トラウマ
ボク達の前には、グレナティスで受けたギルドクエストの討伐対象である黒炎熊が立ちはだかっていた。今思うと、クエストを受ける時に感じた「嫌な予感」を信じれば良かったかもしれないと少しだけボクは後悔していた。
見下ろすように立ちはだかる巨影。ごつごつとした巨体に、樹皮のような皮膚。黒炎熊は本来であればシルバーランクの魔物らしいが、イリスの「物足りない」という言葉にギルドは奮発してくれたのだ。
ここまでの道のりはなんてことはなかった。ここの魔物自体は対して強くない。でも、この「黒炎熊」はなんとなく嫌だったんだ。
嫌な予感は名前を聞いたときから。しかし、実際に目の前にすると予想通りの見た目をしていた。それは、かつてユグ山で見た《山の主》に酷似していた。山の主は黒かったが、こいつは、深紅をしていたし、一回りも二回りもでかかった。
(――でかい、だけじゃない……)
身体の芯が冷えるような違和感。皮膚の奥が、ざわざわと泡立つような感覚。
(こいつを倒したら、また穢気をまき散らすのか……? また、邪鬼化するのか?)
脳裏に当時の状況が、「お前はこっち側だ」という言葉が、まるで昨日のことのように鮮明に思い出される。
「コウ、来るわよ!」
イリスの声で我に返る。だが、足がすくむ。吐き気がする。そして、剣を構えようとすると、ほんの一瞬腕が震えた。
(思い出すな……あいつとは違う――)
ユグ山で、“あれ”が邪鬼に変わったとき。黒い瘴気をまとい、命気が濁り、理性を失いかけた《山の主》が、邪鬼となり自分自身をそっち側に引きずり込もうとしたとき。
(気を――使えない)
同じ相手ではないし、今の相手が邪鬼化するかどうかわからない。だが、体の奥が本能的に拒絶している。下手に使えば、自分がまた“そっち側”に堕ちそうで。
「ったく……何ビビってんのよ、あんた!」
イリスが先行する。銀の髪が風を裂き、剣が魔物の前脚に切り込む。跳ね返された衝撃に後ずさりしながらも、彼女は踏みとどまった。
「援護、お願いできるかしら!」
「……ああっ!」
(何をビビってるんだ。 イリスだっているじゃないか)
震える手に力を込めて、ボクは剣を握り直す。動け。逃げるな。
気は使えなくても、剣はある。足も、ある。――イリスがいる。
(こっちは、一人じゃないんだ)
魔物が咆哮し、巨体を揺らす。その瞬間、イリスの誘導に合わせてボクが背後に回る。
剣を振り抜いた。膝裏の関節に斬撃が走る。魔物が崩れた。
「今!」
「うおおおおっ!」
二人の剣が、交差するように黒炎熊の首元へ突き立てられた。
ごぶっ、と血が噴き出し、巨体が地響きを立てて崩れ落ち、そして討伐の証拠である魔石を落とす。
しばらくの静寂――それを破ったのは、自分の呼吸だった。
肩が上下し、膝ががくがくと震えていた。対して動いていないのに、背中に嫌な汗が流れている。
「……助かった」
「ほんとよ、あんたがへたれてたら私ひとりでやる羽目になるとこだったじゃない」
口調は軽い。でも、その横顔は真剣だった。
イリスはずっと、ボクの様子を見ていた。
***
焚き火の光が、ゆらゆらと揺れていた。
草の匂い、焼けた木の香り、夜風の音――それらが、妙に遠く感じる。
「今日は、……ごめん」
ボクがそう言うと、イリスは少し黙ってから頷いた。
「らしくないじゃない。 普段は全然気負わないのに」
「そう、だね……」
パチパチと、焚き火がはぜる音と深い闇が二人を包む。
もしかしたら、このまま黙っていてもいいのかもしれない。でも、なんだかそれは少し違う気がした。
「実は……あの魔物、ユグ山で戦った《山の主》と似てたんだ」
ボクはぽつりとつぶやくと、イリスは心配そうにこちらを見つめる。
「山の主と戦ったとき、最初はよかったんだ。あともう一歩、もう少しってところまでは。最後の最後にあいつは変わったんだ」
「変わった……?」
「うん。 イリスはさ、邪鬼って聞いたこと、ある?」
ボクの問いに、少し考えたがどうやら頭の中にその単語は聞いたことなかった様子で、イリスは首を横に振る。
「その邪鬼っていうのに変わったの……?」
「そう。 長年生きてこれまでの溜まりにたまった怒りや憎しみの感情で命気が濁って、穢気になって……」
ボクは自分の手の震えを押さえるために両手をぎゅっと組み合う。
「そして、最後はその穢気は邪気となり、全身を飲み込むと邪鬼になるんだ」
言葉を紡ぎながら、自分の喉が乾いていくのを感じた。
「そしてあのとき、ボクは山の主は倒そうと腕を切り落として止めを刺そうとした瞬間、山の主から真っ黒な気が膨れ上がって……そして山の主は邪鬼になったんだ」
あのときの風景は今でもたまに夢に出てくる。今でも思い出すと震えてくる。
「それでね、ボクもその邪鬼化に巻き込まれそうになって。『お前はこっち側だ』っていわれて。すごく怖かった。自分までおかしくなるんじゃないかって」
「……それで、さっきは様子がおかしかったのね」
イリスはそう言って、これまで視線を落としていた焚き火からボクに視線を移して優しく、でも力強く言った。
「誰がなんと言おうと、あんたはあんたよ。 気弱で頼りなさそうに見えて、でも本当は頼りになって、優しくて……」
ボクはイリスを見つめると、少し照れくさそうにイリスはそっぽを向いて続ける。
「だから……こっち側とか、そんなの関係ないわ! それに、仮にあんたがそっち側にいったんだったら、今度は私がこっち側に連れ戻すわ! 勝手は許さないんだからっ!」
そう言ってイリスは立ち上がり、背を向ける。その姿を見ながら、胸の奥がちょっとだけ、軽くなった気がした。
「……ありがと」
ボクは小さくつぶやいたけど、それが届いたかは分からない。
***
気がつくと、ボクは真っ暗な森の中にいた。
そしてイリスと倒したはずの黒炎熊が再び目の前にいる。
(あれ、また戦うの……?)
状況がよくわからないボクは固まってしまっていた。そしてボクをかばおうとイリスが黒炎熊に立ち向かい、黒炎熊の片腕を切り落とした。
「とどめよ!」
イリスが黒炎熊の首を落とそうとしたところ、黒い気が黒炎熊を覆い尽くす。
(あのときと同じだ)
切り落とされた腕のあった部分には、黒い何かがうごめく。そしてそれは、金縛りにあったかのように身動きがとれないボクに向かって伸びてきて、そしてボクに触れると心に直接話しかけてきた。
「お前はこっち側だ」
それと同時に、これまで自分が虐げられてきた思い出だけが頭の中で思い出される。フェン村でのこと、両親のこと、良いように使われたグレーファングのこと。そして最後に幼い自分がやってきて、一言告げた。
「もうこんな世界、ぶっこわしちゃいなよ。そうすれば、もう何も怖くない。悲しまなくていいよ、お兄ちゃん?」
その瞬間、ボクは自分でも信じられない、獣のような声にならない声を上げ、天を仰ぐ。すると、自分の体を真っ黒い気が覆っていた。
(あぁ、気持ち良い。 今なら、なんだってできそうだ)
目の前にいる全てを破壊し、浸食したくなる。でも、そんな気持ちよさを邪魔する存在がいた。
「コウ、戻ってきてっ!」
目の前に、銀色の髮をなびかせた蒼目のイリスがボクの両腕を掴んで必死に訴えている。
(あぁ、めんどくさいな…… せっかく気持ちよくなってるところなのに)
そんなことを思うと、ボクを纏う黒い気が刃となって無防備のイリスを貫く。
「っうぐ……」
イリスは苦しそうなうめき声を上げながら、それでもボクの腕を放さない。
「コウ…… コウ……」
イリスはボクの目の前で何度も、かすれた声でボクの名前を呼び続ける。
「なんだよ、もう……ほっといてくれよ」
そう言うとボクはイリスの全身を飲み込むように黒い気で覆う。黒い気の覆う面積が多くなるに従い、イリスは苦痛の声をあげるがそれでもイリスはその手を離さなかった。
「私が、こっち側に戻すって……約束したんだからっ……」
イリスは聞こえるか聞こえないかわからない声で声を絞り出す。
(なんだってそこまでして……)
ボクは困惑しながら、繰り返し呼ばれる自分の名前を耳にしながら、意識が混濁してくる。どんどん、ボクの腕を握るイリスの力が強くなってきている。
「コウ! コウ、起きて! お願い、目を開けて!」
少しずつクリアになってくる思考の中、耳元で誰かの声が響いた。
ボクは――目を覚ました。
視界に飛び込んできたのは、イリスの顔。
ボクの腕を、必死に掴んでいた。痛いくらいに、しっかりと。
「イリス……?」
「あぁ、よかった…… やっと目を覚ましたわね」
ボクは体を起こして周りを見渡すと、いつものテントの中だった。
(そうか、夢か)
「急に暴れだして、うなされてたのよ……。大丈夫?」
「……うん。たぶん、もう大丈夫」
息が乱れていた。でも、現実の感触は、夢のなかよりずっとあたたかかった。
「……ごめん。 ありがと」
「まったく、迷惑かけさせないでよね」
そう言って、彼女はその手を離して立ち上がる。
しかし、彼女が握ってくれていたボクの腕は、いつまでもとても暖かかった。
胸の奥に、何かがじんわりと広がった。
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