第四章:陽炎のゴースト (The Ghost in the Heat Haze)
事件発生から、七十二時間が経過した。
警視庁捜査一課に設置された、合同捜査本部の空気は、まるで、ゆっくりと冷却され、その活動を停止していく、白色矮星の表面のように、重く、そして、希望のない光に満ちていた。メディアは、連日、「怪盗“幻影”の復活か」「海外テロ組織による犯行?」「専門家も匙を投げた、史上最も不可解な窃盗事件」といった、扇情的な見出しを、紙面と電波に、踊らせ続けている。上層部からの、無言の圧力は、もはや、物理的な質量を伴って、捜査員たちの、両肩に、のしかかっていた。
全ての、従来的な捜査は、完全な、行き詰まりを見せていた。
現場に、物的証拠は、何一つない。指紋も、繊維も、足跡も、ゼロ。容疑者たちの、完璧なアリバイは、誰一人として、崩すことができない。常盤仁は、この数日間、ほとんど、眠っていなかった。彼の脳は、ひたすらに、ありとあらゆる、可能性をシミュレーションし、そして、その全てが、論理的な壁に、激突しては、砕け散る、という、不毛な作業を、延々と、繰り返していた。彼の信じてきた、地道な捜査という名の、ニュートン力学は、この、光速で、因果律を嘲笑うかのような、事件の前では、完全に、無力だった。
その、絶望的な、停滞の中心で、ただ一つの、例外的な空間が存在した。
警視庁が誇る、デジタル・フォレンジックラボ。その、最も奥にある、スーパーコンピュータ「ヘルメスIII」に、直接アクセスできる、第一解析室。そこは、音羽響という、異質な天体によって、完全に、占拠されていた。彼は、この三日間、一度も、外に出ていない。部屋の主電源以外の照明は、全て落とされ、巨大な冷却ファンの、低く、唸るような音だけが、支配する、その暗闇の中で、音羽は、まるで、宇宙船の船長のように、壁一面に広がる、巨大なモニターの光だけを、浴びていた。
彼の前には、あの日、あの瞬間の、数テラバイトにも及ぶ、生(RAW)の、映像データが、広がっていた。それは、単なる、監視カメラの映像ではない。毎秒三百フレームで、あらゆる角度から、あのガラスの立方体を捉え続けた、超高解像度の、光の情報の、洪水だった。
常盤が、差し入れの、栄養補給ゼリーと、缶コーヒーを手に、その、薄暗い、聖域へと足を踏み入れた時、音羽は、まるで、そこに、誰もいないかのように、呟き続けていた。
「……違う。加算ではない。減算でもない。変化がないのだ。フレームAと、フレームA+1の間に、物理的な、事象の変移が、観測できない。まるで、この宇宙の、連続的な時間の中に、たった、一フレーム分の、『無』が、挿入されたかのようだ……」
「音羽さん」
常盤の声に、音羽は、初めて、その、モニターの光を反射して、不気味に光る、瞳を、ゆっくりと、向けた。その目は、完全に、血走っていた。だが、それは、疲労によるものではない。常人には、到底、理解できない、知的な、極限状態の、興奮によるものだった。
「刑事さん、いいところに来た。一つ、面白いものを、見せてやろう」
音羽は、キーボードを、凄まじい速度で、操作した。モニターの一つに、事件の瞬間の、映像が、映し出される。宝石が、ある。そして、次の瞬間、消える。何度見ても、変わらない、不可解な映像だ。
「これが、君たちが、その、貧弱な、肉体の眼球で、観測している、マクロな世界の、現実だ」
次に、彼は、別のモニターを、指差した。そこには、同じ場所が映っているが、その色調は、奇妙な、まだら模様になっていた。
「私は、まず、事件が起きる前の、数万フレームの映像を、重ね合わせ(スタック)、センサーの熱ノイズや、空気中の、微細な塵の動きといった、全ての、ランダムな揺らぎを、平均化し、除去した。いわば、この空間の、『絶対的に静止した、理想的な姿』を、作り出したのだ」
「そして、その『理想的な姿』から、事件が起きた、瞬間のフレームを、差し引いた(差分)。もし、そこに、何か、ホログラムのような、余計な光が、加えられていたなら、その、光の残骸が、ここに、浮かび上がるはずだった。だが、結果は、見ての通り、『完全な無』だ。何も、足されてはいないし、何も、引かれてはいない」
常盤は、息を詰めて、その、何の変化もない、モニターを、見つめた。やはり、これは、超常現象なのか。
「だがな、刑事さん」音羽の口元に、三日月のような、笑みが、浮かんだ。「私は、観測の、対象を、間違えていた。探すべきは、変化した『モノ』ではない。変化を、強いられた、『空間』そのものだったのだ」
彼は、最後の、そして、最も巨大な、メインモニターに、全く、新しい、映像を、映し出した。それは、一見すると、ただの、ノイズの塊のようにしか見えない、砂嵐のような、画面だった。
「これは、私が、たった今、書き上げた、新しい、解析アルゴリズムだ。それは、映像の色や、明るさの変化を、追うのではない。フレーム間の、背景の、ピクセル単位での、幾何学的な『位置のズレ』だけを、検出し、増幅するものだ。光が、その、最短ルートを、何らかの理由で、妨害された場合にのみ、発生する、時空の『歪み』そのものを、可視化する、装置だよ」
音羽は、その、砂嵐の映像の、再生ボタンを、押した。
ノイズが、流れていく。何も、変わらない。
だが、事件発生時刻、午後2時15分34秒。
その、ノイズの海の、中心に。
ほんの一瞬、しかし、確かに。
まるで、真夏の、アスファルトの上に立ち上る、陽炎のように。あるいは、水の中に、一滴の、透明な、インクを垂らしたかのように。
空間が、ぐにゃり、と、歪んだ。
それは、そこに、何か、目には見えないが、光を、僅かに、屈折させる、透明な、物体の「ゴースト」が、存在していることを、明確に、示していた。
「……これ、は」
常盤は、絶句した。
「そうだ」音羽は、その、陽炎のゴーストを、愛おしげに、指差した。「犯人は、ホログラムなどという、子供騙しの手品は、使っていない。ホログラムは、光を、そこに『加える』技術だ。だが、この犯人は、もっと、エレガントで、もっと、根源的な力を使った。彼は、そこを通過する、光の、進行ルートそのものを、僅かに、『曲げた』のだ!」
「つまり、こうだ、刑事さん。事件の瞬間、我々が、宝石が『ある』と信じていた、あの場所には、すでに、本物は、存在しなかった。そこにあったのは、宝石の形をした、我々の目には、見えない、透明な、何かだ! そして、犯人は、その、透明な『何か』の、性質を、事件の瞬間に、さらに、変化させた。その結果、それまで、僅かに、発生していた、光の屈折が、完全に、ゼロになり、我々の目には、その、透明な物体すらもが、見えなくなった。これが、宝石が、『消えた』ように見えた、トリックの、正体だ!」
「我々は、もう、消えた宝石を、追う必要はない」
音羽は、立ち上がると、その、血走った目で、常盤を、真っ直ぐに、見据えた。
「我々が、これから、追うべきは、そこに、確かに、存在した、この、陽炎のゴーストの、正体だ。ガラスか、ポリマーか、あるいは、未知の、物質か。宝石と、寸分違わぬ形をした、完璧な、そして、中が、空洞の、抜け殻。その、透明な、幽霊船を、作り上げることができた、職人を、探し出すのだ!」
常盤の頭の中で、鳴り響いていた、警鐘が、ぴたりと、止んだ。
混沌としていた、この、ありえない事件に、初めて、一本の、確かな、そして、信じがたいほど、奇妙な、道筋が、示された。
それは、闇の中を、手探りで、進む、捜査というよりは、むしろ、異次元の、物理学者が、その、指先に灯した、理論という名の、僅かな光だけを、頼りに、進んでいく、危険な、冒険の、始まりだった。




