序章:Isotope(アイソトープ - 同位体)
その研究室は、フラスコの中の世界だった。
ガラスと、磨き上げられたステンレススチールによって外界から完全に隔絶され、陽圧に保たれた空気は、一ミクロン単位の塵すらも排除するフィルターを、一時間に六回通過する。室温は25.0℃。湿度は50%。その数字が、0.1でも変動すれば、システムは即座にアラートを鳴らす。
ここは、神崎怜士が、自らのために創造した、完璧な小宇宙だった。そして、彼こそが、その宇宙の、唯一にして絶対の神だった。
「……愚か者どもが」
モニターに表示された、生命の設計図――アデニン、グアニン、シトシン、チミンが織りなす塩基配列の螺旋を眺めながら、神崎は嘲笑を漏らした。画面の中では、彼が設計した人工酵素が、遺伝子の特定領域を、寸分の狂いもなく切り貼りしているシミュレーションが繰り返されている。これは、病を治すのではない。生命という名の、バグだらけの古いプログラムを、より優れたバージョンへと書き換える、神の御業だ。
学会の長老たちは、これを「倫理への挑戦」と呼んだ。かつての同僚、結城聡は「科学者の驕り」だと批判した。元助手だった長嶺沙耶に至っては、「生命への冒涜だ」と涙ながらに訴えて、彼の元を去っていった。
皆、同じ元素で構成されていながら、その在り方はかくも違う。彼らは、安定した自然界に安住する、平凡な同位体だ。だが、自分は違う。自らの内に、新たな世界を創造する、莫大なエネルギーを秘めた、放射性同位体なのだ。いずれは崩壊する運命だとしても、その一瞬の輝きが、世界を永遠に変える。
神崎は、背もたれに深く体を預けた。高級な本革が、彼の体重を受け止めて、満足げに軋む。疲労感はあった。だが、それ以上に、万能感にも似た高揚が、彼の全身を支配していた。もうすぐだ。もうすぐ、このフラスコの中で生まれた神の技術が、世界をひれ伏させる。
その、瞬間だった。
ぞくり、と。
首筋に、まるで氷の指で、そっと触れられたかのような、鋭い冷気が走った。
「…!」
神崎は、思わず身をすくめた。なんだ、今のは。
彼は、反射的に周囲を見回す。だが、ここは、彼の小宇宙だ。風が入り込む隙間など、存在しない。空調の吹き出し口から送られてくるのは、常に完璧に管理された、生ぬるい空気だけだ。
壁のデジタル温湿度計に目をやる。表示は、先ほどと寸分違わぬ「25.0℃」「50%」のまま、静かに光っている。
疲れているのか。あるいは、アドレナリンの過剰分泌による、神経の悪戯か。
彼は、科学者としての自分を取り戻し、その現象を合理的に解釈しようとした。だが、あの、肌を刺すような、全ての熱を一点に吸い取られていくかのような、異常な感覚の説明はつかなかった。
それは、ほんの数秒の出来事だった。冷気は、まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消え去っていた。
「……くだらん」
神崎は、自嘲気味に呟き、再びモニターに向き直った。スクリーンの中では、シミュレーションが成功し、書き換えられたDNAが、完璧な螺旋を描いて輝いている。
そうだ。自分は、神に選ばれたのだ。ちっぽけな、説明のつかない体の変調など、気にするに値しない。
彼は、その一瞬の悪寒の正体が、自らの死という、絶対零度の未来から漏れ出してきた、予兆のエネルギー(タキオン)であったことなど、知る由もなかった。
神のフラスコに、最初の亀裂が入ったことに、神自身が、気づいてはいなかった。




