第四章:不協和音の容疑者たち
音羽響という男が捜査に加わってから、常盤仁の世界は完全に調子が狂ってしまった。彼が二十年近くかけて築き上げてきた「捜査」という名の整然とした建築物は、この異邦の物理学者の前では、まるでエッシャーの騙し絵のように、始まりと終わりが曖昧になり、階段は意味もなく天へと伸び、床と天井が入れ替わってしまったかのようだった。
「いいかね、刑事さん。我々が今から行うのは『尋問』ではない。『観測』だ」
捜査本部のホワイトボードに殴り書きされた容疑者リストを前に、音羽はまるで演奏会のプログラムを選ぶように言った。
「対象(被疑者)という量子系に、我々という観測者が接触することで、その状態は必ず変化する。重要なのは、彼らが『何を言ったか』ではない。我々の接触によって、彼らの持つエネルギー準位が、どのように『遷移したか』だ。その揺らぎのパターンこそが、彼らの本質を示す指紋となる」
常盤は、こめかみを指で強く押さえた。もはや、この男の言葉を翻訳しようと試みるのは諦めた。だが、不思議なことに、その言葉の断片が、霧の中の道標のように、進むべき方向を微かに示しているような気もしていた。捜査会議で他の刑事たちが「動機」や「アリバイ」といったありきたりな言葉を繰り返す中、常盤の頭の中では、「エネルギー準位」や「遷移」といった、およそ刑事らしからぬ単語が不協和音を奏でていた。
最初の「観測」対象は、音楽家の新島怜だった。
彼がアトリエと呼ぶ、防音設備が施された地下室は、音の実験室だった。壁には様々な吸音材がパッチワークのように貼られ、天井からは無指向性のマイクが幾本もぶら下がっている。部屋の隅には、真空管が鈍い光を放つ年代物のミキサーと、最新のシンセサイザーが混在し、床には、踏みつけるのも躊躇われるほど夥しい数の楽譜が散乱していた。部屋の空気は、埃と古い紙の匂い、そして微かな煙草の香りが澱んでいた。
「……何の用ですか、今更。僕のアリバイは完璧なはずですが」
新島は、神経質そうに指で髪をかきあげながら言った。その瞳には、警察に対する侮蔑と、拭い去れない疲労が滲んでいた。犯行時刻、彼はこの部屋から、数千人の視聴者に向けてライブ配信を行っていた。映像にも、ログにも、不正の痕跡はない。鉄壁のアリバイだ。
常盤が型通りの質問を始めようとした、その時だった。
「素晴らしい部屋だ」
音羽が、まるで美術館を訪れたかのように、感嘆の声を上げた。
「この不規則な壁の凹凸、計算された吸音率。デッドでありながら、特定の周波数帯には僅かなライブ感を残している。ここは、音を殺すための部屋じゃない。音を“解剖”するための部屋だ」
新島の目が、初めて、警察官ではない闖入者を捉えた。その表情に、警戒と、ほんの少しの好奇が混じる。
「……貴方は?」
「しがない物理学者だよ」音羽は、壁に貼られた複雑な音響スペクトルのグラフを指でなぞりながら続けた。「新島さん、貴方は、黒川剛三という男を、どんな『音』だと感じていた?」
常盤は、あまりに突飛な質問に、思わず口を挟みそうになった。だが、新島の反応は、常盤の予想を裏切るものだった。
「音……?」彼は自嘲するように笑った。「あの男は、音ですらない。ただのノイズだ。それも、純粋なホワイトノイズじゃない。アンプのボリュームを上げすぎた時に出る、汚く歪んだ、不快なだけのハムノイズだ。世界の調和を乱す、存在してはならない不協和音……。それを消し去りたいと願うのが、音楽家として当然の欲求だと思いませんか?」
その言葉には、黒川への憎悪が、もはや芸術的な域にまで昇華されたかのような、純粋な響きがあった。
「なるほど」音羽は満足げに頷いた。「では、共振という現象については、どう思うかね? 一つの音が、別の物体を、触れずして鳴動させる。美しいとは思わないか?」
「美しい…?」新島は、虚を突かれたように呟いた。「それは、調律の問題だ。世界に存在するすべてのものは、固有の音程を持っている。完璧に調律された世界では、共鳴は奇跡のハーモニーを生む。だが、一つでも狂った音があれば……共鳴は、ただの破壊の力になる」
彼の脳裏には、黒川にパトロンの話を反故にされ、準備していたコンサートと、それにかけた全ての情熱が崩壊していく光景が浮かんでいるようだった。
「アリバイは証明できても、動機は十分すぎるな」
アトリエを出た後、常盤は苦々しく言った。
「いや、それ以上の収穫があった」車に乗り込みながら、音羽は生き生きとした表情で言った。「彼は、共振を『破壊の力』だと断言した。だが、私は違う見方をしている。あれは、破壊などではない。もっとエレガントな、宇宙の摂理そのものだ。彼の魂は、我々が追う犯人のそれとは、調律が少し違うようだ」
常盤には、全く意味が分からなかった。
二人目の男、高遠誠との面会は、新島の混沌としたアトリエとは、まさに対極の世界で行われた。ガラスとスチールで構成された、巨大な企業の研究所。塵一つない白い廊下を歩くと、サーバーの冷却ファンが立てる、統制された音だけが響いている。空気は、消毒用アルコールのように無機質で、清潔だった。
高遠は、白い実験着を身にまとい、ガラス張りの役員室で二人を迎えた。彼の後ろには、東京のビル群が、まるで精密な基盤のように広がっている。
「それで、本日はどのようなご用件でしょうか、刑事さん。私の時間は、秒単位で会社の資産なのですが」
その口調は丁寧だが、一秒たりとも無駄なことには付き合わないという、技術者特有の冷徹な合理性が滲んでいた。彼のアリバイもまた、鉄壁だった。犯行時刻、彼は役員たちと、この部屋で深夜に及ぶ開発会議を行っていた。複数の役員の証言は、完全に一致していた。
「高遠さん」今度は、常盤が制するより早く、音羽が口火を切った。「貴社が開発中の超音波非破壊検査技術、実に興味深い。特に、指向性の高い音響ビームを、減衰を抑えながら、いかにして深部へ到達させるか。その技術的ブレークスルーはどこにあるのか、ご教示願いたい」
それは、警察官の質問ではありえなかった。同業者、あるいはライバル企業の技術者による、高度な専門知識に基づいた問いかけだった。高遠の眉が、わずかに動いた。彼の目に、初めて人間的な興味の色が浮かぶ。
「……物理学の方ですか。面白いところに目をつけられる」
そこから先は、常盤にとっては、異星人の会話に等しかった。圧電素子、インピーダンス整合、フェーズドアレイ制御、フォノン、散乱断面積……二人の間で交わされる単語は、常盤の理解を遥かに超えていたが、その会話が、白熱した知的な応酬であることだけは分かった。高遠は、黒川を相手にしていた時とは別人のように、自身の知識と技術を、誇らしげに、そして楽しそうに語っていた。
「黒川氏の会社が、貴社の特許を盗用したという噂は?」
常盤が、ようやく会話に割り込む。
高遠は、すっと表情を消した。再び、冷徹な技術者の仮面を被る。
「噂は噂です。法廷で争う準備はしておりました。もっとも、その必要はなくなりましたが」
「彼を、恨んではいなかったと?」
「恨み、ですか」高遠は、指先で眼鏡の位置を直した。「それは、非論理的な感情です。彼のやり方は、効率が悪く、ノイズが多い。私の興味は、常に、よりエレガントなソリューションを見出すことにあります。彼の存在は、そのプロセスにおける、除去すべきバグの一つに過ぎませんでした。もっとも、そのバグは、勝手にクラッシュしてくれましたが」
その言葉には、新島のような激情はなかった。だが、その代わりに、生命反応すら感じさせない、絶対零度の憎悪が、常盤の肌を刺した。
「二人とも、動機は十分すぎる。だが、アリバイが鉄壁だ」
夕暮れのセダンの中で、常盤は唸った。
「アリバイなど、ただの時間軸上の座標に過ぎんよ」音羽は、まるで子供のように、窓の外を流れる街の灯りを眺めていた。「重要なのは、彼らが『可能』だったかどうかだ。新島怜は、音を芸術として捉え、共振を情念の爆発だと解釈した。高遠誠は、音波を精密なメスとして捉え、共振を効率的な破壊だと理解した。一方は情熱の作曲家、もう一方は冷徹なエンジニア。どちらも、あのフーガを演奏する資格は十分に持っている」
最後の容疑者は、被害者の妻、黒川玲奈だった。
彼女が仮住まいしている最高級ホテルのスイートルームは、彼女自身の心象風景を映したかのように、がらんとして、生活感がなかった。部屋には、誰かが見舞いに持ってきたであろう、カサブランカのむせ返るような甘い香りが充満し、それがかえって、死の匂いを際立たせていた。
若く美しい未亡人は、ソファに深く身を沈め、その瞳は虚空を彷徨っていた。彼女のアリバイもまた、完璧だった。事件の夜、彼女は親友と、何時間もビデオ通話をしていた記録が残っている。
「何か……何か、お気づきのことはありませんでしたか。ご主人の身の回りで、変わったことなど」
常盤の問いかけに、玲奈は、壊れかけた人形のように、かぶりを振るだけだった。その怯えは、夫を殺した犯人に対するものだけではない。もっと深く、根源的な恐怖が、彼女の魂を蝕んでいるようだった。
音羽は、ただ黙って、彼女を観察していた。そして、常盤の質問が一通り終わった後、静かに、そして優しく語りかけた。
「玲奈さん。貴方は、怖いんですね」
玲奈の肩が、びくりと震えた。
「夫が殺されて、怖くない人間がいるでしょうか」
「ええ。ですが、貴方の恐怖は、少し違う種類のもののように見える。未来への不安や、犯人への憎悪ではない。まるで、世界の法則が、目の前で捻じ曲げられてしまったのを、ただ一人だけ目撃してしまったかのような……そんな、存在論的な恐怖だ」
その言葉が、彼女の心の琴線に触れた。玲那の瞳から、それまで堰き止められていた涙が、大粒の雫となって溢れ落ちた。
「……あの人は、神にでもなったつもりでいました」彼女は、途切れ途切れに語り始めた。「全てを支配し、全てを計算できると信じていた。でも、死ぬ数日前、あの人が……少しだけ、おかしかったんです」
「おかしい?」
「ええ。書斎に籠って、ヘッドフォンをして、何かをじっと聴いているんです。音楽じゃない。ただ、低く、ブーンと唸るような……。そして、壁に向かって、『聞こえる……聞こえるぞ。お前の歌が』なんて、気味の悪いことを……。あの人は、自分の城が、自分に語り掛けてくると思っていたみたいなんです……」
車に戻った時、車内は重い沈黙に支配されていた。玲奈の証言は、謎を解くどころか、事件をさらに超常的な領域へと引きずり込んだように思えた。
「狂人の戯言だ」常盤は、自分に言い聞かせるように言った。「黒川は、ストレスで幻聴でも聞いていたんだ」
「いや」
音羽は、ゆっくりと首を横に振った。その瞳は、これまで見せたことのない、鋭い光を宿していた。
「あれは、幻聴などではない。黒川は、確かに『聴いて』いたんだ」
「何をです?」
音羽は、常盤の方をまっすぐに見据えた。
「犯人が、本番前に流した、調律の音をだよ」
常盤は、絶句した。犯人は、事前に、テストを行っていた? 黒川自身に、破滅の序曲を聴かせながら? その悪意の深さに、常盤は、もはや恐怖を通り越して、神々しさすら感じていた。
「刑事さん」音羽は、夜の闇に溶けていく街並みを見ながら、静かに言った。「我々は、三人のソリストの演奏を聴いた。一人は情熱のヴァイオリン。一人は理性のチェロ。そして、もう一人は、恐怖に震えるソプラノだ」
「だが、彼らは、誰もが自分のパートを演奏しているに過ぎない」
「我々が探すべきは、その全ての不協和音を計算し、予測し、そして、死という名の完璧なハーモニーを完成させた、このオーケストラの『指揮者』だよ」