魔石の価値
エルネアの風の気で少しは楽になったように見えるが、コウの体はまだ本調子には程遠かった。私は彼の腕を肩に回し、なんとか体を支えながら、森を抜けた先に広がる帝都の門を目指して歩いていた。
ようやく辿り着いた帝都は、思っていた以上に物々しい空気に包まれていた。門の前には武装した兵士がずらりと並び、町の中でも兵士たちが慌ただしく走り回っている。あちこちで指示の声が飛び交い、緊張感が肌に刺さるようだった。
(……もしかして、セレフィア王国との戦争が始まった……?)
可能性がないわけではないが、アグナルからこれまで聞いていた様子や、今回の訪問で各地から話を聞く限り、そこまで戦争が喫緊に迫っているようには感じなかった。
そんな光景に不安を覚えつつも、今はまずコウを休ませることが最優先だ。身分証を見せなければ私たちがセレフィア王国の人間だとばれることはまずない。宿屋で状況を確認して、最悪逃げ出せばいいだろうと腹を括る。それでも、私は兵士たちの視線を避けながら、人通りの多い通りを抜けて宿屋を探した。ようやく見つけた比較的こぢんまりとした宿屋に飛び込むと、受付のまん丸とした女性がコウに肩を貸す私に驚いたように目を見開く。
「……あの、体調を崩してて……部屋、空いてますか?」
すぐに空き部屋があると宿泊の手続きを後回しにして部屋に案内され、私はコウをベッドに横たえた。額には汗が滲み、苦しそうな寝息を立てている。私が手拭いでそっとその汗を拭っていると、宿屋の店主が心配そうにこちらを見ていた。
「……帝都がこんなに慌ただしいのは、何かあったんですか?」
私は、宿屋への宿泊の手続きをしながら問うと、店主は私も噂でしか知らないんだけどね、と前置きを置きながら答えてくれた。
「……どうやら、帝都近郊で大型の影狼の群れが観測されたらしいんだよ。それで兵士たちはその対応でてんやわんやってわけさ」
(よかった……まだ戦争が始まったわけではなかった)
店主の言葉に、私は胸をなで下ろすと同時にはっとした。影狼……あの時、ジークとエルネアと共に戦った、あの群れだ。
「……もしかしたら、その影狼の群れ、私たちがその長を倒したかもしれません」
ぽつりと呟くと、店主は目をまん丸に見開いた。
「……なんだって!? そ、それが本当なら、大事な報告になる! ちょっと待ってな、すぐ兵士を呼んでくる!」
慌てて飛び出していく店主を見送りながら、私はコウの様子を見つめた。横になることで少しだけ呼吸が落ち着いているようにも見えるが、油断はできない。
しばらくすると、一人の兵士がやってきた。店主から話は聞いていたようで、私に向かって懐疑的な視線を向ける。
「君が……影狼の長を倒したというのか?」
私は頷き、腰のポーチから魔石を取り出すと、そっと彼の前に差し出した。
「……これはが群れの長から取った魔石です」
兵士はそれを見た瞬間、顔色を変えた。手に取って観察し、信じられないといった様子で呟いた。
「……この大きさと色……間違いない。すぐに兵士長のもとに案内しよう」
私はこくりと頷くと、コウに「ちょっと行ってくるから、ここで待ってて」とだけ伝えるとそのまま宿屋を後にする。
兵士の後をついていくとそこは帝都の中心にある大きな屋敷のすぐ側に兵舎に案内され、そこで私は改めて兵士長に事情を説明した。魔石を確認した彼は、慎重な様子を見せつつも、その大きさと気配からしておそらく間違いないだろうと判断し、深々と頭を下げた。
「……感謝する。君たちが影狼の長を討伐していなければ、我々は大きな被害を受けていたかもしれない。本当に長がいなくなっているか森に確認の部隊を出すが、ほぼ確定とみていいだろう」
「いえいえ、私たちもここに来るまでにたまたま遭遇しただけなので、運が良いのか悪いのか……」
そこまで言って私はそこでふと、伝えておくべきことを思い出した。
「……実は、一緒に旅をしている仲間が、その影狼との戦いの後から体調を崩してしまっていて。普通の体調不良ではなさそうだと、とここに来るまでに診てもらった方から言われて……それで、その診てもらったから、“ユエン様”や“カレン様”なら、何かこの症状に心当たりがあるかもしれない、と教えてもらったのですが……」
兵士長の表情が、少し曇る。
「ユエン様は現在、カグロウ様と共に地方へ視察に出ていて、しばらくは帝都に戻られない。 それに、カレン様も普段は表に出られる方ではないからな……だが、今回の件は国としても感謝すべき事柄だ。 影狼の件の確認とあわせて、カレン様に連絡を取ってみよう」
コウの調子はあんなだが、行く先々で色んな人が協力的に接してくれるザイレム帝国の人々に、私は感謝しつつ心が温かくなるのを感じた。
私は兵士長に礼を言って、宿の場所を伝えて一度戻り、その日は何ができるわけでもないが、コウのベッドの側で彼の様子を見ながら一夜を明かした。
***
気がつけば、私はベッドに突っ伏すようにして眠っていたらしい。窓の外はうっすらと明るくなってきていた。
「……っ」
ふと顔を上げると、コウは変わらず額に汗を滲ませ、苦しげに顔をしかめていた。その顔を見て胸が締めつけられる。私はそっと彼の手を握ると、ぎゅっと目を閉じた。
――そのとき。
「コンコン」
扉をノックする音が響いた。
「……どなたですか?」
(こんな朝早くに誰だろう)
寝起きのかすれた声でそう返すと、扉の向こうから控えめだが聞き覚えがある、この宿の女店主の声が返ってきた。
「すみません、朝早くに。急ぎの用件みたいで……兵士長と、もうお一方がイリス様にお会いしたいと」
昨夜の兵士長だ。私は急いで扉を開けると、兵士長の背後には一人の女性が立っていた。巫女装束を纏い、肩まで届く桃色の髪を端正にまとめたその女性は、穏やかながらもどこか近寄りがたい神聖さをまとっていた。
「朝早くからすまない。ただ、連れのことも考えると急いだ方がよいかと思ってな」
兵士長から部屋の前で説明を受けると私は頷く。「入っても?」と柔らかく確認され、私は慌てて頷いた。
「もちろん……どうぞ」
私は扉を開けて招き入れると、兵士長と後ろの女性がまだ薄暗い部屋に足を踏み入れる。
兵士長が言う。
「カレン様、こちらが例の討伐者と、その仲間の少年です」
「……はじめまして。カレンと申します。この度は、影狼の群れ長を討伐していただき、心より感謝申し上げます」
私もコウのこととあわせて自分たちがセレフィア王国から来たことは伏せて自己紹介をする。
丁寧に深く頭を下げる彼女の所作は、品のある貴族ともまた違った、何か特別な立場の重みを感じさせた。
(この人が……エルネアさんが言っていた、カレン様)
彼女はまっすぐこちらを見据え、すぐにベッドの脇へと歩み寄る。
「さて、どうやら、あまり悠長に挨拶をしている余裕はなさそうなので、早速ですが様子を見せていただきますね。……少し失礼します」
そう言って、懐から取り出した数珠を手に取りながら、静かにコウの丹田――気の流れの中心に手を当てた。
しん、と空気が澄んだ気がした。
次の瞬間、数珠に書き込まれた文字が浮かび上がると彼女の指先から柔らかな黄色の光が広がり、それが波紋のようにコウの体を包む。
「……これは……」
カレンの眉がわずかに動いた。
その間にも、黄色の気がゆっくりとコウの体内に浸透し、わずかに顔色が戻っていく。
「状態は……よくなりましたが……ただ――」
彼女は数珠を静かにしまいながら、深い呼吸をひとつ置き、私に向き直った。
「……この方の体内には、“穢気”が停滞しています。この国の穢気が、身体の奥深くまで入り込んでしまっているのです」
「穢気……でもなんで……」
エルネアさんの言った通りだった。
(でも、なんでいきなり……?)
思わず口を突いて出た疑問の言葉に、カレン様は丁寧に答えてくれた。
「ザイレム帝国は、十年前まで長く内戦が続いていました。その影響で、今でも一部地域には穢れの気配が色濃く残っています。……旅人の中には、その穢気に当てられて体調を崩す方も少なくありません。きっと、この方も――」
「治るんですか……?」
私の問いに、カレン様は少し難しそうな顔をする。
「穢気をある一定以上蓄積すると、それは体内の命気と混ざり合い、そして邪気となります。そこまでいってしまうと、その方に待っているのは邪鬼化でしょう」
(やっぱり……この国はセレフィア王国よりも圧倒的に気に関する知識が多い。私があれだけ調べるのに時間がかかった情報をこの人はさも当たり前のように知っている)
私はコウの心配もさることながら、基本的な気に対する知識差に恐怖を覚える。ただ、カレン様の目にはコウの邪鬼化を心配しているように見えたようだ。
「ただ幸い、この帝都には“穢気”を浄化するための祠があります」
私はその言葉に、思わず息を呑んだ。
(――吸穢の祠と同じような祠がこっちにもあるってこと……?)
私は、穢気がコウを飲み込もうとしたあの祠を思い出す。
けれど、私が知っているそれは、魔導具で無理矢理穢気を吸い集めていただけ。その結果、コウが近づいたときは結果的に黒の器を求めて穢気が具現化した。
(コウを彼女が勧める祠に連れて行ったときに、同じような結果をもたらすかどうか、それはここでは判断しようがないわね)
「その祠に、この方をお連れください。穢気を流し出し、身体の巡りを整える役目を果たしてくれるはずです」
私は一瞬戸惑った。コウをまた危険な目に遭わせるのか、いっそのこと、調査を早々に切り上げてセレフィア王国に戻った方がよいのではないか、とそんなことを考えてたときだった。
「イリス、いこう。その祠に。ボク、行ってみたい」
そういったのは、少しだけ顔色を少しよくしたコウ自身だった。




