第七章:レクイエム (Requiem)
マクスウェル・ウォンの個人ラボは、地上三十階の、空の孤島にあった。それは、研究室というよりは、むしろ、光を祀るための、静謐な神殿だった。床から天井まで、一枚の、巨大なガラスで、外界と隔てられ、眼下には、ミニチュアの玩具のような、横浜の街並みが、どこまでも、広がっている。部屋の中央には、複雑な光学実験台が、まるで、祭壇のように、鎮座し、壁には、物理学者が、好むような、雑然とした、数式も、メモも、何一つない。ただ、磨き上げられた、ガラスと、金属だけが、制御された、間接照明の、光を、静かに、反射していた。
そこは、ウォンという、神が、支配する、完璧な、真空の世界だった。
その、神の領域に、常盤仁と、音羽響は、静かに、足を踏み入れた。
ウォンは、部屋の中央で、宙に、浮かぶ、三次元の、ホログラフィック・ディスプレイを、指先で、操作していた。彼は、二人の、来訪に、気づいていたはずだが、その、視線を、一切、こちらに、向けようとは、しなかった。まるで、彼の、知覚宇宙の中に、常盤たちの、存在は、まだ、許されていないかのようだった。
「……マクスウェル・ウォン博士」
常盤が、静寂を、破った。その声は、この、あまりに、非現実的な、空間の、空気に、僅かな、現実の、重みを、与えた。
「あなたを、国宝級美術品『天照の涙』の、窃盗、および、器物損壊の、重要参考人として、お話を、お伺いしたい」
常盤は、懐から、捜査令状と、数枚の、報告書の、コピーを、取り出し、ガラスのテーブルの上に、置いた。
「我々の、捜査で、今回の、犯行に使われたと、思われる、特殊な、光学液剤と、その、容器である、中空の、レプリカの、製造元が、判明しました。そして、その、発注と、支払いの、金の流れは、最終的に、貴方が、管理する、ダミーカンパニーの、口座へと、繋がっています。ご説明、願えますかな」
それは、いかなる、言い逃れも、許さない、完璧な、物証の、連鎖だった。
だが、ウォンは、初めて、その、視線を、二人の方へ、向けると、まるで、子供の、拙い、お遊戯を、見るかのように、ふ、と、静かに、微笑んだ。
「証拠、ですか。刑事さん。その、紙切れに、書かれていることは、確かに、事実でしょう。ですが、それは、この、私の、作品にとって、何の、意味もなさない。それは、偉大な、交響曲を、その、楽譜に使われている、インクの、化学成分で、語ろうとするのと、同じくらい、野暮で、無意味な、行為だ」
彼の、その、あまりに、不遜な、態度に、常盤の、眉が、ピクリと、動いた。
その時、それまで、沈黙を、守っていた、音羽が、一歩、前に、出た。
「……ウォン博士。素晴らしい、作品だった」
音羽の声には、非難も、敵意も、なかった。そこにあったのは、ただ、純粋な、同じ、高みを目指す、芸術家が、もう一人の、芸術家の、作品に、送る、最大限の、賛辞と、敬意だった。
「私は、最初、この事件を、『虚像のフーガ』だと、考えていた。だが、違った。フーガは、あまりに、対位的で、人間的だ。貴方の、この作品は、もっと、静かで、もっと、孤独で、そして、もっと、神に近い。そう……これは、レクイエムだ。我々が、『見る』という、行為によって、初めて、その、存在を、確定させていた、あの、宝石の、『像』そのものに、捧げるための、鎮魂歌だったのだ」
ウォンの、瞳が、初めて、音羽の、瞳を、真っ直ぐに、捉えた。二人の、天才の、視線が、交錯し、その、間に、常人には、見えない、高密度の、情報が、火花のように、飛び交う。
「君になら、理解できると、思っていたよ。物理屋」
「ああ。理解できる。そして、その、あまりの、完璧さに、私は、嫉妬すら、覚える」
音羽は、まるで、そこに、残された、犯行の、残像を、指で、なぞるかのように、語り始めた。
「君は、まず、本物と、寸分違わぬ、中空の、レプリカを、作り上げた。おそらく、素材は、光の、分散率が、極めて低い、フッ化ポリマーだろう。次に、君は、その、ポリマーの、屈折率と、内部に、満たす、ヘリウム=アルゴン混合ガスの、温度と、圧力までを、考慮し、それら、全ての、因子を、完璧に、調和させる、たった一つの、解……つまり、あの、魔法の、液体の、組成を、計算で、導き出した」
「そして、君は、あの、マイクロチューブを通して、その液体を、注入した。注入の、速度も、計算し尽くされていた。液体が、レプリカを、満たしていく、その、過程で、発生する、僅かな、光の、揺らぎすらもが、周囲の、照明の、微細な、フリッカーと、同期し、人間の目にも、監視カメラの、センサーにも、ノイズとしてしか、認識されないように、完璧に、コントロールされていた」
「その結果、生まれたのは、完全な、光学的、迷彩。光が、その、存在を、素通りしていく、究極の、不可視空間だ。見事、としか、言いようがない。それは、犯罪などではない。宇宙の、基本法則を、巧みに、利用した、一つの、静かな、奇跡だ」
音羽の、その、賛美にも似た、解説を、ウォンは、満足げに、そして、どこか、寂しげに、聞いていた。
「……そうだ。その通りだ。私は、ただ、証明したかった。この、世界が、いかに、不確かで、曖昧な、我々の『認識』という、砂上の楼閣の上に、成り立っているかをね。絶対的な、存在などない。あるのは、観測によって、仮に、定義された、『情報』だけだ。そして、情報は、書き換え、そして、消去することが、できる。私は、それを、最も、エレガントな、形で、世界に、提示したかったのだ」
「ああ、君は、成功した」音羽は、静かに、頷いた。「君の、この、レクイエムは、完璧な、芸術作品だ。だが、ウォン博士。どんな、完璧な、芸術家も、自らの、作品に、無意識のうちに、『サイン』を、残してしまうものだよ」
「サイン?」
ウォンの、眉が、初めて、僅かに、動いた。
「そうだ。そして、君が、この、あまりに、完璧な、作品に、残してしまった、たった一つの、そして、致命的な、サインとは……」
音羽は、一呼吸、置くと、その、静かな、神殿に、判決を、下すかのように、宣告した。
「……この、犯行を、考えつき、理論を、構築し、そして、それを、寸分の、狂いもなく、実行できる、知識と、技術と、そして、美学を、併せ持った、人間が、この、地球という、惑星の上に、ただ、一人しか、存在しない、という、その、絶対的な、事実そのものだよ、マクスウェル・ウォン」
「君の、その、孤高の、天才性こそが、君自身を、告発する、何よりも、雄弁な、証拠なのだ」
時が、止まった。
ウォンの、顔から、あの、神のような、余裕の、笑みが、すうっ、と、消えていく。そして、その後に、現れたのは、自らの、完璧な、証明が、自分自身を、否定するという、究極の、パラドックスに、直面した、一人の、人間の、あまりに、深い、絶望と、そして、ほんの、僅かな、安堵だった。
彼は、初めて、自分と、同じ、言語を、話す、人間に、出会えたのだ。そして、その人間に、自らの、芸術が、完全に、理解された。その、事実が、彼の、最後の、砦を、内側から、静かに、崩壊させた。
「……そうか」
彼は、まるで、長い、夢から、覚めたかのように、呟いた。
「……それこそが、私の、計算になかった、唯一の、変数だった、というわけか」
常盤は、静かに、ウォンへと、歩み寄った。そして、その、天才の、肩に、そっと、手を置いた。
それは、あまりに、美しく、そして、あまりに、哀しい、レクイエムの、本当の、終曲だった。




