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虚空のフーガ  作者: AItak
第三部『虚像のレクイエム、あるいは光学的迷彩のパズル』

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第三章:容疑者という名のスペクトル (The Spectrum of Suspects)


音羽響の、あの、常人の理解を遥かに超越した「量子力学的存在確率収束仮説」は、警視庁捜査本部に、ビッグバン直後の宇宙のような、完全な混沌カオスと、僅かな秩序(法則)をもたらした。刑事たちのほとんどは、その言葉の意味を、理解することを、完全に放棄した。だが、彼らは、一つの、極めて重要な事実だけは、理解した。それは、この事件が、彼らの持つ、いかなる捜査マニュアルも、過去の経験則も、全く通用しない、完全に新しい種類の、知能犯罪である、ということだった。

捜査は、音羽響という、ただ一つの、奇妙な恒星の重力に引かれるように、再編成された。

「これから我々が行うのは、尋問ではない。分光分析スペクトロスコピーだ」

音羽は、容疑者リストが貼られたホワイトボードの前に立ち、まるで、未知の天体の光を、プリズムにかける天文学者のように、宣言した。

「光が、その光源の、成分や温度、運動状態に関する、全ての情報を含んでいるように、人間の発する言葉や、その態度という名の『光』もまた、その人間の、魂の組成を、我々に、教えてくれる。我々は、これから、三つの、全く異なる光源を観測し、そのスペクトルから、この、ありえない犯行を、可能にしうる、元素組成を持つ人間を、特定するのだ」

常盤は、その言葉を、刑事たちが理解できる、平易な言語へと、必死に「翻訳」しながら、最初の「観測」対象へと、チームを率いた。

【光源α:マクスウェル・ウォン — 吸収スペクトル】

横浜新美術館の、最上階。館長室よりも、さらに広く、そして、遥かに眺めの良い一室が、マクスウェル・ウォン博士の、臨時オフィスとして、与えられていた。壁一面のガラス窓からは、横浜港の、きらめくパノラマが、まるで、彼のために用意された、巨大なスクリーンセーバーのように、広がっている。部屋には、余計な装飾品は、何一つない。ただ、巨大なデスクと、その上に置かれた、数台の、最新鋭のモニターだけが、静かに、その存在を主張していた。

ウォンは、警察の人間が、ぞろぞろと部屋に入ってきても、椅子から、立ち上がりすらしなかった。彼は、モニターに映し出された、複雑な光学シミュレーションの画面から、一度も、目を離さない。その態度は、傲慢というよりは、むしろ、彼の意識が、我々が認識する、この3次元空間には、ほとんど存在していないことを、示唆していた。

「……それで、刑事さん。私の、完璧な定理セオレムに、何か、矛盾でも、見つかりましたかな?」

ウォンは、常盤の顔を見ずに、まるで、独り言のように、尋ねた。その声は、穏やかで、どこか、楽しんでいるかのような響きすら、含んでいた。

「ウォン博士。貴方が、この美術館の、セキュリティ全体の、設計者だ。そして、今回の事件は、その、貴方の言う『完璧なセキュリティ』の、まさに、ど真ん中で、発生した。単刀直入に、お伺いしたい。貴方には、この犯行が、可能でしたか?」

常盤の、その、直球の問いに、ウォンは、初めて、その視線を、モニターから、常盤へと、移した。そして、ふ、と、まるで、出来の悪い生徒の、素朴な質問に、答える教師のように、笑った。

「可能か、不可能か、ですか。それは、愚かな質問だ。この宇宙で、物理法則的に、禁じられていない事象は、全て、可能ですよ。問題は、それを、いかにして、実現するか。その、方法論メソッドのエレガンスだけだ」

その時、それまで、部屋の隅で、壁の材質や、窓ガラスのコーティングを、指先で確かめるようにして、観察していた音羽が、静かに、口を開いた。

「ウォン博士。素晴らしいオフィスだ。特に、この窓ガラス。多層膜の、低反射コーティング。おそらく、可視光の、特定の波長域では、透過率99.9%以上を、実現している。だが、同時に、赤外線と、紫外線は、ほぼ、完璧に、カットしている。実に、見事な、光学フィルターだ」

ウォンの目が、初めて、音羽という、本質を理解する人間を、捉えた。彼の、興味なさげな仮面の下に、ほんの一瞬、同業者を見つけたかのような、鋭い光が、宿った。

「……貴方は、刑事では、ないようですな」

「しがない物理屋ですよ」音羽は、ウォンのデスクに、近づいた。「博士、私は、貴方の、十年前の論文を、拝読した。メタマテリアルを用いて、光の屈折率を、負にするという、あの、画期的な論文をね。あの論文は、まるで、バッハの、フーガのように、美しかった。あの理論を、応用すれば……例えば、ある特定の空間の、時空そのものを、光に対して、歪ませ、その中にある物体を、光学的に、完全に、不可視化することも、理論上は、可能になる」

音羽の言葉は、もはや、尋問ではなかった。それは、同じ高みを目指す、二人の科学者による、知的な、そして、危険な、探り合いだった。

「理論上、はね」ウォンは、答えた。「だが、それを、現実の、マクロなスケールで、実現するには、まだ、いくつかの、技術的なブレークスルーが、必要となる。エネルギーの問題、素材の安定性の問題……」

「しかし」と、音羽は、ウォンの言葉を、遮った。「もし、対象を、完全に、不可視化するのではなく、ただ、その対象と、周囲の媒体との、屈折率の『差』だけを、ゼロに近づける、というアプローチならば? 例えば、特殊な液体や、気体を、用いて……」

二人の会話は、常盤たち、他の刑事にとっては、もはや、異星の言語にしか、聞こえなかった。だが、彼らには、分かった。この二人の間には、常人には、決して、理解できない、深い、そして、どこか、歪んだ、共感と、ライバル意識のようなものが、渦巻いている、と。

ウォンの魂のスペクトルは、まさしく、「吸収スペクトル」だった。彼は、外部からの、凡庸な光(質問)を、全て、その、計り知れない知識の闇の中に、吸収し、反射しない。だが、その闇の中には、特定の、鋭い光(本質的な問い)だけを、吸収し、決して、外には出さない、暗黒線が、無数に、刻まれている。音羽は、その、暗黒線のパターンから、彼の魂が、光を、そして、この世界の、全ての情報を、支配することへの、底知れない渇望で、満たされていることを、明確に、読み取っていた。

【光源β:九条 瑠璃子 — 輝線スペクトル】

次に、常盤たちが向かったのは、ウォンの、あの、ミニマルで、無機質な空間とは、まさに対極にある世界だった。

鎌倉の、深い緑に囲まれた、古刹こさつの、さらに奥。苔むした石段を登りきった先に、その、古い屋敷は、まるで、時が止まったかのように、静かに、佇んでいた。そこは、「天照の涙」の、元所有者である、九条家の、本邸だった。

通された、薄暗い客間は、白檀の香りが、満ちていた。床の間には、年代物の掛け軸。そして、その前に、静かに座っていたのが、九条家の、最後の末裔、九条瑠璃子だった。彼女は、墨色の、簡素な着物を身に纏い、その顔は、まるで、能面のように、表情がなかった。だが、その、漆黒の瞳の奥には、何世代にもわたって受け継がれてきた、強い、そして、どこか、この世ならざる、光が、宿っていた。

「……あの宝石が、消えたと、お聞き及びのことと、存じます」

常盤が、挨拶もそこそこに、切り出すと、瑠璃子は、ゆっくりと、頷いた。

「消えたのでは、ありません。お隠れになったのです」

その声は、鈴を転がすように、美しかったが、その内容は、常盤の、現実的な思考を、完全に、麻痺させた。

「お隠れに……なった?」

「はい。天照の涙は、単なる、石ころでは、ございません。あれは、我ら、九条の一族が、代々、その魂を、注ぎ込んできた、生きた、依り代。美術館という、俗世の、好奇の目に晒されることを、宝石自身の、魂が、お嫌いになった。ただ、それだけのことにございます」

彼女の語る言葉は、非科学的で、荒唐無稽だった。だが、その、あまりに、揺るぎない確信と、凛とした態度は、聞く者に、それが、一つの、厳然たる「真実」であるかのような、錯覚を、抱かせた。

音羽は、黙って、彼女の話を、聞いていた。彼は、彼女の言葉の、論理的な整合性ではなく、その言葉が、どのような「内部宇宙」の法則に基づいて、構築されているのかを、分析していた。

「瑠璃子様」音羽は、静かに、語りかけた。「貴方の一族に伝わる、古文書を、拝見いたしました。そこには、天照の涙が、月光を浴びると、その姿を、薄れさせることがある、と、記されていました。これは、科学的に見れば、ある種の、蛍光、あるいは、燐光現象と、解釈することもできますが……貴方は、これを、どう、お考えになりますか?」

瑠璃子の、能面のような顔に、初めて、微かな、感情の波紋が、広がった。

「物理屋、で、ございますか」彼女は、音羽の、本質を、見抜いたようだった。「貴方様のような方が、信じることは、難しいでしょう。ですが、あれは、宝石が、我々の住む、現しうつしよから、神々の住まう、常世とこよへと、その魂を、一時的に、里帰りさせている、姿なのです。そして、今回の事件は、その、一時的な里帰りが、おそらくは、永遠のものと、なった……ということなのでしょう」

彼女の魂のスペクトルは、まさしく、「輝線スペクトル」だった。彼女の世界は、怨念、魂、常世といった、特定の、極めて、鋭い波長の光(概念)だけで、構成されている。その光は、強烈で、純粋で、他の、いかなる光の干渉も、許さない。音羽は、その、狂信的とも言える、一貫した、そして、自己完結した、その、あまりに美しい、内部宇宙の構造に、ある種の、畏敬の念すら、感じていた。彼女は、科学とは、全く、別の法則で、この世界を、完璧に、理解していたのだ。

【光源γ:“幻影ファントム”の影 — 連続スペクトル】

音羽と常盤が、形而上学的な、謎解きに挑んでいる間、捜査本部では、より、地に足の着いた、しかし、同じくらい、途方もない、もう一つの捜査が、進行していた。それは、伝説の美術品偽造師、“幻影ファントム”の、影を追う、というものだった。

捜査一課の、若手刑事たちは、警視庁の、地下深くにある、資料保管室に、籠っていた。そこは、デジタル化の波から、取り残された、紙と、インクの匂いが支配する、過去の迷宮だった。彼らは、過去、数十年間に、世界中で起きた、未解決の、美術品窃盗事件の、膨大な資料を、一枚、一枚、めくっていた。

「……手口が、まるで、違う」

一人の刑事が、唸った。「ある時は、古典的な、絵画のすり替え。ある時は、最新の、レーザースキャナを使った、彫刻の複製。また、ある時は、ターゲットの、人間関係を、巧みに利用した、心理的な、詐術。まるで、犯人が、複数人いるかのようだ」

“幻影”のスペクトルは、まさしく、「連続スペクトル」だった。その手口は、赤外線から、紫外線まで、あらゆる波長の光を含むように、多岐にわたり、一つの、特定のパターンに、絞り込むことが、できない。彼は、まるで、カメレオンのように、その場の状況に応じて、自らの、犯行の「色」を、変えるのだ。

だが、その、膨大なデータの中に、一つの、共通項が、浮かび上がってきた。

「……どの事件も、盗まれた、本物の美術品は、後日、傷一つなく、どこか、意外な場所から、発見されている」

「金が、目的じゃないのか?」

「違う。彼の目的は、ただ、一つ。世間が、『本物』だと信じて、崇めているものを、自らの手で、完璧な『偽物』と、すり替え、そして、そのことに、誰も、気づかない、という、状況そのものを、楽しむことだ。彼は、芸術家なんだ。世界そのものを、キャンバスにした、皮肉屋の、芸術家だよ」

この、地に足の着いた捜査は、しかし、今回の、あまりに、超常的な事件とは、どこか、肌合いが、違うようにも、思われた。“幻影”は、あくまでも、物理的な「モノ」を、扱う。だが、今回の事件は、その「モノ」の、存在そのものが、消し去られているのだ。

若手刑事たちは、まだ、気づいていなかった。

この、一見、無関係に見える、二つの捜査線――音羽が追う、量子力学的な「虚像」と、彼らが追う、古典的な「偽物」――が、やがて、一つの、驚くべき、特異点で、交わることになる、ということを。

そして、その特異点こそが、この、不可能犯罪の、本当の、心臓部である、ということを。

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