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中立都市ノイエル

 アグナルに呼び出されたセバスチャンは執務室にやってきていた。執務室の空気は、昨日の緊張がすっと引いたかのように、静かで心地よい余韻に包まれていた。


 アグナルは椅子の背にもたれかかり、手元の書類を一枚、ふわりと宙に持ち上げた。


 「子育てというのは……まったく予想外の連続だな」


 そう言って、ひらひらと振るのは、イリスの軍議出席に関する正式な通達書。次回からイリスを軍議に参加させるため、関係各署へ連絡するためにアグナルが準備した書状だった。金の縁取りが施された羊皮紙に、ヴァルティア家の印がしっかりと押されている。


 「そうでございますな。ですが――予想外だからこそ、目が離せず、つい気になってしまうものでもございます」


 セバスチャンの声に、アグナルは苦笑を浮かべると、その書状を両手でゆっくりと破いた。ビリ……ビリ……という音が、静けさの中で不自然に響いた。


 「軍議はまたの機会にしておこう。今のあいつにとって、必要なのは議論じゃない。見ること、感じること――そういう経験だろう」

 「はい。立派に、お育ちになられるかと」


 セバスチャンの言葉に、アグナルは破いた書類を屑籠に投げ入れると、ふと思い出したように視線を横にやった。


 「……して。今朝のお茶会の方は、どうだった?」

 「ああ、それはもう。久しぶりに剣技談義で熱く語ってしまいました。金剛猿の戦いでは、なかなか興味深い動きもあったようで」


 セバスチャンはわずかに笑い、一通り今朝の茶会での会話内容をアグナルに伝えるとアグナルのために煎れた湯気を立てるティーカップに視線を落とした。


 「……それと、イレーネ様の件。私としては、そろそろイリス様にお話しされてはいかがかと思います。コウ様から、イリス様が気にされていると伺いました」


 アグナルはその言葉を聞くと、一度天井を仰ぎ見て、長く息を吐いた。


 「たしかに。イリスも大人の顔をするようになったからな」


 昨日話をする中でイリスが見せた顔は、娘としての顔ではない、決意した女の顔だった。


 「……イレーネ。思っていたよりも、お前のことをイリスに話す日が早くなりそうだ」


 窓の外からは、風に揺れる庭木の葉が小さく鳴る音が聞こえていた。


 「全く……コウ君と出会ってからというもの、イリスの様子は一変したな。あいつが、あそこまで“女性の顔”を見せるなんて……なぁ?」

 「ええ。正直、私も驚いております」

 「……成長を喜ぶべきなんだろうが、あれだけ短期間でイリスを変えてしまったコウ君には……正直、父として少し嫉妬するな」


 アグナルはそう言って、少し寂しそうに微笑んだ。


 ***


 ボクとイリスを乗せてノイエルに向けて東に向かって街道を走る乗合馬車の中、窓の外には緩やかな丘と曲がりくねった川が交互に現れては消えていく。


 「……この馬車も、最近は空席ばかりですよ。戦の噂のせいで、東へ向かう人も減りましたからな」


 手綱を握る御者がそう語ったように、車内にはボクとイリス以外にもう一組の旅人がいるだけだった。セレフィア王国の各地で戦争の準備が始まりつつある今、他国との行き来には不穏な空気がまとわりついていた。空きの目立つ街道沿いの宿場町もどこか寂しさを感じさせた。


 それでも五日かけて進んだその先には、これまで見たことのない光景が広がっていた。

 馬車が丘を越えた瞬間――視界が一気に開けた。


 「……!」


 ボクは思わず窓の外に身を乗り出した。遥か前方には、まるで青い絵の具を広げたような大海原が広がり、その上に白く輝く街並みが浮かんでいた。

 海と陸とを結ぶのは、一本の大橋。優美な曲線を描きながら海をまたぎ、その先には白壁の家々が太陽を反射してきらきらと光っているノイエルの港町が見えた。


 「これが……ノイエル……」

 「……わあ」


 イリスは思わず感嘆の息を漏らした。


 橋の袂には風を受けてはためく旗。中央の紋章には、ノイエルの象徴である三重の波模様が描かれていた。国といっても小さな島一つ全体で1つの国のため、大きな街、といっても語弊がないくらいの規模だった。


 馬車はその橋の手前で、ゆっくりと速度を落とした。簡素な石造りの詰所が設けられており、軽装の兵士たちが通行人の確認を行っていた。


 御者の指示に従い、ギルドカードを準備してボクとイリスは待つと順番がきた。

 順番が来ると、馬車の扉がノックされ、中から顔を出したボクとイリスに対して兵士が尋ねる。


 「身分証の提示を。あと滞在予定日数と、訪問目的を簡単に」


 イリスは慣れた様子でギルド登録証を差し出し、「観光です」と手短に答える。検問をしていた兵士は馬車の中身と共にボクらを一通り見ると特に問題もなく、検問はすぐに通過となった。


 再び動き出した馬車は、橋の石畳を鳴らしながら進み始める。海風が窓から吹き込み、どこか潮と果物のような、甘い香りが鼻をくすぐった。


 街並みもまるで絵画のように整っていて、石畳を歩く人々の服も色とりどり。人種も文化も混ざり合い、まるで“世界の交差点”という言葉が似合う場所だった。


 「エルダスとは全然違う」

 「ほら、あんまりキョロキョロしていると田舎者だと思われるわよ」

 「そういうイリスこそ」


 初めての他国への緊張からか、お互いに軽口をたたき合う。ボクらはこれまで見てきた街並みと違った風景にワクワクと、ほんの少しの戸惑いを抱えながら街中を進む。


 港には異国の帆船が並び、通りには香辛料の香りと、焼きたてのパンやチーズの香りが混ざり合っていた。屋台では見たことのない果物や、三色の串焼き、蒸し菓子などが並んでおり、歩くだけで胸が高鳴った。


 一通り街中のメイン通りと、少し路地裏に入ったところも歩いてみたがそこまで治安が悪いということはなさそうだ。しばらく街中を見た後はほどほどの宿屋にはいる。


 「晩ごはんは宿の酒場で済ませるわよ。情報収集も兼ねて、ね」


 イリスは当然のようにそう言い、宿屋の一階にある酒場へ足を運ぶ。


 宿の一階に併設された酒場は、夜の訪れとともに賑わいを増していた。

 店内は海沿いの街らしく、どこか潮気と香辛料の香りが混ざり合い、空気そのものが食欲を誘ってくる。

 木の梁には干されたハーブが吊るされ、壁には旅人が記したという古びた航路図が飾られていた。粗削りなテーブルの上には、皿からあふれんばかりの料理が所狭しと並べられている。


 串に刺さった焼きエビがぷりぷりと香ばしく焼かれ、レモンと青い香草が添えられていた。丸ごと蒸された貝の盛り合わせは殻を開くと中から湯気が立ち上り、白ワインとバター、そして数種のスパイスが混ざった濃厚な香りが漂う。奥の厨房からは、炭火の焼ける音と、スパイスの香りをまとった魚の焼き上がる匂いも流れてきた。


 そんな料理をつまみながら、ボク達は街の人々が大声で笑いながらジョッキを傾けて話をしている内容に耳を傾ける。


 「おいおい、聞いたか? セレスティア王国から、属国になれって話がきてるらしいぜ」


 隣のテーブルから聞こえてきたのは、年配の男たちの声だった。粗い手つきで貝の殻を割りながら、彼らはグラスを交わしている。


 「属国って……そりゃまたずいぶんと横柄な話だな」

 「違いねぇよ。あいつらは自分たちが“上”だって顔して言ってくるからな。……まぁ、ノイエルの議会じゃ、今回も“中立国”の立場を理由に断る方向らしいがな」


 「断ったら、戦争って話か……まったく、嫌な時代だよ。港が閉じられたら、俺たち漁師は死活問題だ」


 酒と料理の香りが漂う一方で、彼らの表情にはどこか影が差していた。

 ボクは、手元の貝の皿に目を落としながら、無意識にイリスと目を合わせ、小声で話をする。


 「……ねえ、やっぱり、どこに行っても、“戦”って言葉が聞こえるね」

 「……えぇ、そうね。やっぱり戦争なんて、誰にとっても嫌なものよね」


 イリスはジョッキを手にしながら、視線だけをボクに向ける。その瞳には、深い思慮の色が宿っていた。そう、最初は。


 しかし、一通り周囲の様子を確認して、メニューの中に見慣れないブドウの果実酒を見つけたのがよくなかった。


 「明日は船に乗らないといけないみたいだから、今日は飲みすぎないようにね?」

 「……あんたと二人で、飲みすぎるわけないでしょ」


 そんな話を飲み始める前はしていたはずなのに。


 「これ、ブドウの香りが濃くておいしいわねぇ。 もう一杯」

 「イリス、そろそろやめた方が――」

 「うるさいわね……んで、コウ、あんたセリナさんに誘われたらどうするのよ……」

 「……え? いや、そ、そんなことよりも情報収集……」

 「そんなことってどういうことよ!? それにさ、あんた、私を押し倒したのに、その後ちっとも何もしてこないって、どういうつもりなの……」

 「あの、それは――えぇと……!」


 (あぁ、もうだめだ、これは完全に飲まれてる……)


 ボクがどうしたものかとオロオロしていると、ふと、周りから視線を感じる。

 どうやらイリスのわけのわからない発言に店内の興味を集めてしまったらしい。周囲の視線がじわじわと集まり、耐えきれなくなったボクは「わかった、わかったから」とイリスを担ぎ上げ、そのまま部屋へと運んだ。


 「ちょ、ちょっと、下ろしなさいよぉ……!」

 「無理無理。 もうイリスは部屋に戻って寝るんだよ」

 「やぁだぁ、まだ飲み足りないのぉ」

 「これ以上飲んだら明日動けなくなりますよ」


 イリスはボクの肩の上でバタバタしているがようやくベッドに寝かせると、イリスは朦朧とした意識のまま、薄く目を開けてボクを見た。


 「……コウ。あんたのことも……ちゃんと、私が守るんだから……」


 その言葉に、ボクは胸が少し熱くなるのを感じながら、小さく微笑んだ。


 「ありがと、イリス。……おやすみ」


 翌朝――


 「……うぅ、頭が割れる……」


 二日酔いで額を押さえながら顔をしかめるイリスと共に、ボクは港へと向かった。

 ザイレム帝国行きの小型船が、潮風を受けて静かに揺れていた。


 「さて、次は……ザイレム帝国の空気を、味わいにいこうか」


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