体調の変化
「うわあ……見てよ、コウ! 見渡す限りが海だわ!」
「水の上なのにこんな速さで動いてるってすごいね!」
出航からしばらくの間、ボク達は興奮気味にはしゃいでいた。
ノイエルの港を離れ、ザイレム帝国の海へと入った船は、白波を立てながら滑るように進んでいく。潮風の匂い、波の音、そして遠ざかる白壁の街並み。初めての航海は、ボク達にとってまるで冒険そのものだった。
……けれど、それは最初の数十分だけの話だった。
「……うぅ……」
隣の席に座っていたイリスが、みるみるうちに顔を青ざめさせていった。船の揺れに体を持っていかれるたび、彼女の肩が小刻みに震えている。
「……だから言ったじゃん。あんまり飲みすぎると後が大変だって」
ボクが少し呆れたように言うと、イリスは眉をしかめながら、ぼそっと呟いた。
「……だって……美味しかったんだもん……」
そして珍しく素直に、小さな声で「ごめんなさい」と付け足した。
その顔があまりにも真剣で、ボクは思わず笑いそうになってしまった。
「まあ……うん、大丈夫だよ。 降りてちょっとすればよくなるみたいだしね」
――ただ、その頃から、ボク自身の体にも異変が起こり始めていた。
最初はただの酔いだと思っていた。けれど、船酔いというには重すぎる。
手足がしびれるようにだるく、胸の奥に鉛のような重さを感じる。
(……ボクもちょっと酔ってきたのかもな)
自分にそう言い聞かせながらも、違和感は拭えなかった。
数時間の航海の後、ようやく船はザイレム帝国の玄関口――バラスタに到着した。
ノイエルの白壁と開放的な空気とは対照的に、バラスタの街並みはどこか堅牢で、簡素だった。
木造を主とした建物が整然と並び、街全体が“必要最低限”で構成されている印象を受ける。
豪華さや華やかさはないけれど、その代わりに静かな秩序と誠実さが漂っていた。そして、所々に焼けた痕が残っている。
桟橋に設けられた簡素な関所では、旅人一人ひとりに入国の確認が行われていた。
イリスとボクもギルドカードを提示し、最低限の質問に答えると、あっさりと通される。
そのまま、街の中ほどにある宿屋に辿り着く頃には、ボクの体は鉛のように重くなり、ほとんど言うことをきかなくなっていた。
「今日はもう、休んだ方がいいわね」
イリスに言われるまでもなく、ボクは部屋のベッドに身を沈めた。頭が重く、目を閉じると意識がどこかへ引きずり込まれていくような感覚に襲われ、そのまま気を失うように眠りについていた。
翌朝になっても、体調はまるで回復していなかった。
「コウ、大丈夫?」
イリスから不安げに声をかけられるが、ボクはただ「うん……大丈夫」とだけ返した。
本当は、全然そんなことない。でも、心配はかけたくなかった。
そしてイリスはどうやら昨夜のうちに体調が戻ったようで、ボクが眠りについている間にバラスタの様子を少し見てきてくれていたようだった。ボクたちは荷をまとめ、バラスタをあとにする。そして帝都を目指して移動しながら、イリスはバラスタで見聞きしたことを教えてくれる。
「内乱が終わって、ようやく人々の暮らしが安定してきたみたいよ。家族で小さな畑を耕していたり、行商を始めたりする人もいるらしいわ。生活は質素だけど、皆どこか満ち足りてる表情だった」
ボクはゆっくりと頷いた。
「あと、属国化の話はあんまり関心なさそうだった。国の話でしょ?みたいな。自分たちにはどうでもいいって。でもね、せっかく平穏に暮らせるようになったのに、“戦争だけはやめてほしい”って、そう言う雰囲気だったわ」
……そして、森の中に入ったあたりで、異変は決定的になった。
バラスタからしばらく歩くと、帝都へと向かう街道から伸びる森に入った。
木々が生い茂り、枝葉が陽光を遮って、空気はひんやりとしている。
ときおり風に揺れる枝の音と、小鳥のさえずり。……それだけだったはずなのに。
「――っ、イリス、止まって」
(こんなときに……)
体の重さとともに迫り来る魔物の気配を感じる。
そしてその直後、空気がぴんと張り詰めたようになり、足元の草がざわりと揺れた。
「……来る」
低く構えたイリスの言葉とほぼ同時に、森の奥から黒い影が飛び出した。
それは、影狼と呼ばれる魔物だった。
狼に似た姿だが、毛皮は墨のように黒く、体表からは常に微細な“影の霧”を立ちのぼらせている。視界を奪い、複数で連携して襲いかかる習性がある。
「っ……!」
一体が、鋭い爪でボクに飛びかかってきた。
ボクはすかさず剣を引き抜き、その爪と交錯するように剣を振るった――
――はずだった。
「……っ!……」
剣が、重い。
まるで鉛を巻きつけたような感覚。いつものように振り抜いたはずの剣が、遅れてついてくるように感じられる。
それでもなんとか一撃を打ち払い、影狼を後退させたが、すぐに別の個体が横から飛びかかってくる。
(落ち着け……集中して……)
深く息を吸い、なんとか影狼に集中するが意識が集中できない。
それでも――イリスを、そして自分の身を守らなきゃいけない。
「うおおおおっ!」
気合いで一体を切り裂き、跳ねるように退いたもう一体の動きを見逃さず、横薙ぎに払う。
「コウ! 無理しないで、下がって!」
イリスの声が届いた。だけど、後退することができない。足が、鉛のように重い。目の奥が熱く、視界がぼやけてきた。
「っ……もう少し……もう少しだけ……」
――そして。
最後の一撃を振り抜いた直後、体が崩れるように前のめりに倒れた。
音が、遠ざかっていく。誰かの声も、風の音も、ただの響きに変わって。
(ああ……だめだ……)
意識が、暗闇に溶けていった。
***
今思えば、あの船の上の時点で、コウはすでに体調が悪かった。
けれどそのときの私は、てっきり自分と同じ船酔いだと思っていた。
翌朝になっても、コウの顔色は悪いままだった。
本来なら、帝都への移動は延期すべきだったのかもしれない。でも――
「大丈夫?」
そう声をかけると、コウは笑って「大丈夫」と言った。
それが、あの子の口癖みたいなものだと分かっていたのに。
(なんで、無理にでも止めなかったのよ……)
今の私は、そうやって何度も何度も後悔している。
目の前では、影狼たちが咆哮をあげて次から次へと迫ってくる。
その背後には、剣を手にしたまま動けなくなったコウ。倒れたまま、苦しそうに唸っている。
(――もう少し、ちゃんと様子をみればよかった……!)
黒い影が、音もなく地を駆ける。
まるで森そのものが意思を持って襲いかかってくるかのように、影狼たちは連携を取りながらイリスへと迫ってきた。
(四体……いや、もっと?)
音もなく広がる“影の霧”が視界を遮る中で、彼女は耳と気配で敵の動きを察知する。
斜め後方、なんとか隙を作って木々の陰にコウを運ぶと、私はそれを守るように剣を構えた。
水の気を体中に巡らせると、水の気が刀身に沿って揺らめき、冷たい蒼の輝きを帯びた。
次の瞬間、霧の中から一体が跳びかかってくる。それに合わせて、剣がしなやかに弧を描いた。
「っ……!」
斬撃と同時に、水の気が波紋のように広がり、影狼の動きを鈍らせる。
そのまま地を蹴って後退――ではなく、あえて横へと跳び、別の個体の攻撃をすり抜けながらカウンターの一撃を放つ。
一連の剣筋は、流れだった。
止まることなく、絶え間なく、コウを中心とした円を描くように動く。
水の気が霧と混ざり合い、薄く煌めく輪郭が魔物たちの目を惑わせる。
(連携してる……個別に見ていたらすぐにやられる)
影狼たちは一体が囮になり、他が左右から襲いかかる隊列戦を組んでいた。
見えない合図で包囲し、斜めの死角から牙を向けてくる。私はそれを――感じることで対抗していた。
「蒼玲流の剣は1対多を得意にしているのよ! 私一人だって、コウの1人くらい守れるんだからっ!」
地面をすべるように移動し、すれ違いざまに後ろ脚を切り払う。
返す刃で霧の奥にいたもう一体を打ち払う。
肩が焼けるように痛む。息が、上がる。
(まだ倒しきれてない。……でも、絶対にコウには近づけさせない!)
長引く戦い。
冷静さを保っているつもりでも、視界の端でうなされるコウの姿を見るたびに、胸の奥が締めつけられる。
(お願い……目を覚まして……)
その祈りを剣に乗せて、剣を強く握り直す。
でも、限界は近かった。
数は多いし、終わりが見えない。私は一人で、コウを守らなきゃいけない。
――それでも、私は絶対にコウを死なせない。
汗が額を伝い、剣を握る手が震える。
そのときだった。
時折確認していたコウの様子を見ると、霧の隙間から、黒い影が一体――木陰に倒れるコウを目掛けて、低く構えているのに気がつく。
(まずい……!)
水の気では間に合わないし、コウを巻き添えにしてしまうと思い、咄嗟にコウに向かって駆け出すが距離が遠すぎる。
「コウっ!」
私の叫び声に反応するかのようにコウは薄く目を開け、指先だけをなんとか動かし、剣を握る。
「……く……」
しかし、コウはそのまま剣を持ち上げることなく、苦痛に顔をゆがめている。
(間に合わない……)
――そのときだった。
「…………ッ」
何かが、空気を切り裂いた。
次の瞬間。
コウに飛びかかろうとしていた影狼の首が、すぱりと斜めに裂け、音もなく地面に転がった。
コウの側から現れたのは、一人の男だった。
短剣を逆手に構え、低く着地したその動きはまるで風のように無音で――鋭利だった。
「っ……誰?」
イリスが反射的に声を漏らす。
だが、その問いに答える暇もなく、霧の奥に再び“風”が走った。
風は優しく、けれど鋭く――まるで舞うような弧を描き、周囲の影狼たちを一網打尽にした。
霧が割れ、次々と黒い身体が吹き飛び、地面に叩きつけられる。
「大丈夫か」
短剣を納めた男が、イリスに向かって言った。
その鋭い視線は敵ではないと直感できるが、緊張が解けたわけではなかった。
イリスはわずかに頷き、剣を下ろす。
「一度、撤退するぞ。彼の状態じゃ、戦い続けるのは無謀だ」
男はコウの身体を迷いなく担ぎ上げると、手早く体勢を整える。
「道を切り開けるか」
そう訊かれたイリスは、小さく深呼吸したあと、静かに頷いた。
「……任せて」
最後の力を振り絞り、彼女は剣を構え直す。
霧が晴れていくその先に、脱出の道が見えた。