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虚空のフーガ  作者: AItak
第二部 『熱的死のセレナーデ、あるいは絶対零度の密室』

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第三章:容疑者たちの熱容量 (The Suspects' Heat Capacity)


「これから我々が行うのは、事情聴取ではない。測定だ」

次の目的地へ向かうセダンの中で、音羽は、まるでこれから始まる実験に胸を躍らせるかのように言った。常盤は、その横顔を、もはや驚きもせずに眺めている。彼の言葉を、警視庁の誰にも理解できる言語に翻訳するのが、自分の新たな役目だと、常盤は半ば諦観と共に受け入れていた。

「測定、ですか」

「そうだ。物質の『熱容量』を測るんだ」音羽は、指先で、結露した窓ガラスに複雑な数式を描き始めた。「熱容量とは、その物質の温度を一度ケルビン上げるのに、どれだけの熱エネルギーが必要かを示す、物性値だ。熱しやすく冷めやすい物質もあれば、一度熱を蓄えると、なかなか温度が上がらない、頑固な物質もある」

彼は、常盤に向き直った。その瞳は、深淵を覗き込むように、どこまでも澄んでいた。

「人間もまた、物質だ、刑事さん。ある者は、僅かな侮辱という名のエネルギーで、瞬時に沸騰する。ある者は、社会的な成功という熱を与えられても、その精神の温度は、ほとんど変わらない。そして、ある者は……膨大な憎悪というエネルギーを、その魂の奥深くに、誰にも気づかれずに、静かに、静かに、蓄え続けることができる」

「我々はこれから、三人の容疑者という名の『物質』に接触し、彼らの魂が、どれだけの熱を溜め込み、そして、どのような条件で『相転移』を起こすのかを、観測するのだ」

【測定対象α:結城ゆうき さとし

結城聡の研究室は、彼の精神そのものを具現化したかのような空間だった。古い大学の、陽当たりの悪い一室。だが、壁一面の本棚に並べられた、物理化学と生物学の専門書は、分野ごとに、一分の狂いもなくアルファベット順に整理されている。デスクの上には、書きかけの論文と、美しく積み上げられた参考文献の束以外、何もない。空気は、古い紙の匂いと、静謐な思考の匂いがした。

「……神崎が、死んだと」

結城は、常盤から差し出された警察手帳を見ても、表情一つ変えなかった。ただ、その指先が、デスクの縁を、微かに、しかし規則的に、タップしている。

「彼の死について、何か、お心当たりは?」

常盤の問いに、結城は、ふ、と鼻で笑った。

「心当たり、ですか。彼の存在そのものが、科学という名の秩序に対する、心当たりそのものだった。彼の研究は、派手で、メディア受けは良かった。だが、その根底には、再現性のないデータ、都合のいい部分だけを切り取った結論、そして何より、科学に対する畏敬の念が、完全に欠落していた」

その時、沈黙を守っていた音羽が、口を開いた。

「結城さん。貴方は、オッカムの剃刀という原則をご存知か?」

「『ある事柄を説明するためには、必要以上に多くの仮定を用いるべきではない』。科学の基本だ」

「その通り」音羽は満足げに頷いた。「神崎氏の研究は、その原則に反していた。彼の理論は、醜く、複雑で、無駄な仮定が多すぎた。まるで、悪趣味なバロック建築のようだ。それに引き換え、貴方の論文は、どれも、驚くほどにシンプルで、エレガントだ。まるで、数学の証明のように美しい」

結城の目が、初めて、音羽という男を、対等な知性として認識した。

「……貴方は、何者です?」

「しがない物理屋さ」音羽は笑った。「私には、神崎氏の死が、まるで、複雑で醜い理論が、よりシンプルで美しい理論によって駆逐される、科学史上のパラダイムシフトのように思えてね。貴方は、彼の存在という、醜い方程式を、この世界から、消し去りたいと思ったことは?」

「毎日、思っていましたよ」

結城は、平然と、しかし、その言葉の奥に、タングステンのような硬い憎悪を込めて言った。

「彼は、科学を汚した。その罪は、万死に値する。だが、私が彼を殺すことはない。なぜなら、彼の理論は、いずれ自らの矛盾によって、自滅する運命にあったからです。私は、ただ、その時を待っていただけだ。物理法則が、必ず、より美しい解を選択することを、信じていましたからな」

その男の魂は、極めて高い融点を持っていた。憎悪というエネルギーを、その知性という名の結晶格子の中に、完璧に閉じ込めている。常盤には、そう感じられた。

【測定対象β:長嶺ながみね 沙耶さや

長嶺沙耶のアパートは、彼女の優しさと、そして、癒えぬ傷跡の両方を示していた。部屋の片隅には、片足を引きずる、保護された猫が丸くなっている。壁には、動物たちの写真。だが、部屋全体には、どこか、世界に対する諦観にも似た、静かな哀しみが満ちていた。

彼女は、常盤たちの前で、震える声で、しかし、その瞳には、強い意志の光を宿して語った。

「あの人は……神崎先生は、天才でした。でも、その知性は、生命への共感を、完全に失っていました」

彼女は、ある日の出来事を、詳細に語り始めた。それは、神崎が、遺伝子操作で、痛覚を感じないように設計したマウスを使った、実験の話だった。

「先生は、そのマウスが、本当に痛みを感じないのかを確かめるために、何の麻酔もせずに、その腹をメスで……。マウスは、鳴き声を上げませんでした。ただ、その小さな体は、痙攣し続け、その目からは、涙が……。先生は、それを見て、『見事だ。痛覚伝達のシグナル経路を、完全に遮断できている』と、嬉しそうに、そう言ったんです」

彼女の頬を、涙が伝う。その涙は、単なる悲しみではない。無力な自分への怒りと、神崎の非道に対する、灼熱の憤りが、その一滴に凝縮されていた。

「私は、あの日、決めました。いつか、必ず、あの人の罪を、世間に公表しようと。そのための証拠を集めていました。だから、彼が死んで……正直、安堵した自分と、私の手で裁けなかったことへの、無念さとで……」

音羽は、ただ黙って、彼女の話を聞いていた。その目は、彼女の感情に寄り添うのではなく、彼女の言葉によって、どれだけのエネルギーが解放されているのかを、冷静に、精密に、測定しているかのようだった。

彼女の魂は、純水のようだった。常温では、穏やかで、全てを包み込む。だが、その沸点は、100℃と、明確に決まっている。そして、一度沸騰すれば、そのエネルギーは、凄まじい力となって、周囲を破壊する。彼女の沸点は、「生命が、弄ばれる光景」だった。

【測定対象γ:マリア・オルテガ】

環境保護団体の事務所は、長嶺のアパートとは対照的な、熱気に満ちた空間だった。壁には、抗議活動のスローガンが殴り書きされ、床には、プラカードやビラが山積みになっている。空気は、安いコーヒーと、若者たちの正義感の匂いで、むせ返るようだった。

マリア・オルテガは、その中心で、燃え盛る炎のような存在だった。

「神崎を殺したのは、地球そのものよ! ガイアの怒りが、あの悪魔に、天罰を下したのよ!」

彼女は、常盤たちの前で、臆することなく叫んだ。彼女たちの団体が、神崎の研究所の前で、過激な抗議活動を繰り返していたことは、周知の事実だった。

「ええ、私たちがやった、と書きたいなら、そう書けばいいわ! 私たちは、彼の罪を、世界に訴え続けた。その声が、天に届いたのよ!」

彼女の言葉は、情熱的で、扇動的だった。だが、音羽は、その激しい炎の中に、ある種の「空虚さ」を見ていた。

「オルテガさん」音羽は、静かに割って入った。「貴方たちの活動は、素晴らしい。だが、もし、貴方が神崎氏に『天罰』を下すとしたら、それは、どのような方法が、最も効果的だと考えるかね?」

「方法? そんなの、決まってる! 彼の研究所の前に、世界中のメディアを集めて、彼の悪事を、白日の下に晒すのよ!」

「なるほど。つまり、貴方の正義は、常に『衆人環視』の中にあるわけだ。実に、健全で、オープンなやり方だ」

音羽は、そう言うと、興味を失ったように、踵を返した。

帰りの車中、常盤は、混乱した頭を整理しようと必死だった。

「全員、動機は十分すぎる。だが、結城は、冷徹すぎて、自らの手を汚すとは思えない。オルテガは、情熱的だが、あの密室トリックを実行できる知性があるとは思えない。そうなると、やはり、内部構造に詳しい、長嶺沙耶が……」

「まだだ、刑事さん。結論を出すのは、早すぎる」

音羽は、夕暮れの街を眺めながら言った。

「我々は、今日、三つの異なる物質の、熱容量を測定した。結城は、極めて高い熱容量と、高い融点を持つ、タングステンのような男だ。彼を溶かすには、途方もないエネルギーがいる」

「長嶺は、純水だ。沸点は低いが、その変化は、誰の目にも明らかだ。彼女が何かをすれば、必ず、激しい水蒸気が立ち上る」

「そして、オルテガは、マグネシウムの炎だ。鮮烈に、眩しく燃え上がるが、その熱は、一瞬で拡散し、何も残さない」

彼は、常盤に向き直った。その目は、次の実験へと向かう、科学者の光を宿していた。

「だがな、刑事さん。今回の犯行は、ただ『熱い』だけでは、決して実行できない」

「今回の犯行は、ジュール=トムソン効果が示すように、熱力学の、最も深く、そして、最も『冷たい』知識を必要とする」

「我々が探すべきは、灼熱の憎悪を、絶対零度の思考で、完璧に制御できる人間だ。そして、その候補者は、まだ、このリストの中に、静かに、息を潜めている」

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