第三章:虚空のフーガ
常盤の運転する、何の変哲もないセダンが首都高速を滑っていく。その車内は、奇妙な二元論の世界と化していた。片や、ハンドルを握り、刻々と変化する交通状況に意識を配り、次の分岐点を計算する現実世界の住人、常盤仁。片や、窓の外を流れる景色に一切の興味を示さず、後部座席で目を閉じ、ただ思考の宇宙に深く沈潜する異世界の住人、音羽響。
「……刑事さん」
不意に、音羽が口を開いた。その声は、夢の淵から語りかけるように穏やかだった。
「君は、カオス理論における『バタフライ効果』を信じるかね?」
「……ブラジルで蝶が羽ばたけば、テキサスで竜巻が起こる、とかいう話でしたか。残念ながら、俺が追うのは蝶じゃない。人間の形をした、もっとタチの悪い獣だ」
常盤は、バックミラー越しに音羽を一瞥して吐き捨てる。また、この男の禅問答が始まった。
「同じことだよ」音羽は静かに続けた。「君たちが『動機』と呼ぶ、ほんの僅かな感情の羽ばたきが、巡り巡って、巨大なエネルギーを持つ『殺人』という竜巻を引き起こす。だが、重要なのはそこじゃない。蝶の羽ばたきと竜巻の間には、必ず、大気の流れや気圧の変動といった、物理法則に支配された無数のプロセスが存在するということだ。我々が今から見に行くのは、そのプロセスの、最も雄弁な残骸だよ」
常盤はもう応えなかった。この男と話していると、自分が拠って立つ地面が、まるで砂上の楼閣のように思えてくる。彼の世界では、人間の悪意すら、計算可能な変数の一つに過ぎないかのようだった。
タワーマンションの地下駐車場に車を滑り込ませ、専用エレベーターで一気に最上階へ向かう。密閉された箱が上昇する、あの独特の浮遊感の中、音羽はポケットから一本の音叉を取り出し、軽く親指で弾いた。キィン、という澄んだ音が、狭い空間に響き渡る。
「442ヘルツ。現代の標準ピッチだ。だが、バロック時代はもっと低かった。場所や時代によって、世界の“基準”は移ろう。真実というのも、案外そんなものかもしれないね」
常盤は、その言葉の意味を咀嚼する前に、目的の階に到着したことを告げる無機質なチャイム音に思考を遮られた。
事件から一週間が過ぎたペントハウスは、黄色い規制線が張り巡らされ、静まり返っていた。だが、その静寂は、死が作り出したものではなく、いまだ解けぬ謎が放つ、重苦しい圧力に満ちていた。常盤の後ろから部屋に足を踏み入れた音羽は、その場でぴたりと動きを止めた。
彼は、床に広がるシャンデリアの残骸や、壁に残る血痕には、一瞥もくれなかった。ただ、目を閉じ、深く、深く、息を吸い込んだ。まるで、ソムリエが年代物のワインの香りを確かめるかのように。数人の若手刑事が、訝しげな視線をこの奇妙な闖入者に投げかける。
「……聞こえるな」
やがて、音羽は薄目を開けて呟いた。
「何がです?」
「この部屋の、産声だ。いや、断末魔か。全ての空間は、固有の響きを持っている。壁の材質、天井の高さ、家具の配置。それらが、この空間の『音程』を決めるんだ。そしてこの部屋は……極めて純粋で、濁りのない音を奏でる。犯人は、それを知っていた。この部屋が、最高のコンサートホールになることを」
音羽は、靴を脱ぐと、するすると部屋の中央へと歩みを進めた。彼は、鑑識がつけたマーカーや番号札を、まるで路傍の石ころのように意に介さない。彼の関心は、警察が作り上げた捜査の文脈には、一切なかった。
「刑事さん、こっちへ」
彼が手招きしたのは、窓際の、一見すると何もない空間だった。
「ここを見てみろ。埃が、ほとんどない」
「……それは、家政婦が掃除を?」
「違う。もっと面白いことが起きている」
音羽はジャケットの内ポケットから小さなレーザーポインターを取り出し、床を照らした。光が、絨毯の毛の間に溜まった微細な塵を浮かび上がらせる。
「見えるかね。この、美しい幾何学模様が」
常盤が目を凝らすと、確かに、そこには奇妙な規則性があった。埃が、まるで波紋のように、濃い部分と薄い部分が交互に、縞模様を形成しているのだ。
「クラドニ図形、という。特定の周波数で板を振動させると、振動しない『節』の部分に砂や粉が集まって、このような模様を描き出す。つまり、この部屋の床は、事件の夜、ある特定の周波数で、長時間、振動し続けていたことを示している」
若手刑事たちが、呆気にとられて音羽の言葉を聞いている。常盤の背中に、冷たい汗が筋を引いた。オカルトではない。この男は、現場に残された、誰も気づかなかった物理的な「証拠」を、一つ一つ読み解いているのだ。
次に音羽は、粉々になったシャンデリアのガラス片の前に屈みこんだ。
「普通、物が落下して砕ければ、破片の分布は、落下点を中心に、距離の二乗に反比例して密度が低くなる放物線を描く。だが、ここの破片は違う。いくつかの特定の距離に、不自然な『密集地帯』が存在する。これは、ガラスが衝撃で砕ける前に、すでに内部に凄まじいストレス――振動を蓄積していた証拠だ」
彼は立ち上がり、部屋全体を見渡した。そして、静かに、しかしホール全体に響き渡るような明瞭な声で、言った。
「これは、美しいフーガだ」
その唐突な言葉に、その場にいた誰もが思考を停止させた。
「フーガを知っているかね、刑事さん。音楽の形式だ。一つの主題が提示されると、別の声部が、それを模倣しながら追いかけていく。主題と応答が、幾重にも、幾重にも重なり合い、複雑で、壮麗な音の建築物を構築していくんだ」
音羽は、天井の、無残なフックの残骸を指差した。
「犯人が提示した『主題』は、極めてシンプルな、単一の周波数の振動だ。おそらくは、人間の耳には聞こえない超低周波音。それを、離れた場所から、この部屋に向けて放った」
彼はゆっくりと歩きながら、まるで指揮者のように両手を広げた。
「その『主題』に応えたのが、このシャンデリアだ。全ての物体には、揺れやすい固有の振動数がある。ブランコに乗った子供を、タイミングよく、ほんの僅かな力で押し続けると、揺れはどんどん大きくなるだろう? あれと同じ原理だ。犯人が放った周波数は、このシャンデリアの固有振動数と、完璧に一致していた。これが『応答』だ」
部屋の空気が、緊張で張り詰める。音羽の言葉は、もはや単なる推論ではなく、厳然たる事実を告げる予言者のそれだった。
「犯人は、その振動を、執拗に、正確に、送り続けた。主題と応答が、何度も、何度も繰り返される。共鳴という名の、完璧なカノンだ。シャンデリアの内部では、金属原子の結合が、その繰り返される揺さぶりに、少しずつ、少しずつ、悲鳴を上げていく。そして、蓄積されたエネルギーが限界を超えた瞬間――」
音羽は、ぱん、と一度だけ手を叩いた。乾いた音が、静寂を鋭く切り裂く。
「――破断する。これが、この壮大なフーガの、終曲だ。何もない虚空から送られてきた力が、対象を追いかけ、捕らえ、そして破壊する。侵入の必要も、凶器に触れる必要もない。必要なのは、物理法則への深い理解と、それを実行する冷徹な意志。犯人は、物理法則そのものを、最もエレガントな暗殺の凶器に変えたんだよ」
常盤は、言葉を失って、ただ目の前の男を見つめていた。頭が、ぐらぐらと揺れる。彼の信じてきた捜査の常識、物証の定義、現実の世界の輪郭そのものが、音羽の言葉によって、根底から覆されていく。それは、恐怖に近い感覚だった。だが同時に、暗闇だった事件に、初めて一筋の、あまりに眩暈がするほど奇妙な光が差し込んだ、という興奮にも似た感覚もあった。
彼の世界は、かつて鋼鉄のように固く、揺るぎないものだった。
だが今、その足元が、まるで音叉のように、微かに、しかし確かに、震え始めていた。