第五章:周波数の絞り込み(フィルタリング)
黒川玲奈の、恐怖に彩られた証言。「犯人が調律の音を聴かせていた」という音羽の仮説。それらは、捜査本部に、一滴のインクを純水に垂らしたかのような、混沌とした波紋を広げた。ほとんどの刑事は、それを被害者の妻の精神的錯乱と、風変わりな物理学者の妄想だと片付けた。だが、常盤仁の心には、そのおぞましい可能性が、否定しようのない棘となって深く突き刺さっていた。
翌日、音羽響は、警視庁の一室を、彼の「聖域」に変えた。
「刑事さん、私には武器が必要だ。それも、君たちが使うような無骨なシロモノじゃない。もっと精密で、もっと根源的な武器が」
彼の要求は、常盤を半日、都内の各所へ走り回らせるのに十分だった。黒川のタワーマンションの、基礎工事から内装に至るまでの全ての設計図。シャンデリアのフックに使われた特殊合金の、詳細な物性データが記された製造元からの報告書。事件当夜、半径五キロメートル圏内の、一分毎の気温、湿度、気圧、風向、風速を記録した気象庁の生データ。
それら膨大な資料が運び込まれた会議室のドアに、音羽は「思考実験室。許可なく入る者は、シュレーディンガーの猫と箱に同封する」という、ふざけているのか本気なのか分からない貼り紙をした。そして、三面の巨大なホワイトボードを前に、彼はたった一人、宇宙の設計図に挑むかのような、壮絶な計算を開始した。
常盤は、その一部始終を、固唾を飲んで見守るしかなかった。
それは、常盤が知る、いかなる捜査とも似ていなかった。音羽は、犯人の心理やアリバイには、もはや一切の関心を示さない。彼の目は、ただ、物言わぬ数字と数式の向こう側にある、この事件を支配した「法則」だけを見据えていた。
第一段階:共鳴体の魂を剥ぐ
音羽はまず、ホワイトボードの一面に、あの巨大なシャンデリアの、極めて精密な立体図を描き始めた。フリーハンドで描いているとは思えないほど、その線は正確で、迷いがなかった。
「全ての物体は、固有の振動数を持つ。それは、その物体の『魂』の音色だ。我々はまず、このシャンデリアという名の怪物の、魂の周波数を突き止めねばならない」
彼は、シャンデリアの総重量、各パーツの質量分布、そしてフックに使われた合金のヤング率(剛性)やポアソン比(弾性)といった物性データを、複雑な多体問題の微分方程式に次々と代入していく。
「単なる振り子ではない。これは、無数の振り子が複雑に連成した、カオス系だ。だが、どんなカオスにも、それを支配するアトラクタが存在する。我々が探すのは、このシャンデラスが最も『共鳴したがる』、ただ一つの基本周波数だ」
数式が、まるで生き物のようにホワイトボードを埋め尽くしていく。常盤には、それが何を意味するのか、皆目見当もつかない。だが、そこに、狂気と紙一重の、凄まじい知性が燃え盛っていることだけは理解できた。
第二段階:伝播媒体の地図を描く
次に、音羽は二面目のホワイトボードに、タワーマンションの断面図を描き始めた。鉄骨の配置、コンクリートの密度、ガラスの厚さ、フロア間の空間。
「犯人が奏でた『主題』は、虚空を飛んできたわけではない。このビルという巨大な楽器の胴体を伝って、シャンデリアという弦を鳴らしたのだ。ならば、このビルが、どのような音を伝えやすく、どのような音を殺してしまうのか、その特性を知る必要がある」
彼は、建材の音響インピーダンス(音の伝わりやすさ)を計算し、ビル内部における音波の反射、屈折、減衰のモデルを構築していく。
「面白いことに、このビルは、特定の周波数帯に対して、極めて透過性が高い『音響の窓』を持っている。まるで、犯人のためにあつらえられたかのような構造だ。犯人は、この建物の音響的なDNAを、完全に把握していた」
第三段階:濾過
数時間が経過した。会議室は、音羽の放つ熱気と、ホワイトボードマーカーの匂いで満ちていた。常盤の疲労も、とうに限界を超えていた。だが、音羽は、まるで宇宙の真理に触れる喜びに満たされているかのように、その思考の速度を緩めない。
最後のホワイトボード。彼は、第一段階で導き出した「シャンデリアが共鳴する周波数の候補群」と、第二段階で導き出した「ビルを効率的に透過する周波数の候補群」を、二つのリストとして書き出した。
「さあ、刑事さん。ここからが、このパズルの最も美しい部分だ」
音羽は、二つのリストを指し示した。
「我々が探しているのは、両方のリストに存在する、ただ一つの数字だ。シャンデリアが喜んで歌い、かつ、ビルが親切に道を拓いてくれる、運命の周波数。それ以外の、数千、数万の可能性というノイズを、我々は今から濾過していく」
彼は、二つのリストを比較し、条件に合わない数字を、一本、また一本と、力強く線で消していく。その作業は、まるで、彫刻家が、大理石の塊から、不要な部分を削り落とし、内なる理想の形を浮かび上がらせていく作業に似ていた。
そして、陽が傾き、部屋が夕陽の赤い光に染まった頃。
数えきれないほどの可能性が消し去られたホワイトボードの上に、ただ一つだけ、取り残された数字があった。
音羽は、深呼吸を一つすると、その数字を、ボードの中央に、大きく、はっきりと書き記した。
11.734 Hz
「……これが、答えだ」
音羽の声は、長大な計算を終えた疲労と、真理に到達した者だけが持つ、静かな興奮に震えていた。
「11.734ヘルツ。人間の可聴域(20ヘルツ)を僅かに下回る、超低周波音。それは、音として認識されることはない。だが、その長い波長は、コンクリートを容易に透過し、内臓を揺さぶり、精神に直接、言いようのない不安感を与える」
彼は、呆然と立ち尽くす常盤に向き直った。その瞳は、もはや物理学者のものではなく、悪魔の正体を見破った、祓魔師のそれだった。
「それは、幽霊の周波数だ。人々が、心霊現象だと錯覚する振動の、まさに中心。犯人は、この周波数で、あのシャンデリアに、何時間も、何時間も、囁きかけ続けたのだ。鋼鉄を疲労させ、結晶構造そのものを破壊する、悪魔の催眠歌をな」
常盤は、息をすることも忘れて、その数字を睨みつけた。11.734。それは、もはや単なる数字ではなかった。見えざる犯人の、明確で、具体的な、指紋そのものだった。
「刑事さん」音羽は、コートを羽織りながら言った。「ここからは、君の出番だ。我々の捜査は、次のフェーズに移行する」
「我々はもう、動機やアリバイを持つ『人間』を探すのではない」
「我々が探すのは、ただ一つ。『11.734ヘルツの純粋なサイン波を、鉄骨のビルを揺るがすほどの振幅で、安定して長時間発生させることが可能な、怪物のような音響装置』だ。そして、そんな悪魔の楽器を製造、あるいは操作できる人間は、この国に、いや、世界に、そう何人もいるはずがない」
常盤の全身に、電流のようなものが走った。混沌としていた捜査の霧が、一気に晴れていく。道が見えた。犯人へと続く、ただ一本の、明確な道が。
それは、常識という名のぬるま湯から、未知なる物理法則の極寒の海へと、身を投げる覚悟を決めた瞬間だった。