第一章:不可逆な相転移 (An Irreversible Phase Transition)
常盤仁は、その光景を前にしたとき、自らの感覚野が、現実の情報を正しく処理することを拒絶するのを感じた。それは、長年の刑事としての経験が、目の前の光景を「ありえない」と断定し、脳への入力を遮断しようとしているかのようだった。
現場は、川崎市臨海部に聳える、近未来的な研究所の一室。神崎怜士が主宰する「神崎生命科学研究所」の最深部、バイオセーフティレベル3に指定された、厳重なラボだった。エアシャワーを通り、気密性の高い分厚いドアをいくつも抜け、まるで潜水艦の内部を進むかのようにしてたどり着く、現代科学の聖域。
だが、その聖域で、常盤たちが見たものは、聖なるものとは程遠い、冒涜的で、静謐な悪夢そのものだった。
ラボの中央に置かれた、人間工学に基づいた高価な椅子。そこに、神崎怜士は、深く腰掛けたまま、死んでいた。まるで、研究の合間に、ふと眠りに落ちたかのような、穏やかな姿勢で。
しかし、彼の身体は、その穏やかな姿勢とは裏腹に、おぞましい変貌を遂げていた。
「……凍っている」
同行した若手刑事が、絞り出すように呟いた。その言葉は、正確ではなかった。単に「凍っている」という生易しい表現では、この異常事態の百分の一も言い表せてはいなかった。
神崎の身体は、まるで、現代アートのオブジェのように、半透明の氷の結晶に覆われていた。露出した肌には、霜が降りたように白い粉が吹き、その髪の一本一本、まつ毛の一本一本までもが、鋭い氷の針となって、微かな照明を乱反射させていた。指先から滴り落ちる寸前だったであろう水滴が、そのままの形で、不自然な氷の突起と化している。
鑑識の班長が、特殊な非接触温度計を遺体に向け、絶句した。
「マイナス……40度以下……計測不能です」
だが、その異常な低温は、遺体という極めて局所的な空間に限定されていた。彼が手に持つ、もう一つの温度計が示す室温は、壁のデジタル表示と寸分違わず、快適な「25.0℃」を示している。
暖かい部屋の中で、人体だけが、凍り付いている。
それは、熱いコーヒーが、ひとりでに氷の塊になるような、この宇宙の根本法則――熱は、常に熱いものから冷たいものへ流れるという、熱力学第二法則――を、真っ向から否定する光景だった。
「密室だ」
常盤は、自分に言い聞かせるように呟いた。
ラボのドアは、内側からのみ解錠可能な、複雑な電子ロックと物理ロックで施錠されていた。換気システムは、外部からの侵入を許さない、特殊なフィルターを備えた独立循環式。窓はない。まさに、完璧な密室。
「液体窒素か何かを、持ち込んだ形跡は?」
「ありません。そもそも、そんなものをこの部屋にぶちまければ、部屋全体の温度が急激に低下し、全てのセンサーが異常を検知したはずです。ですが、見てください」
鑑識官が指差したログモニターには、過去24時間の、室温、湿度、気圧、酸素濃度のデータが、美しい一直線のグラフを描いていた。この部屋の環境は、神の心電図のように、一度も乱れていない。
常盤の脳裏に、あの男の、傲慢で、しかし楽しそうな顔が浮かんだ。
『刑事さん、面白い事件かね?』
常盤は、ポケットからスマートフォンを取り出し、履歴の一番上にある名前をタップした。もはや、彼の指は、この種の超常現象を感知すると、パブロフの犬のように、自動的にこの番号をダイヤルするようになってしまっていた。
数回のコールの後、電話の向こうから、ノイズ混じりの、どこか眠たげな声が聞こえた。
「……もしもし。常盤刑事かね。君から電話があるということは、またどこかで、世界の法則が、面白い悲鳴を上げたと見える」
「あんたの出番だ、音羽さん」
常務は、受話器を耳に当てたまま、目の前の、凍り付いた芸術品を睨みつけた。
「今度の事件は、あんたが好きそうな、極上のパズルだ。犯人は、どうやら、物理法則そのものを殺したらしい」
電話の向こうで、音羽が、ふっと息を呑む気配がした。それは、最高の好敵手を見つけた、チェスのグランドマスターのような、歓喜と興奮に満ちた、静かな息遣いだった。
「……不可逆な、相転移、か」
音羽の声は、もはや眠たげではなかった。彼の頭脳という名のスーパーコンピューターが、起動音を立てたのを、常盤は、電話越しにはっきりと感じていた。
「すぐに行こう。その、宇宙の法則の“遺体”が、まだ温かい……いや、冷たい内に、検死解剖してやらねばならんからな」




