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虚空のフーガ  作者: Gにゃん
第一部 あるいは共振殺人事件
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第一章:静寂の破断


朝の光は、慈悲深い。どんな悲劇が夜の間に起ころうと、翌朝には何事もなかったかのように、埃の一つ一つを黄金に照らし出し、世界の罪を洗い流そうとする。だが、その光ですら届かぬ闇もある。

田所初恵が、マスターキーでペントハウスの重厚なドアを開けたのは、午前九時を少し回った頃だった。彼女はこの「天空の城」に週三回通う家政婦で、その仕事は、主の不在を確認し、完璧な空間をさらに完璧に磨き上げることだった。しかし、その日のドアは、内側からかんぬきが下りていた。電子ロックは解除できても、物理的な障壁が彼女の侵入を拒んでいる。

「黒川様? 田所でございます」

呼びかけに、応答はない。昨夜のパーティの後、主が部屋に籠もることは珍しくない。だが、この物理的なロックは、彼の徹底した用心深さの表れであり、通常、彼が中にいることを示していた。初恵は携帯端末で黒川に連絡を入れたが、呼び出し音が虚しく響くだけだった。胸に、冬の隙間風のような小さな不安がよぎる。三十分後、マンションの支配人立ち会いのもと、セキュリティ会社が特殊な工具で閂を破壊し、ようやくドアは開かれた。

「失礼いたします……」

支配人と共に踏み入れた瞬間、初恵は息を呑んだ。リビングは、まるで時が止まったかのようだった。昨夜のパーティの残り香が、高級なブランデーとシガーの匂いと混じり合い、淀んだ空気となって漂っている。そして、その中央に、ありえない光景が広がっていた。

巨大なアンティーク・シャンデリアが、床に墜落していたのだ。無数のクリスタルガラスの破片が、高価なペルシャ絨毯の上に、まるでダイヤモンドの粉を撒き散らしたように煌めいている。それは、あまりに壮絶で、冒涜的なまでに美しかった。

そして、その輝きの中心に――シャンデリアの最も重い金属製の胴体の下に、主、黒川剛三の姿があった。片腕と脚の一部だけが覗き、彼が愛用していたベルベットのガウンの深い赤色が、絨毯の模様に新たな、そしておぞましいパターンを加えていた。

支配人が震える手で警察に電話をかける間、初恵はただその場に立ち尽くすしかなかった。彼女の視線は、無惨な主の姿から吸い寄せられるように天井へと向かった。そこには、シャンデリアが吊るされていたはずの場所が、ぽっかりと口を開けていた。そして、その縁から力なく垂れ下がっている、捻じ曲がった金属の残骸。まるで、熱した飴細工を巨人の指で捻り上げたかのような、異様な形だった。

「また城の主のお出ましってわけか」

パトカーの助手席で、常盤仁刑事は忌々しげに呟いた。湾岸エリアに聳え立つ、天を突くようなタワーマンション。その威圧的な姿は、地に足の着いた捜査を信条とする彼にとって、現実感のない異世界への入り口のように思えた。

「被害者は黒川剛三。資産数十億ともいわれるIT長者です。昨夜、自宅でパーティがあった模様」

後部座席の若手刑事が、タブレットを操作しながら報告する。

「動機には困らなさそうだな」

常盤は、吸いかけのタバコを携帯灰皿に押し付けた。金の亡者、傲慢不遜、敵の数は星の数。黒川剛三の名は、経済ニュースだけでなく、ゴシップ欄の常連でもあった。

現場となったペントハウスは、すでに警視庁捜査一課と鑑識の人間でごった返していた。しかし、その喧騒ですら、天井まで届く巨大な窓から差し込む陽光と、どこまでも広がるパノラマビューの前では、ちっぽけな騒ぎにしか見えなかった。

「常盤さん、こちらです」

部下に促され、常盤は現場の中心へと足を進める。ブルーシートが掛けられてはいるが、その下に横たわるものの存在感は隠しようもない。彼は黙礼し、視線を床から天井へと移した。

「……なんだ、これは」

思わず声が漏れた。数多の現場を踏んできた彼の目から見ても、それは異様だった。落下したシャンデリア。それ自体は、事故として片付けられなくもない。だが、問題はその原因だ。

「鑑識の見立ては?」

「それが……」

鑑識課の班長が、困惑した表情で常盤に近づいてきた。

「死亡推定時刻は、昨夜の午後十一時から午前二時の間。死因は、シャンデリアの直撃による頭蓋骨陥没と全身の圧挫。ほぼ即死でしょう」

「だろうな。で、本題は?」

「ドアは内側から電子ロックと物理的な閂で施錠。窓は全て嵌め殺しで、外部から侵入した形跡は一切ありません。完全な密室です」

常盤は眉間に深い皺を刻んだ。「密室」という言葉は、捜査官のプライドを酷く傷つける。それは、犯人が警察よりも一枚上手だという宣言に他ならないからだ。

「事故か? 金属の経年劣化とか」

「それが、これを見てください」

鑑識班長が指差したのは、天井からぶら下がっている、件のフックの残骸だった。特殊合金で作られた、直径5センチはあろうかという頑丈なフック。それが、ぐにゃりと歪み、引き千切られたように破断している。

「拡大写真を撮りましたが、破断面に爆破や切断の痕跡はありません。ただ……奇妙な金属疲労の痕が見られます。まるで、短時間に何万回、何十万回と、微細な振動を与え続けたかのような……」

「振動?」

常盤は訝しげに聞き返した。

「ええ。ですが、このマンションは最新の免震構造です。昨夜、このエリアで有感地震は観測されていません。それに、これだけの質量のシャンデリアを揺らすほどの振動となれば、建物全体が揺れて、他の住人が気づかないはずがない」

常盤は腕を組み、破断したフックを睨みつけた。自殺か? いや、黒川ほどの自己顕示欲の塊が、こんなみっともない死に方を選ぶとは思えない。事前にタイマーか何かを仕掛けた時限式の犯行? だが、これほど頑丈なフックを、どうやって時限式で破壊するというのだ。

「まるで、ポルターガイストだな」

若手刑事が、冗談とも本気ともつかぬ口調で言った。

「馬鹿を言え。俺たちの仕事に、オカルトが入り込む隙間はない」

常盤は吐き捨てるように言ったが、その実、彼の頭の中もまた、論理的な説明がつかないもやに包まれ始めていた。侵入者はいない。凶器は、この部屋の備品そのもの。そして、犯行を可能にした「力」は、どこにも痕跡を残していない。

常盤は、ガラスの破片が散らばる絨毯を避けながら、巨大な窓に近づいた。眼下には、まるで人間社会の営みなど我関せずと、東京の街が静かに広がっている。

この静寂の中で、一体何が起こったというのか。

見えざる手。聞こえざる音。

常盤は、この事件が自分のこれまでの経験則セオリーが一切通用しない、異質なものであることを、肌で感じていた。そして、こういう事件に限って、捜査は暗礁に乗り上げ、やがて人々の記憶から忘れ去られていくのだ。

「……何か、見落としている。俺たちがまだ知らない、何かがあるはずだ」

呟きは、陽光に満ちた静寂な空間に、小さく吸い込まれて消えた。彼の脳裏に、解決の糸口ではなく、ただ巨大な疑問符だけが、重く、のしかかっていた。

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