第六章:見えざる波動の証拠
11.734ヘルツ。
その数字は、一夜にして、常盤仁の存在そのものを揺るがす呪いとなった。彼は、警視庁捜査一課という、日本で最も現実的で、最も常識に縛られた組織の中枢で、たった一人、幽霊の周波数を追いかける羽目になったのだ。
捜査会議は、紛糾を極めた。
「超低周波音による金属疲労だと? 常盤、お前は徹夜続きで頭がおかしくなったんじゃないのか!」
上司である捜査一課長は、叩きつけられた報告書を睨み、あからさまな侮蔑を隠そうともしなかった。
「音で、あの巨大なシャンデリアを落とす? SF映画の観すぎだ。我々は警察官だぞ。物理学者の妄想に付き合っている暇はない!」
他の刑事たちからの視線も、同情と、それ以上の冷笑に満ちていた。常盤は、四面楚歌という言葉を、これほど骨身に染みて感じたことはなかった。彼の二十年のキャリアと、築き上げてきた信頼が、この非現実的な数字一つで、ガラガラと崩れ落ちていく。
それでも、彼は引かなかった。
「ですが、現実に、他に説明がつきません。現場の状況、そして音羽氏の分析は、一点の曇りもなく、その可能性を指し示しています」
彼の脳裏には、ホワイトボードを鬼気迫る表情で埋め尽くす音羽の姿と、埃が描いた美しいクラドニ図形が焼き付いていた。狂っているのは、果たしてどちらなのか。物理法則を無視する世界か、それとも、その法則を信じようとする自分か。
「……一週間だ」
一課長は、深いため息と共に、最後通牒を突きつけた。
「一週間やる。それで、その『怪物のような音響装置』とやらの尻尾すら掴めなかったら、お前をこの事件から外す。いいな」
それは、事実上の更迭予告だった。
常盤は、音羽の理論を証明するため、特命チームを編成し、前代未聞の「機械狩り」を開始した。国内の音響機器メーカー、大学の研究室、防衛関連の研究所、果ては地質調査やコンクリートの非破壊検査を行う企業まで。考えうる、あらゆる「怪物を製造しうる」組織のリストを作成し、ローラー作戦をかけた。
だが、結果は惨憺たるものだった。
「11ヘルツ帯で、これほどの高出力を連続発生させる装置? 民生品ではありえませんね」
「軍事研究レベルでも、目的が違いすぎる。我々が開発するのは探知や通信のためで、何かを物理的に破壊するためではない」
「そんなものを作るとしたら、特注中の特注。発電所一個分くらいの電力が必要になるんじゃないか?」
専門家たちの答えは、どれも否定的だった。時間は、砂時計の砂のように、無情に、確実に、流れ落ちていく。常盤の心は、焦燥感で焼き切れそうだった。
その間、音羽響は、再び彼の「聖域」に引きこもっていた。だが、彼が挑んでいたのは、もはや周波数の特定ではなかった。
常盤が、 очередредної日の徒労に終わった捜査報告を手に、疲れ切った足取りで「思考実験室」のドアを開けると、音羽は、三面のホワイトボードにびっしりと描きこまれた、新たな数式と格闘していた。
今回は、タワーマンションを中心とした、湾岸エリアの立体地図が描かれている。
「刑事さん、我々は、一つ、大きな思い違いをしていたようだ」
音羽は、振り返りもせず言った。
「犯人は、あのビルの中から、音を鳴らしたのではない」
「……何ですって?」
「その方が、効率が良すぎる。あまりに無駄がない。だが、どんな完璧な計画にも、僅かな『揺らぎ』が生じる。黒川玲奈が聞いたという『調律の音』。あれは、犯人が本番前に、外部から発信した試験電波ならぬ、試験音波だったのだ。そして、その僅かな音波がビルに与えた影響は、ゼロではない。目には見えないが、確かな痕跡として、建物の構造体に記録されているはずだ」
音羽は、事件現場から持ち帰っていた、砕けたシャンデリアのガラス片の中で、最も大きく、歪みの少ないものを指差した。
「このガラスの内部に残された、微細な応力の歪み。床のクラドニ図形の、僅かな非対称性。これらは、単なる共振の『結果』ではない。音波が、どの方向からやってきたかを示す『ベクトル情報』を含んだ、貴重なデータだ」
彼は、逆問題の手法を用いて、観測された結果から、その原因となった波の発生源を逆算しているのだと説明した。それは、遠い銀河から届く光のスペクトルを分析して、その星の成分や年齢を割り出す宇宙物理学の手法にも似ていた。犯行現場という名のセンサーアレイに残された、微弱な信号を解析し、その発信源を特定する。
約束の一週間の、最終日。
捜査が行き詰まり、常盤が、自らの警察官人生の終わりを覚悟しかけた、その時だった。
「見つけたぞ、刑事さん!!」
音羽が、髪を振り乱し、狂喜の表情で会議室から飛び出してきた。
「犯人の、巣だ!」
彼が、地図上の一点を、震える指で突き刺した。そこは、黒川のタワーマンションから、海を挟んで約1.5キロ離れた、再開発地区の古い倉庫街だった。
「波は、一直線には届かない。空気中では、すぐに減衰してしまうからな。犯人は、この倉庫から、海面に向けて超低周波を放った。そして、海面で一度反射させることで、エネルギーの損失を最小限に抑え、対岸のタワーマンションの中層階に、まるで潜水艦のソナーのように、ピンポイントで音波を叩き込んだんだ! 黒川が聞いたという幻聴も、ビル全体から響く、この回り込んできた音だったんだ!」
常盤は、言葉を失った。その発想は、もはや人間の知恵を超えていた。だが、音羽の瞳には、微塵の疑いも、迷いもなかった。それは、方程式が導き出した、絶対の確信だった。
その夜、湾岸の倉庫街に、警視庁の武装した捜査員たちが、息を殺して集結していた。音羽が示したのは、赤錆の浮いた、巨大なトタン張りの倉庫だった。周囲に、人の気配はない。
常盤は、突入部隊の先頭に立った。これが、最後の賭けだった。ここで空振りすれば、全てが終わる。
「突入!」
号令と共に、捜査員たちが、重い鉄の扉を破った。
中は、がらんどうだった。広大な空間に、埃っぽい匂いが立ち込めている。だが、その中央の床に、異様な痕跡が残されていた。
そこだけ、コンクリートの色が、不自然に新しい。そして、床には、何か巨大で、極めて重い装置を固定していたであろう、無数のアンカーボルトの穴と、それを引き抜いた生々しい跡が残されていた。床の一部は、高熱に晒されたかのように、黒く変色している。
「……間違いない」鑑識の班長が、ライトで床を照らしながら呟いた。「短期間に、異常なほどの大電流が、ここへ引き込まれた形跡があります。そして、この独特のオゾンの匂い……巨大なコンデンサか、コイルを駆動させた時に発生するものです」
犯人は、既に「怪物」を運び去った後だった。だが、その怪物が、確かにここに存在したという証拠は、何よりも雄弁に、その存在を物語っていた。
常盤は、床のボルト穴を、まるで聖痕でも見るかのように見つめていた。その時、隅の方で何かを調べていた音羽が、声を上げた。
「刑事さん、お土産だ」
彼が、ピンセットでつまみ上げていたのは、床の隅の埃に紛れていた、指先ほどの小さな金属片だった。それは、何かを削り出した際に出た、金属の切り屑のように見えた。
「おそらく、犯人が、装置の最終調整を、ここで行ったのだろう。その時にこぼれ落ちた、涙のようなものだ」
常盤は、その小さな金属片を、証拠品袋に入れながら、音羽を見た。
この男は、机上の計算だけで、現実の、この場所に、自分たちを導いた。見えざる波動の航跡を読み解き、その巣穴を突き止めたのだ。
常盤は、静まり返った巨大な倉庫の中で、はっきりと理解した。
自分はもう、引き返すことはできない。自分は、この常識を超えた物理学者の、最初の、そして唯一の理解者として、この事件の最後まで、共に堕ちていくしかないのだ、と。
そして、その道の先にいる「指揮者」の姿が、今、初めて、確かな輪郭を持って、闇の中に浮かび上がった気がした。