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虚空のフーガ  作者: AItak
第三部『虚像のレクイエム、あるいは光学的迷彩のパズル』

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第二章:観測されない猫 (The Unobserved Cat)


音羽響が、その混沌の中心地、横浜新美術館に降り立ったのは、常盤からの、ほとんど悲鳴に近い連絡を受けてから、二時間が経過した後のことだった。彼は、都内の古いプラネタリウムで、旧式のカール・ツァイス製投影機が、いかにして、アナログな歯車とレンズの組み合わせだけで、無限の宇宙という「虚像」を、ドームスクリーンに完璧に結んで見せるか、その、古典的で、しかし、エレガントな光学技術に、恍惚として見入っていたのだ。彼にとって、現実の星々よりも、人間が、いかにして「現実を模倣しようとしたか」という、その知的な試みの方が、よほど、興味深かった。

彼が、タクシーを降り、美術館の前に立った時、そこは、すでに、彼の好きな「静寂」とは、程遠い世界と化していた。パトカーの回転灯が、無機質に、建物の白い壁を、赤と青に、神経質に染め上げている。野次馬と、報道陣が、規制線の外側に、黒い人垣を形成し、そのざわめきは、まるで、巨大な蜂の巣の羽音のようだった。

「音羽さん、こちらです!」

人垣をかき分けて現れた常盤の顔は、彼が、これまで見たこともないほど、青ざめ、そして、疲弊しきっていた。それは、凶悪犯と対峙した後の、アドレナリンが燃え尽きた疲労とは、明らかに、異質のものだった。彼の疲労は、もっと、根源的な、自らの「認識」という、存在の足場そのものが、ぐらついていることから来る、眩暈めまいにも似た、消耗だった。

「……ひどい顔だな、刑事さん。まるで、幽霊でも見たような顔だ」

「幽霊の方が、よっぽど、マシですよ」常盤は、吐き捨てるように言った。「幽霊なら、少なくとも、壁をすり抜けた、とか、そういう、ありきたりな『説明』がつく。だが、今回は、違う。説明も、現象も、何もない。ただ、そこにあったものが、何の痕跡も、理由もなく、『無』になった。それだけだ」

音羽は、その言葉を聞いて、初めて、その瞳の奥に、本物の、純粋な、知的好奇心の光を、灯した。

「無、か。それは、面白い。哲学者が、一生をかけても、たどり着けない境地だ。犯人は、それを、いとも容易く、我々の目の前で、実現して見せたというわけか」

彼らは、喧騒を抜け、捜査本部が設置された、美術館のバックヤードへと足を踏み入れた。そこは、怒号と、混乱と、そして、行き場のない焦燥感が、澱んだ空気となって、渦巻いていた。ホワイトボードには、「集団催眠?」「超高性能ホログラム?」「内部共犯者による、瞬時のすり替え?」といった、およそ、現代の警察組織が、必死でひねり出したとは思えない、SFまがいの仮説が、書きなぐられては、消されていた。

「音羽先生、お待ちしておりました!」

一課長が、まるで、救いの神でも見るかのような目で、駆け寄ってきた。もはや、彼のプライドも、常識も、この、あまりに非現実的な事件の前では、何の役にも立たないことを、嫌というほど、思い知らされていたのだ。

だが、音羽は、その、捜査本部の、熱病のような空気には、一切、興味を示さなかった。彼は、刑事たちの、必死の議論を、まるで、存在しない雑音のように、その意識から完全に排除すると、一直線に、事件の舞台、グランドホールへと、向かった。

ホールの中は、すでに、鑑識の、白い防護服を着た集団によって、支配されていた。彼らは、あらゆる可能性を想定し、空気中の成分から、床に残された、目に見えない足跡、そして、ガラスケースに残された、微細な指紋まで、最新鋭の機材を駆使して、懸命に、何か、物理的な「痕跡」を探し求めていた。

音羽は、その、勤勉で、しかし、絶望的な作業を、一瞥しただけで、通り過ぎた。

そして、あの、がらんどうの、ガラスの立方体の前に、立った。

彼は、その、完璧な透明性を誇るガラス壁を、指で、そっと、撫でた。そして、目を閉じ、まるで、ピアニストが、初めて触れる、ピアノの感触を確かめるかのように、その、冷たく、滑らかな表面から、情報を、読み取ろうとしているかのようだった。

「……違うな」

やがて、彼は、呟いた。

「君たちは、根本的に、観測の仕方を、間違えている」

彼は、振り返ると、困惑する常盤と、鑑識班長に、こう言った。

「君たちは、犯人が、ここに『何をしたか』を探している。だが、それは、無意味だ。なぜなら、犯人は、ここに、何一つ、していないのだから。君たちが、本当に、探すべきは、犯人が、ここに『何を、しなかったか』だ」

その、禅問答のような言葉に、その場にいた、誰もが、思考を停止させた。

「シュレーディンガーの猫、という思考実験を知っているかね?」

音羽は、また、始まった、と、頭を抱える常盤を、無視して、続けた。

「箱の中に、猫と、放射性原子と、毒ガス発生装置を入れる。原子が、一時間以内に、50%の確率で崩壊し、崩壊すれば、毒ガスが出て、猫は死ぬ。さて、一時間後、箱を開ける前の、猫の状態は、どうなっている?」

「……生きているか、死んでいるか、どちらかだろう」

鑑識班長が、いぶかしげに答えた。

「違う!」音羽は、まるで、出来の悪い生徒を叱責するかのように、声を強めた。「量子力学の正しい解釈によれば、箱を開けて、『観測』される、その瞬間まで、猫は、『生きている状態』と、『死んでいる状態』が、50%ずつ、同時に、重なり合って、存在しているのだ! 我々が、箱を開けるという、観測行為によって、初めて、猫の運命は、どちらか一方の、現実に、確定する!」

彼は、目の前の、空っぽのショーケースを、指差した。

「この宝石も、同じことだ! 我々が、ここに、宝石が『ある』と観測していたからこそ、宝石は、そこに、存在していた。だが、犯人は、その、我々の『観測』という行為そのものを、ハッキングしたのだ! 彼は、我々が、宝石を『ある』と認識するために必要な、光という名の『情報』を、この空間から、完全に、消し去った。その結果、どうなる? 観測されなくなった宝石は、もはや、『ある』という、一つの現実に、確定されることをやめ、その存在確率そのものが、シュレーディンガーの猫のように、不確定な、霧の中へと、消え去ってしまったのだ!」

「これは、窃盗ではない。これは、量子的な、存在確率の、強制的な収束だ! 犯人は、この宝石を、『ここには無い』という、もう一つの、可能世界パラレルワールドへと、突き落としたのだよ!」

ホールは、完全な沈黙に包まれた。

刑事たちの顔には、もはや、混乱すら浮かんでいない。ただ、理解不能な言語で語られる、異星人の演説を聞いているかのような、完全な、諦念だけがあった。

常盤は、こめかみの奥で、ガンガンと鳴り響く、警鐘を聞いていた。

この男は、またしても、一つの、現実の事件を、我々の、手の届かない、遥か彼方の、宇宙の法則を巡る、壮大な、そして、悪夢のような、知的ゲームへと、変貌させてしまった。

そして、その、常人には、決して、理解できないゲームの、唯一のプレイヤーとして、自分もまた、この、狂った盤上へと、引きずり込まれてしまったことを、彼は、改めて、絶望的な確信と共に、理解していた。

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