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虚空のフーガ  作者: AItak
第二部 『熱的死のセレナーデ、あるいは絶対零度の密室』

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第二章:宇宙法則の反逆者 (The Rebel of Cosmic Law)


音羽響が、その「ありえない現場」に足を踏み入れたのは、常盤からの電話を受けてから、わずか一時間後のことだった。彼は、まるで近所のコンビニにでも出かけるかのような、くたびれたツイードのジャケットという軽装で現れた。だが、その肩に無造作にかけられたメッセンジャーバッグの中には、この世界のどんな警察組織も保有していない、彼だけの「捜査キット」――超高感度のサーモグラフィカメラ、レーザー距離計、そして、彼が自ら改造した、空気中の微量なガス成分をリアルタイムで分析するポータブル質量分析計――が詰め込まれていた。

「これは……これは、傑作だ!」

防護服に身を包んだ鑑識官たちが、まるで聖域に触れるかのように慎重に作業を進める中、音羽は、その中心で凍り付いた神崎怜士の亡骸を前に、子供のように目を輝かせた。その声には、悲劇への同情や、犯人への怒りといった感情は、一切含まれていなかった。そこにあったのは、未知の美しい現象を発見した科学者だけが抱く、純粋な、そしてほとんど狂気に近い歓喜だった。

「見てみろ、刑事さん! この完璧な凍結状態! 細胞の一つ一つが、その内部から、まるで秩序を強制されたかのように、規則正しい氷の結晶と化している。これは、単なる『死』ではない。これは、生命という、無秩序で、曖昧で、非効率な状態から、結晶という、完璧な秩序と静寂の状態への、見事な『昇華』だ!」

周囲の刑事たちが、この不謹慎極まりない闖入者を、信じられないものを見る目で睨みつける。だが、常盤は、もはや彼らを制することすらしなかった。彼は知っていた。音羽響という男の脳は、常人とは違う次元で、この事件を再構成し始めているのだ。

音羽は、遺体にはそれ以上近づこうともせず、まるでバレエダンサーのような、滑らかな足取りで、ラボの中を移動し始めた。彼の目は、刑事たちが血眼になって探している「証拠」などには、全く向けられていなかった。

「ふむ……」

彼は、壁に設置された、複雑な配管パネルの前に立った。そこには、窒素、酸素、アルゴン、二酸化炭素といった、様々な高圧ガスの供給ラインが、色分けされて接続されている。彼は、その一つ一つのバルブを、指でそっと撫でるように触れ、その冷たさを確かめた。

「犯人は、何も『持ち込んで』はいない。愚か者だ、そんなことを考えるのは。なぜなら、凶器は、最初から、この部屋に満ち溢れているのだからな」

次に、彼は天井を見上げ、複雑に張り巡らされた換気システムのダクトの配置を、レーザー距離計で精密に測定し始めた。その口元には、笑みすら浮かんでいる。

「このラボの設計者は、天才か、あるいは、極め付きの馬鹿だ。この換気システムは、外部からの汚染を防ぐことにかけては完璧だが、一度、内部で『悪意ある流れ』が生まれた場合、それを、極めて効率的に、特定の場所へと導く、完璧な音響導波管ウェーブガイドにもなりうる。いや、この場合は……熱力学的導波管、とでも呼ぶべきか」

常盤は、音羽の呟く言葉を、必死に記憶に刻みつけながら、彼の視線の先を追った。音羽が見ているのは、もはや、この部屋そのものではなかった。彼の目には、この部屋を流れる、目には見えない、空気や熱の「流れ」が、色鮮やかな流線となって、見えているかのようだった。

「刑事さん、君たちは、犯人が、いかにして『冷気』をこの部屋に持ち込んだか、という、根本的に間違った問いを立てている」

音羽は、捜査の輪の中心に戻り、その場にいる全員に、まるで大学の講義で、出来の悪い学生に語りかけるかのように言った。

「それは、光のない部屋で、どうやって『闇』を作り出すか、と問うのと同じくらい、愚かな質問だ。闇は、作り出すものではない。光を『消す』ことによって、結果として、そこに現れるものだ」

彼は、凍り付いた神崎を指差した。

「犯人は、『冷気』を持ち込んだのではない。彼は、この男の身体から、『熱』を、根こそぎ奪い去ったのだ。それも、部屋全体の温度を変えることなく、この一点からのみ、極めて効率的に、そして、静かに」

「そんなことが……可能なのか?」

鑑識班長が、絞り出すように問うた。

「可能だとも」

音羽は、断言した。その瞳は、挑戦的な光に満ちていた。

「ただし、そのためには、この宇宙の最も根源的な法則の一つ、熱力学第二法則――エントロピー増大の法則――に、真っ向から喧嘩を売るだけの、知識と、技術と、そして何よりも、悪魔的なまでの、美学が必要となる」

「我々が追うべきは、単なる殺人犯ではない」

音羽は、ゆっくりと部屋を見渡し、その声は、静かだが、その場にいる全ての者の鼓膜を、そして魂を、直接震わせた。

「我々が追うべきは、この宇宙の、避けられぬ熱的死という運命に、たった一人で、反旗を翻した、気高き『反逆者』だ。そして、その反逆者が、この事件現場という名の論文に、どのような美しい数式を書き記したのか……それを読み解くのが、私の仕事だよ」

常盤は、ゴクリと唾を飲んだ。まただ。また、この男は、一つの事件を、宇宙の法則を巡る、壮大な知的ゲームへと変貌させてしまった。

だが、今回は、何かが違う。前回の「共振」が、目に見えぬ「動」の力によるものだったとすれば、今回の「凍結」は、全てが停止する、「静」の力の、究極の現れだ。

それは、より根源的で、より哲学的で、そして、より深く、冷たい、謎の始まりだった。

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