調査
「“邪鬼”って……なんなの?」
焚き火の夜、コウが語ったあの言葉が、頭から離れなかった。
命気が濁って、穢気に変わり、やがて邪鬼へ――
これまで、気を使うのに命気の話は聞いてきた。でも穢気ってなんなの?
あのときのコウの震え、声の揺れ。あれは冗談でも誇張でもなかった。彼の中にある何かが、本気で怯えていた。
(バカじゃないの? そんな大切なこと今まで黙ってて。それとも、私が信用できなかったってわけ? そんな話聞いて、放っておけるはずないじゃない)
私はコウに対する不安を消すために、グレナティスにある本という本を読み漁った。しかしながら、これといってピンとくる情報は得られなかった。
思いあぐねた私は父なら何か知っているかも、と父の執務室を訪ねた。机に積まれた書類の山の中で、父――アグナルは顔だけをこちらに向けた。
「“邪鬼”……? 彼はそう言っていたのか?」
反応からすると、どうやらアグナルも耳にしたことがない言葉らしい。
「じゃあ、命気が濁って穢気になるとかってお話は……?」
「ふむ……それも初めて聞く話だ」
アグナルはペンを置き、顎に手をあて何やら考え込んでいる。
「ただ、気の流れは地脈の流れと共に語られることもある。 その線はこれまで調べたか?」
私は首を横に振る。何を調べたら良いかわからなかったから、地脈については全く調べてなかった。
(地脈に関する情報も含めて、もう一度調べ直してみるしかなさそうね)
そんなことを思っていると、父から思いもよらない提案をされた。
「地脈について調べるなら、どうせなら国立図書館を訪れてみるといい。ヴェルナードにある王国図書館だ。魔導史や命気理論、地脈の研究まで、多くの知が眠っているはずだ」
「行っても、よろしいのですか?」
「それが自分自身の決断の支えになるのであれば、な。……ただし、道中には気をつけろよ」
私はその言葉にうなずき、翌朝、コウに「急遽、父親の仕事の使いを頼まれた」と伝え、ヴェルナードへ向かった。
(自分自身が世界の状況を正しく理解するためにも、そしてコウ、あんたのためにも、ちゃんとこの世界のことを知ってくるわ)
慣れたはずの乗り合い馬車での移動は、どこか隣がぽっかりと空いている気がした。
***
王都に着くと、王城のすぐそばに構える国立図書館へと向かう。事前に父親から預かっていた入館のための書類を見せると、すぐに中に入ることができた。そして、荘厳な石造りの建物に足を踏み入れた瞬間、まるで空気の重さが変わったように感じた。
見渡す限りの本、本、本。私の屋敷と同じくらいか、それ以上の建物の壁面を本棚が埋め尽くしている。
(これ、調べるのにどれだけ時間がかかるのかしら)
古びた羊皮紙と少し湿った匂い。無数の巻物、分厚い書物。入室を許可されると、私は“本の虫”になった。
(穢気、邪鬼、地脈の乱れ……)
そんな単語をキーワードにしながら、私は関係しそうな書籍を片っ端から読み漁る。そんな中、書棚の一角に気に関する書籍を集めた場所があった。
「命気の基礎、魂量の拡張、五行の性質……」
タイトルを見て、気になる書籍をパラパラとめくってみるが、肝心な穢気や邪気という表現はどこにも見当たらなかった。結局その日は一日掛けても何ら手がかりが無い状態だった。
(欲しい情報には近づいてる気がするのに、なんでこんなに空振りばかりなの?)
そして翌日、喉に何かが挟まったようなもどかしさを感じながら昨日の区画とは別の区画へと移動する。
(今度は、お父様が言っていた地脈に関する情報をあたってみようかしら)
父親がああは言っていたものの、ただ、地脈と気は昨日見ていた区画の周辺には地脈に関する情報が全く無かったため、どのあたりを調べたら地脈に関する情報に行き当たるのか検討がつかなかった。そのため、私は本棚にぶら下げられた「武術」、「魔導学」、「政治学」、「算術」、「歴史学」、「建築学」といった札を眺めながら地脈の情報がありそうな区間を探していると、「地理学」という区画を見つけた。
そこには、この国の様々な地域に関する特色、特産物、大小様々な川や地形的な特徴に関する書籍がずらりと並んでいた。特に地脈に関する情報が載っていそうな書籍はなさそうだ、とタイトルを見ながら思っていたが、ふと「ユグ山の神秘」と書かれたかなり古びた書籍が目に留まる。
「たしかユグ山って、コウがリゼさんと修行したって言ってたところよね」
埃を被った本を軽くはたいて中を開いて読んでみる。するとそこにはユグ山の全体像から始まり登山道、登山する上で危険なポイント、出現する魔物など様々な情報が書かれていた。パラパラとめくり、めぼしい情報はなさそうだと思い本を閉じかけたときに「おわりに」と題された最後のページに書かれた一文が目に入った。
――ユグ山は、かねてより地脈の集まる霊峰として、地脈の淀む西側地域からエルダスを守る重要な役割を担ってきた。今となっては有志で作られた吸穢の祠により周囲の魔物の邪鬼化は抑制されているが、噂によるとその効果はいつまで保つかわからない。ユグ山が、再び霊峰として活躍せざるをえない状況がこないことを願うばかりであるーー
(ちょ、ちょっと、これって……)
今までどれだけ探しても出てこなかった“穢”の文字と“邪鬼”という言葉に思わずイリスは歓喜の声をあげそうになるが、シンと静まり帰った図書館の中だということを思い出し、声を押し殺す。
書籍には、ユグ山がちょうど吸穢の祠からエルダスを守るように書かれてる挿絵が書かれており、この絵を頭の中に叩き込んだ。
(ユグ山の西側、ね…… ここにいけば、もう一歩真相に近づけそうね)
この“祠”には、もしかしたら彼の過去と向き合う何かが眠っているのかもしれない。
私は本を閉じ、静かに立ち上がった。
***
イリスが「父親から急用を頼まれたから、しばらく蒼玲流の鍛錬に集中しておいて欲しい」と伝えられたその日の夜、ボクは先日の黒炎熊とのことを思い出しながら、魂量の修行を行っていた。
魂量の修行とは、自分の奥に潜ること。
それは、深く静かな水の中に沈んでいく感覚だった。
目を閉じて座していると、浮かぶのはいつもの光景。
草原でも、街道でもない。そこは――自分自身の心の中だった。
そして、また出会う。
幼いボクが、少し離れたところで、ぽつんと座っていた。
「……今日の調子はどうだい?」
ボクは幼いボクに、ある意味答えが分かりきった問いを挨拶代わりに投げてみる。
幼いボクは、寂しそうに少し笑うものの、目はそのまま遠くを見ていた。
「黒炎熊……怖かったよね」
そう問いかけると、幼いボクはゆっくりと頷いた。
ボクは問いを重ねる。
「何が……怖かったの?」
間を置いて、ぽつり、ぽつりと声が返ってくる。
「ボクが、知らない何かになっちゃうこと……」
「ボクが、誰かを傷つけちゃうこと……」
「ボクが、いなくなっちゃうこと……」
「ボクが、ボクじゃなくなっちゃうこと……」
一言一言が、胸の奥に突き刺さる。
(……そうだ、ボクは、ずっと……)
ボクは震えながら、幼い自分の隣に座った。
押し込めていた恐怖。向き合わずに、蓋をしていた気持ち。
それらが少しずつ、言葉になってあふれてくる。
「リゼを、傷つけたくなかった」
「今は……イリスを、傷つけたくないんだ」
山の主を倒した直後は、ただ一人でいる不安がボクの心の表面を埋め尽くしていた。でも、本当はそれだけではなかったんだ。ボクは周りの誰かを傷つけ、そしてまた誰かに忌み嫌われるのを恐れている。その感情はむしろ、リゼと一緒にいたときよりも、エルダスにきて、色んな人と接することでより大きくなっているかもしれない。
そう気づいたとき、張りつめていた何かが少しだけほどけていくのを感じた。
(恐怖を消すんじゃない、受け入れるんだ……)
でも、そのあとにまたひとつ、思ってしまった。
(じゃあ――イリスを守るには……やっぱり、そもそもボクと一緒にいない方が……イリスは一人でいた方がいいんじゃないか?)
心の中で、何かがぐらりと揺れた。
***
その後もしばらく、ボクはセバスチャンから一人で蒼玲流を学んでいた。しかし、どこかぱっとしない剣だった。2日に1回のセバスチャンとの実戦練習が終わり、セバスチャンに一礼をするとセバスチャンから声を掛けられる。
「気の迷いは剣の迷い。きっと、悩むこともあるでしょう。でも、その悩みはあなた様の糧となります。ご自身を、信じてください」
「はい……ありがとうございます」
ボクは頭を下げるしかなかった。
(いつか糧になる、か……そして、自分を信じる……か)
しばらく、ボクは考えた。イリスといてもよいのか、一人でいるべきではないか。そんなことを考えながら、数日が経ったある日のこと。
道場の裏庭で、目を開けると、そこにはイリスが立っていた。
書物を抱えて、どこか誇らしげに。
「コウ、ちょっといい?」
「……うん」
イリスは、熱を帯びた声で語り始めた。
「ユグ山の西側に、どうやら穢気を押さえる祠があったの」
「穢気を抑える……祠?」
「そう。そこに行けば、あなた自身の“なにか”が見つかるかもしれない。……一緒に、行こう?」
そう言って、イリスが手を差し出したとき――
(ボクは……)
一瞬、迷った。
この手を取っていいのか。
また怖い夢を見たら? またボクが暴走したら?
あの悪夢のように、彼女を――
「……ちょっと、考えさせてほしい」
「……え?」
戸惑いの色が、イリスの表情に滲んだ。
だけど、ボクはもう目をそらしていた。
「ごめん。 今日は……疲れたから」
言い訳のようにそう口にして、道場の中へ戻る。
背中に、イリスの視線を感じながら。
(怖いんだ。 君を、傷つけてしまうのが。そして……大切だと思う人から離れていってしまうのが)
祠へ向かう決意はまだ――ボクの中で揺れていた。
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