第一章:4次元からの窃盗 (The Theft from the 4th Dimension)
2025年7月15日、火曜日。
その日、横浜新美術館は、一つの巨大な熱狂の坩堝と化していた。グランドオープンを飾るにふさわしい目玉――伝説の宝石「天照の涙」の初公開を一目見ようと、世界中から集まった人々が、まるで聖地を目指す巡礼者のように、その白亜の殿堂へと吸い込まれていく。
その群衆の中に、常盤仁は、場違いな迷子のように、佇んでいた。
一週間の休暇。溜まりに溜まった代休を、半ば強制的に消化させられ、彼は、生まれて初めて、自らの意志で「美術館」という場所に足を踏み入れたのだ。血と硝煙の匂いが染みついた日常から、ほんの少しでも、逃避したかった。だが、彼の職業病ともいえる観察眼は、人々の熱っぽい視線、警備員たちの僅かな緊張、そして、あらゆる場所に設置された監視カメラの、無機質な瞳を、無意識のうちに、分析してしまっていた。
メインホールの中心。
人々が感嘆の声を上げる、その視線の先に、問題の「それ」は、鎮座していた。
マクスウェル・ウォン設計の、完璧なガラスの立方体。その中央に、まるで、時が止まった宇宙に浮かぶ、孤独な銀河のように、「天照の涙」は、静かに輝いていた。それは、単なる宝石ではなかった。あらゆる角度からの光を、その内部に貪欲に吸い込み、そして、計算され尽くした無数のファセットから、虹色の、ほとんど暴力的なまでの美を、四方八方へと放射していた。
常盤ですら、その、人間業とは思えぬ輝きを前にして、一瞬、自らの職業を忘れて、息を呑んだ。
世界には、まだ、自分の知らない、美しいものが、存在したらしい。
彼が、そんな柄にもない感傷に浸っていた、まさに、その時だった。
午後2時15分34秒。
世界の、何かが、軋んだ。
それは、音もなく、予兆もなかった。
常盤の視界の、その中心で、今、この瞬間まで、圧倒的な存在感を放っていた、あの宝石の輝きが、ふっ、と、まるで、ロウソクの火が吹き消されるように、消えた。
いや、違う。消えた、のではない。
そこに、在ったはずの、物体そのものが、その痕跡も、輪郭も、影すらも、残さずに、「無」に、なったのだ。
まるで、映画の、稚拙なCG編集のように。前のフレームには存在し、次のフレームでは、存在しない。その間にあるはずの、物理的なプロセスが、完全に、欠落していた。
一秒。二秒。
ホールは、奇妙な静寂に包まれた。人々は、目の前で起きたことを、理解できずにいた。何かの、演出か。最新の、プロジェクションマッピングか。誰もが、隣の人と顔を見合わせ、あるいは、自らのスマートフォンの画面と、目の前の、空っぽになったガラスケースとを、何度も、見比べている。
その、均衡を破ったのは、一人の子供の、甲高い声だった。
「ママ、おほしさま、きえちゃった!」
その一言が、引き金だった。
誰かの、短い悲鳴。ざわめき。ざわめきが、波となり、波が、巨大なうねりとなって、ホール全体を、パニックという名の津波となって、呑み込んでいく。
ビーッ!ビーッ!ビーッ!
遅れて、けたたましい警報が鳴り響き、天井からは、分厚いシャッターが、轟音と共に、降りてくる。人々の興奮は、一瞬にして、恐怖と混乱へと、その相を変えた。
だが、常盤仁は、その、熱狂と混沌の中心で、ただ一人、凍り付いたように、その場に立ち尽くしていた。
彼の視線は、もはや、群衆にも、降りてくるシャッターにも、向けられてはいなかった。
ただ、一点。
あの、今や、主を失い、がらんどうの空間だけを、虚しく、そして、完璧に、守り続けている、ガラスの立方体だけを、見つめていた。
彼の、こめかみの奥で、ズキン、と、あの、忌まわしい、そして、懐かしい痛みにも似た、頭痛が、産声を上げた。
これは、強盗ではない。窃盗ですらない。
これは、人間の仕業ではない。あるいは、人間の仕業だとしたら、それは、もはや、我々と同じ次元に生きる、人間の犯罪では、ありえない。
常盤は、押し寄せる人波をかき分け、壁際まで移動すると、震える指で、スマートフォンを取り出した。履歴を開く必要すらない。その番号は、もはや、彼の指が、覚えてしまっていた。
数回のコールの後、受話器の向こうから、あの、どこか、この世の出来事を見下しているかのような、穏やかな声が聞こえてくる。
『もしもし、常盤刑事かね。非番のはずの君が、私に電話をかけてくるということは……よほど、エレガントな事件が、起きたと見える』
常盤は、額に滲む、冷たい汗を、手の甲で拭った。
「……音羽さん、常盤だ」
彼の声は、自分でも驚くほど、乾ききっていた。
「ああ、最悪の休日だよ。いや……これは、事件、というよりは……」
彼は、言葉を探し、そして、最も的確な表現を見つけ出した。
「……そうだな。事象だ。横浜の、時空に、どうやら、穴が、空いたらしい」




