第六章:虚像の追跡 (Chasing the Virtual Image)
翌朝、警視庁捜査本部に張り詰めていた空気は、もはや、絶望や、停滞といった、生易しいものではなかった。それは、理解不能な現象を前にした、人間の、根源的な、知性の敗北を、静かに、しかし、明確に、告げていた。合同捜査会議の、巨大なホワイトボードは、その、ほとんどの面積を、空白が、支配していた。書きこむべき、事実も、推論も、何一つ、存在しないのだ。
その、絶望的な、静寂の中心に、常盤仁は、立っていた。
彼の背後には、あの、深夜の、物理実験室で、目の当たりにした、常識が、音を立てて、崩壊していく、光景が、焼き付いている。そして、彼の手には、音羽響が、明け方に、走り書きして、よこした、一枚の、レポートがあった。そこには、「屈折率整合の原理に基づく、犯行プロセスの完全再現、および、追跡すべき物証のリスト」と、題されていた。
「……以上が、我々が、これから、進むべき、唯一の、捜査方針だ」
常盤は、集まった、精鋭たちを前に、その、レポートの内容を、説明し終えた。彼の声は、乾いていた。だが、その瞳には、もはや、迷いはなかった。
会議室は、水を打ったように、静まり返った。誰もが、常盤の、その、あまりに、荒唐無稽な、説明を、どう、解釈すればいいのか、分からずにいた。宝石の形をした、中空の、透明な抜け殻。その中に、屈折率を、合わせた、特殊な液体を、注入した? まるで、子供向けの、SFアニメのような、シナリオだった。
一人の、ベテラン刑事が、耐えきれずに、口を開いた。
「常盤さん……あんた、正気か? 我々は、警察官だぞ。ファンタジー小説の、登場人物じゃないんだ」
その言葉は、その場にいた、全員の、代弁だった。だが、常盤は、動じなかった。
「ああ、正気だ。そして、俺たちは、今から、そのファンタジーを、現実の、物証で、殴り倒しに行く。鑑識、特殊機材班を、招集しろ。これから、もう一度、あの、ガラスケースを、今度は、分子レベルで、解剖する!」
その日の午後、横浜新美術館の、グランドホールは、再び、異様な、静寂と、緊張に、包まれていた。だが、それは、事件発生直後の、混沌としたものではない。それは、未知の、古代遺跡を、発掘する、考古学者のチームのような、緻密で、神経質な、静寂だった。
音羽の、レポートを、まるで、聖典のように、読み込んだ、鑑識班長と、特殊機材班の、メンバーたちは、クリーンウェアに身を包み、あの、ガラスの立方体と、その、土台である、ショーケースの、再調査を、開始した。彼らの手には、もはや、通常の、鑑識キットではない。非破壊検査用の、超音波探傷装置、物質の、表面組成を分析する、蛍光X線アナライザ、そして、ナノメートル単位の、傷や、加工痕を、発見するための、走査型電子顕微鏡。まるで、半導体の、クリーンルームのような、装備だった。
調査は、困難を、極めた。
ショーケースは、マクスウェル・ウォンによって、完璧な、芸術品として、設計されている。装飾と、機能が、完全に、一体化し、どこまでが、デザインで、どこからが、何らかの、機構なのか、判別が、つかない。
「……ダメです。表面に、傷一つ、ありません。完全に、シームレスだ」
「内部構造を、超音波で、スキャンしても、異常な、空洞や、配線は、見当たらない……設計図通り、完璧な、ソリッド構造です」
時間だけが、刻一刻と、過ぎていく。捜査員たちの間に、再び、あの、絶望的な、停滞の空気が、漂い始めた。常盤の、額にも、脂汗が、滲む。本当に、あれは、音羽の、壮大な、空想の産物だったのだろうか。
「……待て」
その時、電子顕微鏡の、モニターを、食い入るように、見つめていた、一人の、若い、技官が、声を、上げた。
「班長……これ、を」
モニターに、拡大された、ショーケースの、台座部分の、画像が、映し出される。そこは、一見すると、ただの、美しい、金属製の、唐草模様の、装飾にしか、見えない。
だが、その、画像を、数万倍にまで、拡大した時、その、唐草模様の、中心にある、極めて、小さな、花の、雌しべの、その、先端部分に。
人間の、目では、決して、認識できない、あまりに、微細な、「穴」が、存在していた。
それは、まるで、注射針の、先端で、突き刺したかのような、完璧な、真円。その、直径は、おそらく、50ミクロンにも、満たないだろう。
「……あった」
常盤は、声にならない、声を、上げた。
「これだ! これが、犯人が、液体を注入した、マイクロチューブの、接続ポート(せつぞくこう)だ!」
その、たった一つの、神の指先のような、小さな穴の発見は、捜査員たちの、士気を、爆発的に、蘇らせた。理論は、もはや、空想ではなかった。それは、目の前にある、厳然たる、物理的な、事実となったのだ。
この、一点の、突破口は、捜査を、次の、次元へと、加速させた。
常盤は、直ちに、第二の、チームを、編成した。
一方は、国内の、全ての、特殊な、光学ポリマーや、屈折液を、扱う、化学薬品メーカーと、研究機関の、リストを作成し、この、事件のために、特別に、合成されたであろう、「魔法の液体」の、取引記録を、追跡する、化学班。
もう一方は、この、ありえないほど、精密な、中空の、レプリカを、製造可能な、3Dプリンターや、超精密加工機を、保有する、工房や、試作品工場を、リストアップし、その、製造記録を、追う、技術班。
捜査は、もはや、「なぜ、消えたか」ではない。「誰が、これほどの、もの、を、作り得たか」という、極めて、具体的な、犯人像の、絞り込みへと、移行した。
そして、その日の、深夜。
常盤の、デスクの上で、二つの、報告書が、一つの、恐るべき、結論へと、収束した。
化学班が、突き止めた、特殊な、フッ素系溶剤の、匿名取引。
そして、技術班が、発見した、超精密光学樹脂の、試作品製造の、外注記録。
その、二つの、取引に関わっていた、ダミー会社の、その、金の流れの、最終的な、行き着く先は……。
マクスウェル・ウォンの、個人研究開発部門が、管理する、ペーパーカンパニーの、口座だった。
常盤は、その、二つの、報告書を、両手に、持ったまま、しばらく、動けなかった。
虚像の、ゴーストを、追い続けた、果てに、彼らが、ついに、掴んだ、実像の、尻尾。
それは、あまりに、巨大で、あまりに、危険な、獲物の、尻尾だった。
静かな、しかし、確実な、最終対決への、カウントダウンが、今、始まった。




