終章:残留光 (Afterglow)
マクスウェル・ウォンの逮捕と、その、あまりに、奇想天外な犯行手口の、全貌が、公にされてから、世界は、まるで、集団で、一つの、夢から、覚めたかのような、熱に、浮かされた。メディアは、連日、物理学者や、心理学者を、スタジオに呼び、この、前代未聞の「認識ハッキング事件」について、議論を、戦わせた。回収された「天照の涙」は、以前にも、増して、神秘的な、輝きを、放っているように、見えた。人々は、もはや、その、宝石そのものではなく、その、背後にある、人間の知性が、作り出した、巨大な、物語の、幻影を、見ていたからだ。
そして、事件から、一ヶ月が過ぎた、ある、秋の、夜。
常盤仁と、音羽響は、横浜の、古い、プラネタリウムの、観覧席に、並んで、座っていた。そこは、都会の、喧騒から、切り離された、静かな、闇の、聖域だった。定刻になり、場内の、照明が、ゆっくりと、落ちていく。やがて、完全な、闇が、訪れ、頭上の、巨大な、ドームスクリーンに、一つ、また、一つと、無数の、星々が、灯り始めた。
『――皆様が、今、ご覧になっている、この、星々の、光。その、多くは、何万年、何百万年も、昔に、その、星から、放たれた、光です。もしかしたら、その、星そのものは、もう、この、宇宙には、存在しないのかも、しれません。我々は、いわば、宇宙の、壮大な、過去からの、手紙を、読んでいるのです』
学芸員の、穏やかで、落ち着いた、ナレーションが、ホールに、響き渡る。
常盤は、その、人工の、星空を、見上げながら、この、一連の、ありえない、事件のことを、思い出していた。共振という、音の、亡霊。エントロピーの、法則に、逆らった、絶対零度の、密室。そして、今回の、光の、イリュージョン。その、全てが、まるで、この、プラネタリウムの、星々のように、現実でありながら、どこか、現実離れした、一つの、物語のように、感じられた。
「……面白いものだな」
隣で、同じように、星空を、見上げていた、音羽が、静かに、呟いた。
「マクスウェル・ウォンは、人間の、ちっぽけな、知性で、光を、捻じ曲げ、現実を、欺こうとした。だが、この、本物の、宇宙では、ブラックホールや、銀河団といった、巨大な、質量が、その、圧倒的な、重力で、時空そのものを、歪ませ、遥か、遠くの、天体の、光を、曲げ、我々に、偽りの、像を、見せることがある。重力レンズ効果。ウォンの、あの、芸術的な、犯行ですら、宇宙が、日常的に、行っている、この、壮大な、奇跡の、あまりに、拙い、模倣に過ぎなかった、というわけだ」
音羽の、その言葉は、もはや、常盤を、驚かせは、しなかった。彼は、ただ、静かに、その言葉の、意味を、反芻していた。そうだ、我々が、見て、信じている、この、世界そのものが、もしかしたら、何者かによって、見せられている、一つの、虚像に過ぎないのかも、しれない。そんな、途方もない、可能性すら、今の、彼には、自然に、受け入れることができた。
「最初の事件は、『音』だった」音羽は、まるで、自らの、記憶を、整理するかのように、語り始めた。「世界は、振動する、弦の、集合体であり、その、調和と、不協和音を、我々は、聴いた」
「次の事件は、『熱』だった。秩序は、必ず、無秩序へと、向かう。その、宇宙の、避けられぬ、熱的死という、哀しい、運命を、我々は、目撃した」
「そして、今回の事件は、『光』だった。我々が、認識している、この、現実こそが、観測という、行為によって、初めて、確定する、不確かな、情報の、重ね合わせに過ぎない、ということを、我々は、思い知らされた」
ドームスクリーンに、壮大な、アンドロメダ銀河が、映し出される。その、無数の、光の、渦。
「音、熱、光。そして、重力。それらを、記述する、美しい、数式。それこそが、犯人たちが、挑み、そして、敗れ去った、この、宇宙の、根本原理だ。彼らは、皆、その、法則を、自らの、手で、支配しようとした、哀れな、プロメテウスだった。そして、我々は、その、神々の、遊びの、後始末を、させられていただけの、ちっぽけな、存在だ」
やがて、プラネタリウムの、上映は、終わり、ドームスクリーンは、再び、ただの、白い、半球へと、戻った。場内に、明るい、照明が、灯る。夢の、時間が、終わり、人々が、ぞろぞろと、出口へと、向かい始めた。
常盤と、音羽も、席を立ち、現実の、世界へと、戻っていく。
外に出ると、横浜の、夜景が、その、無数の、人工の、光で、彼らを、迎えた。車の、ヘッドライト、ビル群の、ネオン、街灯の、オレンジ色の、光。その、一つ一つが、今の、常盤には、特定の、波長と、輝度を、持つ、光子の、奔流として、感じられた。
「残留光、という、言葉がある」
歩きながら、音羽が、言った。
「ビッグバンの、直後に、放たれた、光の、名残が、今も、なお、この、宇宙の、あらゆる、場所で、観測されている。宇宙背景放射。宇宙が、かつて、灼熱の、火の玉であったことの、最も、雄弁な、証拠だ。それは、もう、決して、触れることのできない、遥か、過去の、出来事の、残光だよ」
彼は、常盤の方を、向いて、静かに、微笑んだ。
「結局、我々が、やっていることも、それと、同じなのかも、しれんな。刑事さん」
「我々は、常に、事件という、過去の、出来事が、放った、僅かな、光の、残像を、追いかけているに過ぎない。そして、その、光を、頼りに、かつて、そこに、何が、あったのかを、再構成しようと、試みている」
二人は、雑踏の中に、その姿を、消していく。
彼らが、共に、観測し、共に、駆け抜けた、あの、三つの、奇妙な、事件。それらも、また、彼らの、人生という、時空の中に、決して、消えることのない、一つの、鮮烈な、「残留光」として、これからも、ずっと、輝き続けるのだろう。
そして、この、広大な、宇宙の、どこかで、また、新たな、星が、その、命を、終え、最後の、光を、放つ時。
その、遥かな、過去からの、手紙を、読み解く、仕事が、再び、この、奇妙な、二人組を、待っているのかもしれない。
物語は、ここで、一旦、その、幕を、下ろす。
だが、宇宙の、演奏は、決して、終わらない。
ただ、静かな、平衡状態へと、還るだけだ。
次なる、揺らぎが、生まれる、その、瞬間まで。




