二日酔いの朝
陽の光がカーテン越しに差し込む中、私はうっすらと目を開けた。まぶたが重く、頭がガンガンする。何より、身体がとてつもなくだるい。
「……昨日は流石にちょっと飲みすぎたわね……」
寝巻きにも着替えず、ほぼ昨日のままの格好でベッドに倒れ込んでいたらしい。なんなら、宿にどうやって戻ってきたか記憶もあまり覚えていない。でも、帰り道はとても楽しかったのは覚えている。
着崩れた服と乱れた髪のまま、私はゆっくりと身体を起こす。
喉が渇いていた。けれど、水を取りに行く気力もない。
ぼんやりと、昨日の夜を思い返す。
ギルドでの昇格報告、セリナのお店での祝宴。あの場は――確かに楽しかった。
でも、覚えている記憶の中で、胸がざわめくのは、コウが少し席を離れたときに言ったセリナのあの一言だった。
『イリスさんがいいなら、私がコウ君を狙っちゃおっかな。 弟みたいで可愛いでしょ、彼』
冗談めいていた。けれど私は思わず顔を背けて、耳まで真っ赤になっていた。
(私は……何に動揺したんだろう?)
セリナに言われたもう一つの言葉が思い出される。
『あなた自身で、どうしたいか考えてもいい頃かもしれないわね』
その言葉は、なぜか心の奥に刺さって、今も抜けないでいる。
私は、ヴァルティア家の長女。父、アグナルの娘として、恥ずかしくないように育てられてきた。
思い返すと、私の人生の大半は、剣と共にあった。
――幼い頃の、冬の朝。
まだ陽の昇りきらぬ蒼白い空の下、道場の板張りの床に裸足で立つ。凍てつく空気が、呼吸のたびに肺を刺し、木刀を握る指先は感覚が薄れていた。
「いち、に、さん――!」
自分に言い聞かせるように、声を出して振る。打ち込むたびに、床を打つ足の裏に痛みが走る。けれど、止まらなかった。しばらくすると、痛みもなくなると自分に言い聞かせた。
(女でも、やれる。 お母様がいなくたって、大丈夫なんだから)
道場の隅で、湯気の立つ桶が待っている。けれどそれは“終わった者”だけの特権だった。汗と冷気が交じって身体から白い湯気を立ち上がらせながら、私は木刀を振り続けた。まるで、何かに追い立てられるように。
そしてある日のこと。
「……はい、次――イリスと、ギレム!」
中等組の稽古の時間だった。名を呼ばれ、私は木刀を構えて立つ。相手は私よりも三つ上の男の子。体格も腕力も、当然、上だった。
(それでも、負けるわけにはいかない)
合図と同時に、男の子が木刀を振り下ろしてくる。
私は一歩踏み込んで、受け流すようにいなすと、その隙に脇腹へ寸止めで一撃をいれる。
「一本!」
審判の切れの良い判定の声と共に、勝負が決まる。
ギレムが唇を噛み、悔しそうに睨んでくるのを、私は真正面から見返した。
(私は、やれるんだ。 手加減なんて、いらないんだ)
その足で、私は父――アグナルのもとへ向かう。
書斎で資料を読む父に、小さな足音を忍ばせて近づいた。
「お父様、今日の稽古で、3つ上のギレムに勝ちました」
誇らしげに報告する。褒められるのを期待して、胸が高鳴っていた。
けれど――
「そうか。……それで、お前は何を学んだ?」
父の目は書類から離れない。
それでも、静かな声が部屋に響いた。
(また……そうやって、“先”を聞かれる)
褒め言葉ではなく、問いかけ。
それが父のやり方だった。
「……相手が大きくても、力に頼ってくるなら、逆に隙はあるって思いました」
「ふむ。それは、良い観察だ。ならば、それを次にどう活かすか考えておけ」
私の返答に、ようやく父の目が少しだけこちらを向いた。ただ、それだけだった。
(たった一言でもいい。認めてほしかった)
父に褒められることが、何よりの報酬だった。
そうやって、私は自分に「やれる」と言い聞かせながら、走り続けてきた――。
***
そんな父親に代わり周りの大人たちは口ではこう言ってくれていた。
「さすがアグナル様の娘だ」
「蒼玲流の本家なだけある」
でも、どこまでいっても本当にそれが自分自身の力なのか、それとも、気を遣われ勝ちを譲られているのではないか、と思わないわけでもなかった。
なぜならば、陰ではこんな声が聞こえてくるからだ。
「母親のイレーネ様があんなことになって、気の毒にね」
「娘じゃなくて男の子だったらよかったのに」
私は、そういう声を、聞かないふりをして、ずっと自分に言い聞かせてきた。
「女でも、ちゃんとやれる」
「お母様がいなくても、悲しくなんかない」
そうやって、自分を奮い立たせてきた。だから、自分は弱音を吐いてはいけないし、弱さを見せてはいけないと思っていた。
お母様のことは、あまり知らない。私が幼いころに戦で命を落としたと聞かされている。でも、父はその詳細を語らなかった。ただ「信念を持って戦死した」とだけ。
一方で、街で耳にする噂は違った。もちろん、表だって私に直接いってくる人はいない。でも、噂というのは回り回って関係者のところにちゃんと届くようにできているらしい。
「イレーネ様、裏切り者だったらしい」
「実は敵国のスパイだったって噂よ」
そんな噂、信じたくない。だって、私は信じてるから。お母様はそんな人じゃない。あのお父様がそんな人を妻として迎えるわけがない、と。
きっと、言えない理由があったんだ。だからこそ、私も本当のことを知りたい。自分の目で確かめて、自分の信じる道を選びたい。
でも、どうすればいいのか分からない。
コウのこと、自分のこれからのこと、お母様のこと――全部が、ぐるぐると頭の中を駆け回っていた。
思考が絡まり、身体が重いまま、私はベッドにうずくまっていた。
もう少し、眠ってしまおう。今日は誰にも会いたくない。
そんなときだった。
――コン、コン。
宿の扉を叩く音がした。
「……もう、誰よ……こんなときに……」
声を出す気力も、身体を動かす気力もなかった。
すると、扉の向こうから聞き慣れた声がした。
「入るわよー」
躊躇なく扉が開く。そこに立っていたのは、手に水差しと小瓶を持ったセリナだった。
「イリスさん、大丈夫? 昨日、かなり飲んでたみたいだから」
セリナは当たり前のように部屋へ入ってきて、私の枕元に水と薬を置く。
「これ、頭痛と胃に効く薬。飲んで」
私は素直に受け取り、水で薬を流し込んだ。冷たい水が喉を通り、身体の芯まで染みわたる気がした。
少しだけ、楽になった。
「……ありがと」
セリナは窓際に立ってカーテンを開ける。もう朝日とは言えない、強烈な日の光が部屋に、そして私に差し込む。
「ほら、こんな辛気くさいところで寝てると気が病んでくるわよ?」
そんなことを言いながら、セリナは椅子に腰を下ろし、私を見つめていた。
別に、何かを聞かれているわけではなかった。でも、なぜか私はセリナのそんな視線に背を押されるように、私はぽつりと口を開いた。
「……ねぇ、セリナさん。 私って、これから……どうすればいいと思う?」
問いかけではなかった。答えを求めていたわけじゃない。
ただ、誰かに、聞いてほしかったのかもしれない。
「私、これまでお父様の言う通りに動いてきた。 それが正しいことだって信じてた。
でも……それだけじゃ、だめなのかなって。 最近、わからなくなってきたの」
セリナは黙って頷いていた。
私の言葉を遮らず、ただ聞いてくれている。
「お母様のことも……真実が何だったのか、私、ちゃんと知りたいの。 誰かが決めた正しさじゃなくて、自分が信じられる答えを見つけたいのよ……」
言葉とともに、なぜか気がつくと頬が濡れていた。
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