呟いた男――ヴェラドは、手にした羊皮紙の束を睨みつけながら、眉根を寄せる。
「よぉ、なんだなんだ。いつも冷静なお前が、眉間に皺なんて珍しいじゃねぇか」
ぶしつけな声と共に、扉を開けて現れたのは、鋼のように隆々とした筋肉を晒す男だった。彼の名はグラオル。火の邪気を操る、炎爪の異名を持つ戦士。
その後ろから、緩やかに揺れる長髪を垂らした女が続いた。透けるような布で身体を覆い、その肢体はまるで幻のように妖艶だった。
女の名はフィルナ。陰邪を纏い、霧眼の名で知られる幻術の使い手である。
「……グラオル、フィルナ。お前たちか」
椅子から軽く体を浮かせたヴェラドが、手にしていた報告書を彼らに示す。
「この数日間で、吸穢の祠の穢気が……急激に減少している。前回は“9”だった数値が、今回は“1”だ」
彼の言葉に、グラオルは「おいおい」と目を見開いた。
「誰かが祠の中で、穢気を吸い尽くしたってことか? ……つまみ食いってやつか?」
「それが、そう単純じゃない」
ヴェラドは報告書を広げて見せる。その紙には、いくつもの祠の名前と、現在の穢気濃度が記されていた。吸穢の祠の数値だけが、異様なまでに突出して減少している。
「こんな大量の穢気を吸収すれば、ただの魔物なら即座に邪鬼化して暴走する。あるいは、邪鬼が穢気を吸収したのであれば、それこそ強さが大きく変わっているはずだから、私たちも気がつくはずだ。 だが、周囲の監視網にその兆候はなかった。魔物の暴走も、邪鬼の強化も、祠の破壊もなし」
「つまり……その穢気を“ちゃんと扱える”奴がいた、ってこと?」
フィルナの問いに、ヴェラドは頷く。
「それは可能性の一つとしてある。 もしくは、祠に封じられていた穢気が、何らかの要因で“浄化”された可能性、あるいは邪鬼化したがすぐに討ち取られた可能性、そして邪鬼化したのに飲み込まれず、自らの意志で制御している可能性、可能性をあげれば切りが無い」
「お前は相変わらず言いたいことがまわりくどいっつうんだ。何がいいたんだ?」
「お前は逆に、話を短絡的に理解しようとしすぎだ」
「講釈垂れるのはお前の専門だろ。 推測しろよ、ヴェラド。結論は?」
「現時点では情報が少なすぎるから判断ができんのだ。だが、浄化する術は限られている。ザイレム帝国の祠守でもなければ、それは難しいはずだ。だから、穢気は何かしらの形で一度具現化した。そこまではほぼ間違いないとみて良いだろう」
グラオルは「あぁ、これだからこいつと話すのは嫌いだぜ」と頭をかきむしると、助け船を出すかのようにフィルナは付け足す。
「ということは、それが誰かの手に渡って力となっているか、あるいは具現化したと同時に消滅させられた、ということね」
ヴェラドは頷いた上で机の端にある地図を取り出し、「一つの仮説だが」と前置きを置いた上で祠の位置を指差した。
「この周辺……数百年にわたって、穢気の溜まりやすい“地脈の揺れ”が記録されてきた場所だ。そして、この祠の近くには――“黒の器”が発生しやすい条件が揃っている。そして、最近はこの地域に邪鬼が発生したという話は少なくとも我々は情報を入手できていない」
その言葉に、空気が変わった。
「では、新しく目覚めた黒の器が、吸穢の祠の穢気を奪った、と?」
フィルナが目を細める、グラオルは腕を組み直す。
「それって、あの“あの方”以来のやつか?」
「ああ。だが、確証はまだない。あくまで可能性であり、仮説だ」
ヴェラドは静かに言ったが、その瞳は報告書の数値以上の“異常”を感じ取っている様子だった。
「……黒の器が現れたのなら、その力をどう使うか、我らにとっても大きな意味を持つ」
「でもよ、もしその器が“こっち側”に来なかったら?」
「……そのときは、破壊するしかないでしょうね」
フィルナの言葉に、誰も反論しなかった。
「ま、俺はどっちでも構わねぇけどな。久しぶりに、ちょっとワクワクしてきたぜ……!」
グラオルは不敵に笑う。その拳には既に火の気配が灯っていた。
「とりあえず、引き続き調査は継続する。現地の監視強化と、近辺の魔力流動も精査する。黒の器であるならば、いずれ動くはずだ。 そのときが、我々の出番だ」
ヴェラドの言葉に、二人は同時に頷いた。
黒の器――それは、かつて邪気の国に大いなる変革をもたらした存在。そして今、再びそれが動き出した気配が、静かに、確かに彼らのもとへ届いていた。
***
2人と話が終わると、ヴェラドは机の引き出しから、漆黒の小さな水晶を取り出す。艶やかに濡れたようなその表面には、幾重にも複雑な魔法陣が刻まれていた。
彼はその黒水晶に指を添えると、低く呟いた。
「観測班、各地の調査員へ。こちらヴェラド。黒の器が再発現した可能性がある。もし該当地域でそれらしき存在を見かけた場合――即座に報告せよ」
水晶が一瞬だけ紫に輝き、やがて淡くその輝きを沈める。
同時に、遠く離れた各地で、その声は確かに届いていた。
とある廃墟で瓦礫に紛れて潜んでいた者は、報せを聞いて血のような舌を出して笑った。
「黒の器……! また、あの力が現れるのか……! くくっ、面白くなってきたじゃないか……!」
ある者は水晶を睨みつけ、顔を歪めて唸る。
「また……あの選ばれし存在か……。またオレの出世が遅れちまう……」
別の者は、祠の近くの木陰で小さく囁いた。
「黒の器、か。その器の力を私が使えば……あの方に迫る力が得られる……」
黒の器という存在に、誰もが過敏に反応していた。
それは、邪鬼にとって特別な象徴であり、恐れと羨望と、支配欲の対象だった。
――そして、伝令を飛ばしたヴェラドは静かに玉座の間へと足を運んでいた。
玉座に座る者は、巨大な影に包まれていた。
その体は漆黒の鎧に覆われた黒目黒髪の男だった。
ただ、その瞳の奥からは赤い邪気の光を宿していた。
「……王よ。新たな黒の器が、活動を始めたかもしれませぬ」
ヴェラドが膝をつき、淡々と告げる。
玉座に座る邪鬼王は、沈黙のまま顎に手を添え、しばし動かなかった。
やがて――
「ふん……」
低く、鼻で笑うような声が響いた。
その声には、怒りも、喜びも、驚きもなかった。ただ――**“愉悦”**が、潜んでいた。
「また、世界が転がるかもしれぬな」
邪鬼王の笑みの奥にあったのは、冷たい好奇心だった。
本日から第6章、スタートです!
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