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虚空のフーガ  作者: Gにゃん
第一部 あるいは共振殺人事件
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第二章:異邦の調律師


一週間が過ぎた。

その七日間という時間は、警視庁捜査一課の刑事・常盤仁にとって、ただカレンダーの日付を塗り潰すだけの無為な作業に成り果てていた。時間は物理的に経過しているはずなのに、彼の精神は、あの光に満ちた静謐なペントハウスに、まるで重力井戸に捕らえられたかのように囚われたままだった。

捜査本部は機能不全に陥っていた。黒川剛三の周辺から洗い出された容疑者リストは、それ自体が一冊の電話帳になりそうなほど分厚い。だが、その誰もが黒川の死を望んでいたとしても、誰もあの密室に侵入することはできなかった。物的証拠はゼロ。指紋一つ、髪の毛一本、犯人がそこに存在したことを示す陽性の反応が、何一つ出ないのだ。

常盤のデスクには、報告書の山が、まるで地層のように積み重なっていた。被害者の交友関係、金の流れ、押収した通信機器の解析データ。そのどれもが、犯人を指し示すどころか、霧をさらに深くするだけだった。彼は三徹目の濁った頭で、ぬるくなった缶コーヒーを呷る。その苦い液体が、まるで自身の無力さを凝縮したかのように喉を焼いた。

「地道な聞き込みと物証。それだけが真実への道だ」

新人時代、鬼軍曹と恐れられた初動捜査班の班長に、耳にタコができるほど叩き込まれた信条だった。汗をかき、靴をすり減らし、人の嘘と本音の狭間に落ちている小さなカケラを拾い集める。そうやって、常盤はいくつもの事件を解決してきた。だが、今回の事件は、その彼の警察人生そのものを嘲笑っているかのようだった。汗をかくべき場所が存在しない。すり減らすべき靴の行き先が見えない。拾い集めるべきカケラは、最初からどこにも落ちていなかった。

夜、彼は一人、行きつけの薄暗いバーのカウンターに座っていた。疲れ切った精神が、これ以上ないほどアルコールを欲していた。

「よお、常盤。死んだ魚みたいな目をしてるじゃないか」

隣から、軽薄だがどこか憎めない声がした。大学時代の同級生で、今は『月刊ワンダー・サイエンス』なる、オカルトと科学の境界線を面白おかしく飛び回る雑誌の編集者をしている、梶原だった。

「お前には関係ない」

「まあそう言うなよ。湾岸のタワマンで起きた、シャンデリア落下事件だろ? 警視庁の密室事件なんて、俺たちにとっては最高のネタなんだぜ」

梶原は、ハイボールのグラスを揺らしながらニヤニヤしている。常盤は舌打ちし、バーボンをストレートで煽った。

「……帰ってくれ。お前の与太話に付き合う気力もない」

「与太話か。そうかもな。だが、常識で解けないパズルは、常識の外にいる人間に解かせるしかない、って思わないか?」

梶原は、ふと悪戯っぽい笑みを消し、真顔になった。

「常盤、お前、『音羽響』って名前、聞いたことあるか?」

その名前に、常盤は聞き覚えがなかった。

「物理学者だ。専門は理論物理、特に音響学と波動力学。だが、大学にはほとんど顔を出さない。学会にも姿を見せない。もっぱら、世界中の古い教会や遺跡、コンサートホールなんかを放浪してる、正真正銘の変人だ」

「物理学者? それがこの事件と何の関係がある」

「関係あるさ。大ありだ。あいつはな、俺たちの世界の“調律師”なんだよ」

梶原は、数年前に自身の雑誌で取材したという、その男の話を始めた。それは、ヨーロッパの古い石造りの教会で起きた、奇妙な現象の話だった。特定のミサの時間になると、教会のどこからともなく不気味なうなり声が響き渡り、信者たちが恐れをなして寄り付かなくなった。悪魔の仕業だと騒がれたその現象を、偶然そこに居合わせた音羽響が、いとも容易く解決したというのだ。

「原因は、老朽化したパイプオルガンの、ある一本のパイプだった。普段は鳴らないそのパイプが、信者たちが座る椅子の重みで床が僅かに傾き、それによって生じる空気の対流が、そのパイプの固有振動数と共振して音を鳴らしていたんだと。あいつは、建物の構造と、その日の湿度、人間の平均体重から、その周波数を計算だけで割り出して、パイプに詰め物をして、あっという間に悪魔祓いをしちまったんだ」

常盤は、黙って聞いていた。馬鹿げた話だ。だが、彼の脳裏に、あの捻じ曲がった金属フックと、「微細な振動を与え続けたかのような」という鑑識の言葉が、不気味に反響していた。

「そいつはどこにいる」

「さあな。世界中が仕事場みたいな男だ。だが……」梶原はスマホを取り出し、何かを打ち込んだ。「……運がいいぜ、常盤。二週間前から、日本にいるらしい。国際音響学会の招待でな。まあ、学会はサボってるみたいだが」

梶原が示した住所は、都心から少し離れた、古い洋館や大使館が点在する閑静な住宅街の一角だった。常盤は、その住所が書かれたメモを、まるで劇薬でも受け取るかのように、疑いと、そしてほんの僅かな期待と共に受け取った。

翌日、常盤はその古い洋館の前に立っていた。蔦の絡まるレンガ造りの壁、アーチ状の窓。ここが個人の住居なのか、何かの施設なのかも判然としない。表札はなく、ただ古びた真鍮のプレートに、幾何学的な模様が刻まれているだけだった。

意を決して重い扉を押すと、鍵はかかっていなかった。軋む蝶番の音と共に、彼の鼻腔を、古い木の匂い、松脂まつやにの甘い香り、そして微かなオゾンの匂いが混じった、不思議な空気が満たした。

中は、想像を絶する空間だった。それは研究室であり、楽器の工房であり、古書の図書館でもあった。壁一面の書棚には、物理学の専門書と、古今東西の楽譜が、何の脈絡もなく詰め込まれている。床には、分解されたアンプやオシロスコープの基盤が、リュートやヴィオラ・ダ・ガンバといった、博物館でしか見られないような古楽器と無造作に同居していた。

そして、その混沌の中心に、その男はいた。

白衣を着ているわけではない。くたびれたツイードのジャケットを羽織り、無精髭を生やしたその男――音羽響は、部屋の中央に置かれた一台のチェロの前に跪き、弦にマイクのようなものを近づけ、ヘッドフォンで何かを聴きながら、手元のタブレットに表示された波形を睨んでいた。その集中力は凄まじく、常盤という異物が部屋に侵入したことに、全く気づく様子がない。

常盤は、わざとらしく咳払いをした。

音羽は、ゆっくりと顔を上げた。歳は三十代後半だろうか。その瞳は、子供のような好奇心と、全てを見透かすような老人の怜悧さが、奇妙なバランスで同居していた。

「……何の用かね。見ての通り、今、彼女の魂の“声”を聴いている最中なんだが」

彼の言う「彼女」が、目の前のチェロを指していることを理解するのに、常盤は数秒を要した。

「警視庁捜査一課の常盤です」

身分証を示しながら、常盤は単刀直入に切り出した。

「湾岸のタワーマンションで起きた、黒川剛三の事件について、専門家としてのご意見を伺いたい」

彼は、事件の概要――完全密室、落下したシャンデリア、そして不可解な金属フックの破断――を、感情を排して、客観的な事実だけを並べて説明した。

音羽は、興味があるのかないのか、相槌も打たずに黙って聞いていた。そして、常盤が話し終えると、退屈そうにこう言った。

「殺人、かね。人間の感情が絡む犯罪は、どうもエレガントじゃない。変数が多すぎる。動機だのアリバイだの……ノイズばかりで、美しい信号シグナルが見えにくい」

その傲慢とも取れる物言いに、常盤の眉がピクリと動いた。

「我々が追っているのは、物理現象じゃない。人の命を奪った犯人です」

「同じことだよ、刑事さん」

音羽は立ち上がり、常盤の目の前まで歩いてきた。その目は、常盤の顔ではなく、彼の背後にある空間を見ているようだった。

「宇宙のあらゆる現象は、原因と結果という、美しい法則ルールで結ばれている。殺人という現象もまた、その例外ではない。君たちが『動機』と呼ぶものは、物理学で言うところの『初期条件』だ。そして『犯行』とは、ある条件下でエネルギーが解放される『相転移』のようなもの。私が興味があるのは、そのプロセスが、既知の物理法則に則っているかどうか、ただそれだけだ」

彼は再び、常盤から視線を外し、部屋の隅に置かれた黒板に向かった。そこには、常盤には暗号としか思えない数式が、無数に書き殴られている。

「そのフックの材質は? チタン合金か、あるいはタングステン鋼か。部屋の正確な三辺の長さと、天井の高さは? 事件当夜の湿度と気温のデータは? シャンデリアの総重量と、その重心の位置は?」

矢継ぎ早に繰り出される質問は、どれも常盤がこれまで考えたこともないものばかりだった。それは、犯人の心理ではなく、事件が起きた「場」そのものを解剖しようとする、外科医のメスのような鋭さを持っていた。

常盤は、その質問の意図を測りかねながらも、記憶と資料を頼りに、一つ一つ答えていった。そして、全ての問いに答え終えたとき、それまで退屈そうな光を浮かべていた音羽の瞳が、初めて、明確な輝きを放った。

「……なるほど。それは、面白い」

彼は、まるで極上の協和音を聴いたかのように、うっとりと目を細めた。

「刑事さん。君が持ってきたのは、単なる殺人事件の資料じゃない。それは、完璧な静寂の中で奏でられた、極めて難解で、そして恐ろしく美しい、無音の楽譜スコアだ」

音羽は、壁に掛けてあった古びたコートを手に取った。

「案内してもらおうか。そのコンサートホールに。フーガの主題テーマが、まだそこに鳴り響いているはずだ」

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