黒く揺れる炎
──気がつけば、ボクはまた、あの焚き火の前にいた。
けれど、今は静かな夜だった。冷たい夜風が肌を撫で、空にはいつも見えていた綺麗な月も万点の星空もない。まるで、世界から音と光が失われたような、そんな静けさに包まれていた。
ユグ山の中腹にある、リゼと一緒に過ごしたあの場所。だけど、その焚き火の炎は黒く、どろどろとした液体のように歪んで燃えていた。すると突然のことだった。
「……お前は無力だ」
焚き火が、不意に音を立てて弾けた。
ぱち、と焦げた薪の破片が宙に舞う。次の瞬間、炎の奥――黒々と怪しく燃えていたはずの光の中に、黒い影が浮かび上がった。
その影は、ぬるりとした液体のように形を変えながら、ゆっくりと、地を這うように広がってくる。
「お前には、何もない……」
影の中から現れたのは、ぐずぐずに崩れかけた牙鼠だった。
かつて吸穢の祠で戦った邪鬼化しかけた魔物たちが、体の半分を黒く焼かれたまま、這い出してくる。目は白濁し、口元は笑っているように見えた。
ぞろ……ぞろ……と、焚き火の奥から次々に姿を現すのは、穢れに染まった亡者たち。この山で戦った、片腕を欠損して邪鬼化した山の主までもが、その群れの後ろから姿を現す。どの魔物も、全身を黒い気で覆われ皮膚が脈打つように蠢いていた。
「……っ!」
コウは反射的に一歩、後ずさる。背中に冷たい風が当たり、全身に鳥肌が走る。
(な、なんだよ……これ……)
手が勝手に動いていた。腰の短剣を抜く。空気がざわめいた。だが、刃の冷たさよりも、心の奥底から滲み出す“何か”の方が、ずっと寒かった。
「お前は、いつもイリスに助けられてばかりで……自分じゃ、何もできない」
どこからともなく聞こえる声が、焚き火の炎をくぐるように響く。そのたびに、黒い魔物たちの体が微かに揺れた。
まるで、焚き火そのものがボクの恐れをあぶり出しているように思えてくる。
「ちがう……!」
言葉を返したはずなのに、自分の声が出ていなかった。唇だけが動き、喉の奥に何か詰まったように声が潰れていた。
目の前の魔物たちは、こちらを嘲笑うように、じり、じりとにじり寄ってくる。
剣を握り直し、もう一歩、後ろへ下がった。
(なん……なんだよ……、違う……ボクは、ちゃんと……!)
「来る……っ!」
魔物達は一斉にこっちに向かって飛びかかってきた。
ボクは咄嗟に構えを取った――つもりだった。
だけど、足が……動かない。いや、わずかに動いた。でも、遅い。重い。
靴底が地面に張りついたようで、思ったよりも一歩が出ない。
(あれ……?)
頭の中では完璧な剣筋を描いているのに、身体はそれに追いついてこなかった。
背筋に走るぞわりとした寒気が、全身の関節を凍らせていた。
――ざっ、と音がした。
目の前にいた牙鼠の一体が、真っ直ぐ突進してくる。
その姿はどこか人のようでもあり、けれど明らかに人ではない。剥き出しの牙、黒い皮膚、裂けた口元から垂れる濁った液体。
「ふっ――!」
反射的に剣を振る。
振り下ろした白刃は、魔物の首筋を断ち切った。
ぐしゃり、と鈍い音とともに、牙鼠の首が転がる。
だけど――
(……え?)
切り離された首元から、黒い煙のような“気”が立ち上る。
そして次の瞬間、その黒煙が糸のようにうねりながら、断面に巻き付き――
ズゥ……ッと、首が“戻った”。
まるで、切断された事実そのものが“なかったこと”にされるように。
「な……なんだよ、これ……!」
もう一度、今度は胴体を斬る。
手応えはある。斬った感触も、確かにある。
でも、その切り口からまた黒い気が流れ出し、同じように、無理やり接着するように――元に戻る。
(効いてない……!?)
牙鼠の瞳が、ぎらりと光る。今度は三体が一斉に動いた。
「っ――!」
剣を横に払う。二体の動きを止めるが、三体目が死角から襲いかかる。
咄嗟に肩を引くが、黒い爪が頬をかすめる。
ヒリ、と焼けつくような痛み。
(この感覚……穢気……)
倒しても倒しても、切っても戻る魔物たち。
その中心で、コウは剣を握る手に力が入らなくなっている自分に気づいた。
(ちがう……ちがう……! こんなの、ボクが戦ってきた相手なんかじゃ……!)
視界が揺れる。空気が重たい。地面が軋むように歪む。
思考がまとまらないまま、コウは再び剣を構えた。
けれど、剣の切っ先は、さっきよりも――微かに震えていた。
斬っても斬っても、魔物は再び立ち上がる。
形を失い、黒い気に崩れたはずの肉体は、煙のように再構築されて――笑うような目を向けてくる。
(なんで……なんで、効かないんだよ……!)
剣を振るたびに、焦りが募った。
振るうたびに、自分の無力さが浮き彫りになっていく気がした。
そのときだった。
(……もう、いっそ全部、壊してしまえたら)
ふと、心の奥底から、そんな声が響いた。
それはあまりにも小さくて、最初は“つぶやき”にも満たない囁きだった。
(……壊せば、終わるのに)
次の瞬間、魔物の一体が横から襲いかかり、コウの腕に浅く爪が食い込んだ。
「くそっ……!」
痛みと同時に、心が揺れた。その揺れに紛れて、さっきの声が少しだけ強くなる。
(壊せ……すべて壊せ。目の前のものも、過去も、記憶も、弱さも……)
その声は、まるで焚き火の黒炎の中から湧き上がるように、じわじわと自分の心の奥から広がっていく。
怒りでも、悲しみでもない。ただ、「全部なくなってしまえ」という願いに似た感情。
(こんな世界、どうせ……)
気づけば、剣を握る手に力が入っていた。
振るう速度が、ほんのわずかに速くなっていた。
切り裂くたびに、胸の奥でざわめく感情が、言葉にならない叫びを上げる。
(この手で、全部ぶっ壊してやれば――)
それは自分の中で、最初は小さな“染み”だった。
でも今、その黒い染みは、静かに心の表面を塗り替えていた。
まるで、黒い墨が水に落ちて広がるように――
破壊の願いが、ボクのすべてを、じわじわと侵していく。
胸の奥で、何かが音もなく軋んでいる。
もう止められなかった。
コウは剣を握り直し、再び魔物へと向き直った。
今度は迷いがない。いや、迷う感情が、もう自分の中から消えていた。
「どけ……」
低く、唸るような声が喉から漏れる。
眼前に迫る牙鼠の一体を、横薙ぎに一閃。
裂かれた体が煙のように崩れかけるが、さっきまでのように再生しきる前に――
「……消えろっ!」
叫びとともに、もう一撃。
断面が再生しようとする前に、叩き斬る。繰り返し、繰り返し。
コウの動きは、すでに戦術ではなく、“破壊”そのものに近かった。
「全部……壊れてしまえ!」
牙鼠、蛇型の魔物、山の主の残骸。
次々と現れるそれらを、ひとつ残らず切り伏せていく。
切り口からは黒い気が噴き出し、焚き火の黒炎と混ざり合っていく。その剣は狂気に染まり始めていた。
空気が、ざらざらと音を立てて震える。
剣を振るうたび、刃の周囲に黒い気流がまとわりつく。
それが自分の気なのか、魔物の気なのか、もうわからない。
ただ――気持ちよかった。
壊すことが。
何もかもを無に帰すことが。
「ははっ……ははははっ!」
自分でも知らない声で笑っていた。
肩で息をしながら、剣を持つ手が微かに震えている。けれど、その震えは恐れではなかった。
むしろ、悦びに近い。ようやく「何かをしている」という実感。
(もっと……もっと壊したい。 これこそが、ボクの生きる価値)
そのとき――
焚き火の中心。黒炎が渦を巻き、うねった。
その渦の中から、誰かがゆっくりと歩いてくる。
小さな影。黒髪の少年。
それは、紛れもなく――“幼いボク”だった。
ボクはその少年と対峙すると彼は、ただまっすぐにコウを見つめていた。そしてつぶやく。
「お前は誰かの言いなりになっているだけだ。本当のお前なんてどこにもいない」
――気づけば、我を忘れたボクの剣の切っ先が、その首筋に向けられていた。
剣先が、喉元の皮膚に触れる。一筋の赤い血がその細い首筋を伝う。
ほんの少し力を入れれば、あの細い首は簡単に落ちる。
「……お前で、最後だ」
言葉が口を突いて出た。
剣を握る手が、まるで他人のもののように感じる。
そのときだった。
(――それ以上進んじゃダメだよ)
どこからか聞こえた、優しい声。
焚き火の音に混じるように、微かなその言葉が、コウの耳に届いた。
まるで誰かが、ボクの背中に手を添えて止めてくれているようだった。
だが――
目の前の幼いボクはただただこちらを見下ろすような眼差しでこちらを見つめている。すると、怒りがまた込み上げてきた。
「もういいだろう……! ボクも楽になりたいんだ!」
剣を握る手に力を込め、剣を引こうとしたその瞬間――
――眩い、黄色い光が、すべてを包み込み、視界が白に染まった。