第五章:秩序(オーダー)の中の証拠 (Evidence within the Order)
警視庁捜査一課の会議室は、審判の法廷と化していた。
常盤仁は、ただ一人、被告席に立たされているかのようだった。彼の前には、鬼の形相の一課長と、懐疑的な視線を隠そうともしない、同僚の刑事たちが座っている。
「……つまり、こうか、常盤」一課長が、テーブルを指で叩きながら、絞り出すように言った。「お前の言う、その風変わりな物理学者の『妄想』に基づいて、数億はするという、あの研究所の空調システムを、我々が、分解して調べろと。正気か?」
「ですが、他に、この事件を説明できる仮説はありません! 音羽氏の理論は、全ての状況証拠と、完璧に一致しています!」
常盤は、必死に食い下がった。彼の背後には、もはや退路はなかった。この一週間、彼は、音羽の理論という、あまりにも細く、そして、あまりにも非現実的な蜘蛛の糸に、自らの警察官としての、全人生を賭けていたのだ。
「物理的な証拠が、何一つないだろうが!」
「ですから、その証拠が、今からそこにあると、申し上げているんです! 犯人が使った、『ノズル』が!」
長い、長い沈黙が、会議室を支配した。一課長の目が、常盤の、決して揺るがない瞳の奥を、探るように見つめている。やがて、彼は、まるで宇宙の果てから聞こえるような、深いため息をついた。
「……鑑識の、特殊機材班を編成しろ」
その言葉に、室内の空気が、ざわついた。
「ただし、常盤。これが、最後だ。それで、お前の言う『悪魔のフルートの口金』とやらが出てこなかった場合……お前は、明日から、交通課で、カラスの数を数えてもらうことになる。覚悟は、いいな」
その日の午後、神崎生命科学研究所の、あの忌まわしいラボは、再び、異様な光景を呈していた。
完全防護のクリーンウェアに身を包んだ、警視庁鑑識課特殊機材班の精鋭たちが、音羽響という、ただ一人の指揮者の下、まるで精密な外科手術を行うかのように、壁や天井のパネルを、一枚、また一枚と、静かに取り外していく。
「違う。そのメインダクトではない」
音羽は、腕を組み、分厚い設計図の束を睨みながら、指示を出す。彼は、決して、現場の機材には触れない。彼の武器は、その頭脳と、物理法則への絶対的な信頼だけだ。
「犯人は、もっと巧妙だ。単純な流れの中には、何も隠さない。流れと流れがぶつかり合い、圧力差が最大になる『節』の部分……そうだ、そこの、第三分岐の、ラミナーフロー制御ユニットの裏側だ。そこを開けてみろ」
機材班の班長が、懐疑的な表情を浮かべながらも、部下に指示を出す。彼らとて、こんな前代未聞の捜査は、初めてだった。殺人事件の捜査で、空調ダクトの分解など、聞いたこともない。常盤は、その様子を、祈るような気持ちで、ただ、見守っていた。彼の心臓の鼓動だけが、この静寂な空間で、やけに大きく響いている。
特殊なファイバースコープが、ダクトの闇の中へと挿入される。モニターに、埃っぽい、金属の内部が映し出された。
「……何も、ありませんね。ただの、吸音材のようです」
オペレーターの、失望を隠せない声。常盤の膝が、がくりと、崩れそうになった。終わりか。全ては、あの物理学者の、壮大な空想だったのか。
「待て」
その時、モニターを食い入るように見つめていた音羽が、鋭く制した。
「その吸音材の、テクスチャが、僅かに乱れている。スコープを、もっと右へ。そうだ、3センチ上へ」
オペレーターが、言われるがままに、スコアープを操作する。
そして、モニターを見ていた全員が、息を呑んだ。
吸音材の、その僅かな乱れの中心に。まるで、闇の中に咲いた、一輪の金属の花のように。何か、小さな、人工的な物体が、埋め込まれるようにして、存在していた。
「……確保!」
班長の、上ずった声が飛ぶ。
特殊なマジックハンドが、慎重に、慎重に、その物体を摘み出し、外の世界へと引きずり出した。
透明な滅菌ケースの中に、その「物体」が置かれたとき、その場にいた誰もが、その異様な美しさに、言葉を失った。
それは、親指の先ほどの大きさの、金属の塊だった。だが、ただの金属ではない。鈍い、虹色の光沢を放つ、チタンか、あるいは、それ以上の未知の合金。全体が、まるで宝飾品のように、滑らかに、そして、恐ろしく精密に、削り出されている。そして、その中央には、まるで針の先で開けたかのような、微細な穴が、無数に、ハニカム構造のように、穿たれていた。
それは、まぎれもなく、殺人という目的のためだけに、この世に生み出された、究極の機能美を持つ、芸術品だった。
それは、断熱膨張という、物理法則を、最大限に引き出すためだけに設計された、悪魔のノズルだった。
「……あった」
常盤の口から、声にならない声が漏れた。全身の力が、抜けていく。安堵と、そして、この世ならざるものを目撃してしまったことへの、畏怖。
音羽は、そのケースを、まるで、発見されたばかりの新種の素粒子でも見るかのように、恍惚とした表情で見つめていた。
「見事な……実に見事な加工精度だ。表面の電解研磨、内部の多孔質セラミックフィルターの均一性。これを個人で作れる人間は、まず、いない」
彼は、ゆっくりと顔を上げ、常盤を見た。その瞳は、もはや、次の獲物を見つけた、狩人の光を宿していた。
「どんな芸術家も、自らの作品に、必ず、サインを残すものだよ、刑事さん」
「そして、この完璧な芸術品に残された、作者の『サイン』は……この、あまりに高度な、加工技術そのものだ。これを作れる工房、これを作れる人間は、この国に、そう多くはない。我々が探すべきリストは、今、極限まで、絞り込まれた」




