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虚空のフーガ  作者: AItak
第二部 『熱的死のセレナーデ、あるいは絶対零度の密室』

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終章:新たなる平衡状態 (A New State of Equilibrium)


長嶺沙耶の告白が、氷の結晶のように、あの完璧に管理されたラボの空気の中で静かに形を結んだ後、世界の音は、一度、完全に消え失せたかのように思われた。その場にいた誰もが、その小柄な女性から放たれる、絶対零度の静寂に呑まれ、身動き一つできずにいた。彼女が語った言葉は、罪の告白というよりは、むしろ、完了した実験結果を報告する、淡々とした論文の要旨に近かった。

最初に、その静寂を破ったのは、常盤仁が、一歩、前に踏み出した、その靴音だった。

硬質な床に響いたその無粋な音は、まるで、この世ならざる儀式を中断させてしまったかのように、場違いに大きく聞こえた。彼は、長嶺沙耶の前に立つと、その瞳を、真っ直ぐに見つめた。そこには、もはや、若き研究者としての輝きも、罪に怯える者の揺らぎもない。ただ、全てを終え、自らが作り出した、永遠の冬の中に佇む、空虚な魂があるだけだった。

「……長嶺沙耶」

常盤は、努めて、事務的な声色を作った。だが、その声が、自分でも驚くほど、微かに震えていた。

「あなたを、神崎怜士氏に対する、殺人の容疑で、逮捕します」

彼が、その震える手で、手錠を取り出した時、彼女は、何の抵抗も見せなかった。それどころか、まるで、待ち望んでいた手続きであるかのように、自ら、その細い手首を、すっと差し出した。カチリ、という、冷たい金属音が、やけに大きく響き渡る。その瞬間、ようやく、この事件が、物理法則を巡る難解なパズルではなく、一人の人間が、もう一人の人間の命を奪った、紛れもない「殺人事件」として、現実の地平に、その重い姿を現したのだった。

音羽響は、その一連の、あまりに人間的な儀式を、少し離れた場所から、ただ、黙って見ていた。彼の興味は、もはや、犯人が誰であるか、という点にはなかった。彼の知的な好奇心は、この長嶺沙耶という人間が、いかにして「共感」という熱い感情を、ジュール=トムソン効果という、極限まで「冷たい」物理現象へと、変換し得たのか、その、魂の熱力学的なプロセスそのものに向けられていた。彼は、この事件の、最後の、そして、最も美しい謎が、犯人の心の中にこそあることを、静かに理解していた。

数日後、警視庁の、無機質な第四取調室で、常盤は、再び、長嶺沙耶と向き合っていた。

彼女は、留置場の灰色の衣服に身を包み、以前よりも、さらに小さく、儚げに見えた。だが、その瞳の奥にある、静かな光は、少しも、衰えてはいなかった。

「……計画には、半年、かかりました」

彼女は、常盤の問いに、記憶のアーカイブを検索するように、正確に、そして、淡々と語り始めた。

「最初の三ヶ月は、理論の構築です。神崎先生のラボの環境下で、彼に、一切の痕跡を残さず、物理的な苦痛を最小限にして、その生命活動を停止させることが可能な、最もエレガントな方法を、探しました」

彼女の口から語られる言葉は、常盤の耳には、もはや、殺人の計画とは思えなかった。それは、一つの、極めて難易度の高い、技術的な課題に対する、最適解を求める、研究者のアプローチそのものだった。

「熱、電気、薬物……あらゆる可能性をシミュレーションしましたが、どれも、痕跡を残しすぎるか、あるいは、不確実性が高すぎた。そんな時、思い出したんです。大学時代、物理化学の講義で習った、ジュール=トムソン効果のことを。あの時は、ただ、面白い現象だ、としか思いませんでしたが……神崎先生のラボの、あの完璧な設備を見た時、私の中で、全てが繋がりました」

彼女は、自分が、いかにして、研究所のCADデータにアクセスし、換気システムの内部構造を把握したか。いかにして、海外の匿名サーバーを経由し、専門の工房に、あの美しいノズルを発注したか。そして、いかにして、定期メンテナンスの僅かな隙をついて、ダクト内部に、それを設置したか。その全てを、まるで、成功した実験のプロセスを、学会で発表するかのように、淀みなく語った。その声には、罪悪感も、後悔も、微塵も感じられなかった。

「……なぜ、そこまでして」

常盤は、思わず、問いかけていた。それは、刑事としてではなく、一人の人間としての、純粋な疑問だった。

「なぜ、警察に、告発しなかった。なぜ、法に委ねなかったんだ」

その時、初めて、長嶺の、あの、絶対零度の表情に、僅かな、ほんの僅かな、亀裂が入った。

「法、ですか」

彼女は、自嘲するように、ふ、と息を漏らした。

「刑事さん。私が、あのラボで、何を見てきたか、貴方には、想像もつかないでしょう。神崎先生は、法を、誰よりも巧みに利用していました。動物愛護法も、研究倫理規定も、その抜け穴を、全て知り尽くしていた。彼の行いは、決して、『違法』ではなかったかもしれない。ですが、それは、明白な『悪』でした」

彼女は、窓の外の、灰色の空を見つめた。

「法が、全ての悪を裁けないというのなら、誰かが、別の法則で、裁きを下すしかない。私は、そう思ったんです。人間の作った、曖昧で、抜け道だらけの法じゃない。この宇宙が、始まった時から、変わることなく存在し続ける、絶対の、物理法則によって」

「彼が、生命を、ただの化学反応の集合体として弄んだというのなら、私もまた、彼を、ただの、熱力学の法則に従う、一つの物質として、扱った。ただ、それだけのことです」

常盤は、もう、何も言うことができなかった。彼は、目の前にいるのが、ただの殺人犯ではないことを、痛いほど理解していた。彼女は、自らの手で、神の役を演じ、そして、その罪を、宇宙の法則という、あまりに巨大な法廷で、自ら、裁かれようとしていたのだ。

さらに、数週間が過ぎた。季節は、秋の気配を、色濃くし始めていた。

常盤は、あのジャズバーの、いつもの席にいた。一課長の、雷のような叱責と、その後の、手のひらを返したような称賛。マスコミの、面白おかしい憶測記事。そして、長嶺沙耶の、裁判の準備。その全てが、まるで、遠い世界の出来事のように感じられた。

「随分と、深いところにまで、潜ってきた顔をしているな、刑事さん」

いつの間にか、隣に、音羽響が座っていた。その手には、もちろん、琥珀色の液体が満たされた、グラスがあった。

「……あんたのおかげで、俺の世界は、すっかり、様変わりしてしまった」

常盤は、ステージの上で、即興演奏を繰り広げるピアニストの、目まぐるしい指の動きを見ながら言った。「もう、ただの事件を、事件として見ることができない。全ての背後に、あんたの言う、物理法則が、ちらついて見える」

「それは、良いことじゃないか」音羽は、楽しそうに笑った。「君は、世界の、より深い、解像度の高い姿を、見ることができるようになった。おめでとう。君は、3次元から、3.1次元くらいの存在には、進化したわけだ」

「冗談じゃない」

常盤は、苦笑し、バーボンを呷った。そして、ずっと、心に引っかかってきたことを、尋ねた。

「長嶺沙耶は……彼女は、一体、何だったんだと、あんたは思う?」

音羽は、グラスを置き、その視線を、ステージの闇へと向けた。

「彼女は、求道者だよ。そして、悲劇のヒロインだ」

その声は、静かだった。

「彼女は、この宇宙の、最も根源的な悲劇――秩序は、必ず、無秩序へと向かうという、エントロピー増大の法則――に、たった一人で、戦いを挑んだ。神崎という名の、生命を弄ぶ『混沌』を、凍結という『秩序』によって、葬り去ろうとした。その試みは、一つの芸術として、完璧だったと言ってもいい」

「だが、皮肉なことに、彼女の、その秩序を生み出すための、完璧な計画そのものが、結果として、彼女の人生に、そして、我々の世界に、比較にならないほどの、巨大な『無秩序』を生み出してしまった。彼女は、宇宙の法則に逆らったのではなく、むしろ、誰よりも、忠実に、その法則を、証明して見せたのだ。秩序を生み出す行為は、必ず、それ以上の無秩序を生む、という、あの、冷徹な法則をね」

二人の間に、長い、静寂が流れた。サックスの、むせび泣くようなメロディだけが、その沈黙を、優しく埋めていた。

「まあ、何にせよ」

音羽は、まるで、何事もなかったかのように、明るい声を出した。

「我々の、この小さな宇宙は、一つの事件が終わり、再び、新たなる『平衡状態』へと移行した。退屈な、安定した世界だ。しばらくは、大きな事件も、起こらないだろう」

常盤は、その言葉を聞きながら、思った。この男が、そう言う時は、決まって、そのすぐ側で、次の、ありえない事件が、まるで、この男の言葉に呼び寄せられるかのように、産声を上げるのだ。

「だと、いいがな」

常盤は、そう言うと、グラスの、最後の一口を、飲み干した。

音羽は、ただ、楽しそうに笑っている。その瞳は、この世界の、さらに向こう側、まだ、誰も聞いたことのない、次なる宇宙の、始まりの響きを、もう、捉えているかのようだった。

彼らの、奇妙なデュエットは、まだ、終わらない。

この宇宙に、謎という名の、美しい不協和音が、存在する限り。

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