視察決定とお茶会
インクと古紙の香りがほのかに漂う、グレナティスの静謐な執務室。
磨かれた机の上には整然と積まれた文書と、羽根ペンが載ったインク壺。窓からは柔らかな陽の光が斜めに差し込み、重厚な書棚と緑のカーテンが金色に縁取られていた。
その光に照らされるようにして、アグナルは執務机の奥に静かに腰を下ろしている。
長身の背をまっすぐに保ち、手元の書類から顔を上げたその姿には、貴族としての威厳と、父としての穏やかさが同居している。
背後には、いつものようにセバスチャンが控えていた。控えめながらも鋭い目を持ち、主を支える従者としての気配を静かに漂わせている。
そして、机を挟んでその正面には、イリスとボクが並んで立っていた。
イリスは背筋を伸ばし、真剣な眼差しを父へと向けている。隣に立つボクは、その横顔を横目に見ながら、少し緊張した面持ちで、シルバーランクへの報告に対するアグナルからの返答の言葉を静かに待っていた。
「……ほう、飛び級でのシルバー昇格か。 よくやったな」
アグナルの声は穏やかだったが、その瞳はしっかりと娘を見据えていた。報告を受けた彼は、手元の書類を一旦脇に置き、笑みを浮かべて頷いた。
「もう少し時間がかかると思っていたが、私はイリスの実力を見誤っていたようだ。 嬉しい誤算だ」
イリスはどこか照れくさそうに目を伏せたが、それでも胸の奥で何かが誇らしく鳴った。
「それで、ですが……お父様、一つお願いがあります」
イリスは決心したことをアグナルに伝えるための口火を切る。
今まではなかったイリスの言葉に、アグナルは眉をピクリと上げて興味を示したように見えた。
「ほう、言ってみろ」
切り出したイリスは、一瞬だけ視線を落とし、それから意を決したように顔を上げて続ける。
「これまでは、ずっと父上の指示に従って動いてきました。領主の娘として、それが当然だと、そう思っていたからです」
その声音には、僅かな戸惑いと、そして確かな覚悟が混ざっていた。
「……でも、コウと旅をして、いろんな場所を見て、いろんな人と出会って――ようやく気づいたんです。なんとなく“グレナティスのために”って思っていたのは、ただ自分が何も考えていないだけだったって」
「ふん、それで?」
アグナルが静かに相槌を打つ。イリスは頷き、言葉を継いだ。
「ある人に、言われたんです。 『そもそも、あなたはどうしたいの?』って。 それで、改めて私が本当にやりたいことってなんなんだろう、好きなことは何なんだろうって考えて見て、気がついたんです。私は、この街が好きです。お父様と、そしてお母様が守ってきたこの場所が、そしてここにいる街のみんなが。だから……“誰かのために”じゃなく、“私が守りたいから”この街を守りたいって、心から思うようになりました」
その真剣な眼差しに、アグナルの表情がわずかに和らぐ。
「……そのためにも、もっと私は強くならなきゃいけません。気の扱いも、剣も、そして心も――まだ足りないって、痛感してるんです」
少し息を吐いたあと、イリスは隣のコウに視線を向け、それからまっすぐに父を見据えた。
「……そして、蒼玲流を学んだ上で蒼玲流以外の剣を使うコウからは剣術として学ぶことがたくさんあると感じています。だからもう少しだけ、コウと一緒に、鍛錬を積むことをお許しいただけないでしょうか?」
「ふむ」
その言葉に、アグナルは一瞬だけ目を細めた。思いを汲み取った上で、彼はゆっくりと口を開く。
「元々は、シルバーランクに到達したらヴァルティア家として軍議に同席してもらおうかと思っていたが……」
そこまで言うとアグナルは後ろにいるセバスチャンに問いかける。
「この二人に、ザイレム帝国への視察を任せるというのはどうだろうか」
いきなり話を振られたセバスチャンは一瞬同様したように見えたが、すぐさまいつもの執事スマイルに戻り「良い案かと思います」と答える。
「……よし、では、イリス、そしてコウ君。ザイレム帝国への視察を頼まれてはくれないか?」
「……ザイレム、ですか?」
イリスが驚きの声を漏らす。
「うむ。 二人も知っている通り、確かにセレフィア王国は戦争に向けた準備を進めているが、表向きは我が国が彼らに“属国化の提案”をしている。断られることは想定済みだが、私たちがザイレム帝国に行くことに対して、警戒はされるだろうがあからさまに敵対してくることはないだろう」
ボクとイリスは固唾を飲んでアグナルの話に耳を傾ける。
「目的はいくつかある。一つは、万が一戦争となった場合に備えた相手の経済状況や戦力状況の大凡の視察だ。これは国からも調査をしているが、ヴァルティア家としても情報を持っておきたいと思っている。そしてもう一つ。 これは、セレフィア王国としてのヴァルティア家ではなく、一つのヴァルティア家として本当にザイレム帝国が戦争をすべき相手なのかというのを見極めておきたい。どうも、最近この国は安易な武力による解決を選びがちな気がしている。もちろん、国の指示に正面から反抗することはしばらくするつもりがないが、自分たちが戦争をする上で大義名分を持つことができるかということはしっかりと見極めたいと考えている」
アグナルは立ち上がり、書棚から一冊の古い地図を広げて机に置いた。
「人も、国も、片面から見ていては真実を見誤る。自国、他国の双方の事情を見た上で自分たちがどうしたいのかを判断したいんだ」
イリスが小さく頷いた時、アグナルはふとコウへ視線を向けた。
「……娘のわがままに、君を巻き込んでしまってすまないね、コウ君」
「わ、私のわがまま!? お父様、それはちょっと――!」
慌ててイリスが声を上げるが、それを制するように、コウが静かに微笑んで言った。
「いえ。イリスさんが“やりたいこと”を見つけたのと同じように、ボクも、色んな国を見てみたいんです。……世界を知れば、自分がどうしたいのかも、きっと見えてくると思うから」
その言葉に、アグナルの目が一瞬だけ細くなる。
「この目で見てきたものを、君たちの言葉で教えてくれ」
視察という任務の重さを背負いながら、それでもどこか高揚感が胸を打った。そうして、二人の新たな旅が静かに幕を開けた。
***
アグナルへの報告を終えたその後、ボクは思い切ってセバスチャンに声をかけた。
「……あの、以前お話ししていたお茶会、もしよければいかがですか? 少しだけでも、お話しできる時間をいただけたら」
少し驚いたように目を瞬かせたセバスチャンだったが、すぐに柔らかな笑みを浮かべて頷いてくれた。
「ええ、もちろんですとも。 ちょうど、お茶の葉の良いものを仕入れたところです。明日は天気が良さそうです。明朝、中庭でいかがでしょう」
こうして、出発を翌日に控えた早朝――静かな陽の差す時間に、セバスチャンとの小さなお茶会が実現した。
翌朝。
まだ人々の気配が薄い中庭には、朝露をまとった草花がしっとりと濡れていた。陽の光がゆっくりと差し込むたびに、その一粒一粒が宝石のように輝いて、まるで庭全体が目を覚ましていくようだった。
白いテーブルクロスがかけられた小さな丸テーブル。その上には陶器のティーポットと二つのカップ、湯気の立ち上る朝の香りがふわりと広がっていた。
セバスチャンは変わらぬ所作でティーカップに淡い金色の液体を注ぎ、ボクの前にそっと置いてくれる。その動き一つ一つに、年季と優しさが滲んでいた。
「……お待たせいたしました、コウ様。 今朝は“陽摘み”という名の茶葉を。朝露が残るうちに摘まれたものでして、ほのかに草の香りがいたします」
ボクはそっとカップを両手で包み込み、鼻先を近づける。ほんのり甘くて、どこか懐かしいような匂いが胸にしみた。
陽光に包まれた静かなひととき。空気も、時間も、どこか柔らかく感じられて、ボクはゆっくりと、ひと口、口に含んだ。
……温かくて、ほんのり甘い。けれどそれ以上に、自分から話したいことがあって誘ったのに、どこから、何を話していいのかわからなくて、言葉が出なかった。
そんな沈黙を破ったのは、セバスチャンだった。
「剣はあれだけ雄弁なのに、口数は少ないのですね。……それとも、年寄りとの茶話など、退屈でしたかな?」
「そ、そんなことありませんっ!」
慌てて両手を振ったコウに、セバスチャンは目を細めて笑う。
「冗談ですよ。コウ様は、正直な方ですね」
しばらく沈黙が流れ、ボクはぽつり、ぽつりとイリスから聞いた話を、セバスチャンに事実を確認するかのように話し始める。
「色々と、コウ様にはイリス様ご自身から話をされているようですね」
セバスチャンは、少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐに微笑を浮かべて答えた。
「お嬢様は……本当に真面目なお方でした。それでいて、まるで何かに追われるように、自分自身を常に追い込まれていた……そんな印象を持っています。あれだけお綺麗なのに、浮いた話も一度もなかったもので、執事としては少々心配もしておりましたよ」
ボクはセバスチャンが何を言っているのかよくわからず、頭に“はてな”を浮かべているとセバスチャンが続けて口を開く。
「こうして殿方としてコウ様を連れてきた上に、この先も剣術を教わりたいとイリス様から直々にアグナル様に懇願されていたじゃないですか。 ……私がこんなことを言うのもおかしいかもしれませんが、イリス様はこれまで男性を連れて父上に直談判など、一度もありませんでしたよ」
「き、きっとイリスさんはそんなつもりはないと思いますよ、たぶん……」
俯いたコウに、セバスチャンは「ふふ」と笑い、カップを静かに口元へ運んだ。
「そういうことにしておきましょうか」
その言葉に、コウの耳がほんのり赤く染まる。
そして、話題はイリスの母、イレーネへと移った。
「イリスさんはお母様の死について、何かしら理由があったのではないかと思っています。 このあたりのことを、イリスさん自身も知っておいた方がよいんじゃないかなってなんとなくですが話を聞いていると思うんです」
セバスチャンはお茶を口に含むと、ゆっくりとカップをソーサーに置き直す。
「そう……ですね。たしかに、そろそろよいのかもしれません」
セバスチャンは少し遠い目をしながら、空を見上げて続ける
「今回の視察が無事終わった暁には……その飛び級昇格のお祝いも兼ねて、アグナル様から直接、お話をしてもらえるよう私から責任を持って、お伝えしておきます」
「……それ、イリスさんに伝えてもいいですか?」
「もちろんですとも」
(真実を知ることが必ずしもイリスにとって幸せになるかどうかはわからない。でも、彼女は今、全てを知った上で判断することを願っている。 その点からすれば彼女の母親のことを知ることは、どこかできっと彼女自身の役に立つだろう)
ボクはそんなことを思いながら、心に一つ新しくできたイリスへの土産に喜ぶ。
その後は剣術の話、先日の金剛猿の戦いのこと。気がつけば、湯気の立っていたお茶はすっかり冷え、陽は高く上がっていた。
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