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虚空のフーガ  作者: Gにゃん
第一部 あるいは共振殺人事件
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終章:Coda(コーダ)


取調室の空気は、よどんでいた。だがそれは、一般的な犯罪者が放つ、後悔や自己憐憫、あるいは開き直りといった、粘着質な感情によるものではなかった。そこにあったのは、絶対的な静寂。まるで、全ての演奏を終え、残響すらも消え失せたコンサートホールのような、空虚で、しかし、どこか神聖さすら漂う静寂だった。

高遠誠は、ただ、静かに座っていた。

彼の前には、常盤仁が座っている。だが、高遠の目は、常盤の背後、まるでそこに存在しないはずの何かを捉えるかのように、虚空の一点に固定されていた。

「……理解、できないだろうな。君たちには」

初めて、高遠が口を開いた。その声は、もはや何の感情も乗せていなかった。

「あれは、殺人などという、野蛮なものではない。あれは、証明だ。宇宙の法則が、人間の欲望という、醜く、非論理的なバグに、常に優越するという、絶対的な証明だった」

彼は、特別に入室を許可された音羽響の方に、僅かに視線を向けた。

「黒川という男は、世界の全てを、金という一次元のモノサシでしか測れない、哀れな存在だった。彼は、私の研究、私の美学を、その汚れたモノサシで測り、値をつけようとした。冒涜だ。それは、円周率に値段をつけるのと同じくらい、愚かで、醜悪な行為だった」

「だから、私は彼に、彼が一生かかっても理解できない言語で、世界の真実を教えようと思った。物理法則という、この宇宙で、最も純粋で、最も雄弁な言語でな。彼を殺したのではない。彼の存在という『誤った仮説』を、反証しただけだ。見事に、エレガントに、誰の手も汚すことなく」

彼の独白は、もはや、罪の告白ではなかった。それは、自らの論文の正しさを、査読者ピア・レビュアーである音羽に、誇らしげに解説する研究者のそれだった。常盤は、その独白を聞きながら、人間の知性が、ここまで純粋に、そして、ここまで冷酷に、悪意を昇華させることができるという事実に、ただ戦慄するしかなかった。

「……見事な演奏だった」

音羽は、静かに言った。

「だが、どんなに美しい楽曲も、聴衆がいなければ、ただの空気の振動だ。君は、最高の聴衆として、黒川自身を選んだ。彼に『調律』の音を聴かせながら、破滅の足音を、彼自身の耳で、理解させることもなく、味あわせ続けた。その一点において、君の芸術は、完璧なサディズムに行き着いた」

高遠は、初めて、ふ、と笑った。それは、唯一の理解者を得た者の、満足の笑みだった。

数週間が過ぎた。

街は、何事もなかったかのように、その日常の営みを続けていた。

常盤は、都心から少し離れた、隠れ家のようなジャズバーのカウンターに座っていた。低い天井、壁を埋め尽くすレコードジャケット、そして、ステージでサックス奏者が奏でる、むせび泣くような即興のフレーズ。その全てが、現実と非現実のあわいを漂っているかのようだった。

「……ここに来ると、落ち着く」

隣で、琥珀色のウイスキーを揺らしながら、音羽が言った。

「俺には、不協和音にしか聞こえませんがね」

常盤は、ぶっきらぼうに返した。だが、その言葉に、以前のような棘はなかった。事件の後、彼は、世界から聞こえる「音」が、以前とは、全く違って聞こえるようになっていた。車の走行音、人々のざわめき、風の音。その全てが、周波数と振幅を持つ、物理現象の集合体として、彼の意識に流れ込んでくる。もう、以前の自分には戻れないことを、彼は知っていた。

「不協วะ音、か。面白いことを言う」音羽は、グラスの縁を指でなぞった。「ジャズとは、決められたコード進行という『法則』の上で、奏者が、いかに自由に、即興インプロヴィゼーションという名の『解』を見つけ出すかのゲームだ。我々がやったことも、それと似ている」

「高遠誠という男は、物理法則という、絶対のコード進行の上で、殺人という、最も歪んだ、しかし、彼にとっては、最も美しい即興演奏をやってのけた。彼の知性は、本物だった。だが、彼は、その力を、調和ではなく、ただ一つの不協和音を消し去るためだけに使った」

音羽は、ウイスキーを一口含み、続けた。

「物理法則は、善でも悪でもない。ただ、そこにあるだけだ。炎が、暖を取るために使われることもあれば、全てを焼き尽くすために使われることもあるようにね。我々人間は、皆、この宇宙という、あまりに巨大な楽器の前に座らされた、未熟な演奏者なんだ。どんな音を奏でるかは、我々自身の、選択に委ねられている」

常盤は、何も言わずに、自分のグラスを傾けた。氷が、カラン、と澄んだ音を立てる。その単純な音ですら、今の彼には、分子の熱運動が、ガラスという個体と衝突して生じる、一つの物理現象として感じられた。

「さて、刑事さん」

音羽は、楽しそうに目を細めた。

「この店のベーシスト、なかなかの腕だ。彼が弾く、あのウッドベースの最低音。おそらく、41ヘルツあたりか。人間の耳が、音程として認識できる、ほぼ限界の低音だ。だが、そのさらに下には、我々には聞こえない、広大な音の海が広がっている」

彼は、グラスに残ったウイスキーを、ゆっくりと回した。グラスの中に、小さな渦が生まれる。ナビエ–ストークス方程式が支配する、美しい流体のダンスだ。

「この宇宙は、まだ、我々が聞いたこともない『音楽』で、満ち溢れている。刑事さん、耳を澄ませてごらん」

「次の演奏会が、もう、始まろうとしている」

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