【そして、その先へ — Afterglow】
冬の、訪れを、感じさせる、冷たい、木枯らしが、吹く、金曜の、夜。
神田の、ガード下。赤提灯が、頼りない、光を、放つ、路地裏の、一角。その、カウンターだけの、小さな、ラーメン屋の、暖簾を、常盤仁は、くぐった。
「……なんで、俺が、あんたと、こんな、オヤジ臭い、店で、ラーメンを、食わなきゃならんのだ」
常盤は、カウンターの、端の席に、どかりと、腰を下ろし、目の前で、湯気を、立てる、昔ながらの、醤油ラーメンを、睨みつけながら、ぼやいた。
「たまには、いいじゃないか、刑事さん」
その、隣で、音羽響は、同じ、ラーメンを前に、まるで、未知の、地球外生命体を、分析するかのように、その、丼の中を、熱心に、観察していた。
「この、一杯の、丼の中に、宇宙の、全ての、法則が、凝縮されている。実に、興味深い」
「……また、始まった」
常盤は、深いため息をつき、割り箸を、ぱきり、と、割った。もう、彼の、奇行には、いちいち、驚かない。ただ、静かな、諦観が、あるだけだ。
「見ろ、刑事さん」音羽は、レンゲで、スープの、表面を、そっと、撫でた。「この、スープの、表面に、浮かぶ、無数の、油の、粒。これらが、互いに、反発し、集まり、そして、複雑な、模様を、描いている。これは、『マランゴニ効果』と呼ばれる、表面張力の、勾配によって、引き起こされる、流体の、移動現象だ。君たちが、追う、犯罪組織の、派閥争いも、突き詰めれば、これと、同じ、界面エネルギーの、問題に、帰結する」
「そして、この、麺。小麦粉という、高分子化合物が、熱水によって、その、構造を、変化させる、デンプンの、糊化。我々が、生きる、ということは、常に、このような、不可逆な、化学変化を、受け入れ続ける、ということだ。老化もまた、その、一種だよ」
「極め付けは、この、湯気だ。水という、液体が、熱エネルギーを得て、気体へと、相転移し、そして、外気で、冷やされ、再び、目に見える、液体の、微粒子へと、凝縮する。エントロピーは、常に、増大し、熱は、必ず、高い方から、低い方へと、流れる。この、小さな、丼の中で、宇宙の、大原則が、リアルタイムで、証明され続けているのだ。素晴らしいとは、思わんかね?」
常盤は、もう、何も、答えなかった。ただ、無言で、麺を、啜る。その、一連の、流れるような、動作も、この男にかかれば、流体力学と、人体の、運動力学に関する、小一時間の、講釈に、なるのだろう。
「……音羽さん」
常盤は、麺を、飲み込むと、静かに、言った。
「麺が、のびるぞ」
「おっと、それこそ、水の、拡散現象による、不可逆な、エントロピーの、増大だ。急いで、この、秩序状態を、私の、胃の中へと、移動させねば」
音羽は、そう言うと、慌てて、しかし、どこか、楽しそうに、自らの、ラーメンへと、向き直った。
その、時だった。
常盤の、ポケットに入れていた、スマートフォンが、ぶ、ぶ、と、短く、震えた。
彼は、何気なく、それを取り出し、メッセージの、内容に、目を、通す。そして、その、眉間の、皺が、ほんの、僅かに、深くなったのを、音羽は、見逃さなかった。
常盤は、メッセージを、読み終えると、何も言わずに、スマートフォンを、ポケットに、しまい、再び、黙々と、麺を、啜り始めた。
だが、その、視線は、もはや、丼の中には、なかった。遥か、遠くの、まだ、見ぬ、事件の、風景を、見ている、刑事の、目に、戻っていた。
音羽は、口の周りを、拭うと、にやり、と、笑った。
そして、囁くように、常盤に、尋ねた。
「……次なる、演奏会の、お知らせかね?」




