序章:Crescendo(クレッシェンド)
地上200メートル。
東京という名の光の海を見下ろすその場所は、神の視点と呼ぶにふさわしかった。車のヘッドライトが織りなす金色の毛細血管、ビル群が放つネオンの恒星、それらが漆黒の湾に溶け落ちて揺らめいている。
「見ろ。まるで我々のために用意された箱庭だ」
グラスの中の琥珀を揺らしながら、黒川剛三は言った。声は、このガラス張りの空間そのものと同じくらい、硬質で、冷たく、そして揺るぎない自信に満ちていた。
彼のペントハウスで開かれた、ささやかな、しかし金の匂いだけは濃厚に漂うパーティ。集められたのは、黒川という太陽の引力に逆らえず、その周回軌道を回るしかない惑星たちだ。
「黒川会長、この度の新規事業、おめでとうございます」
卑屈な笑みを浮かべた子会社の社長を片手で制し、黒川の視線は部屋の隅で孤立している一人の男を捉えた。新島怜。長い前髪が顔に影を落とす、神経質そうな芸術家だ。
「新島くん。君の新しい曲、聞いたよ。相変わらず、金にならん騒音だな」
嘲笑が、静かなBGMを切り裂く。周囲の人間が、凍りついたように動きを止めた。
「……芸術は、すぐに対価を求めるものではありません」
「言い訳だ。君に投資してやるという話、あれは撤回させてもらう。私の金は、もっと美しい音を立てる場所に使うべきだからな」
新島は唇を噛み締め、その白い指先がわななくのを、黒川は愉快そうに眺めていた。屈辱が、彼の何よりの好物だった。
次に彼の標的となったのは、壁際で冷徹な表情を崩さずに佇む、ライバル企業の技術者、高遠誠だった。
「高遠部長。貴社の新しい非破壊検査技術、噂はかねがね。もっとも、我々が数年前に捨てたアイデアの焼き直しに聞こえるがね」
「ご冗談を。我々の技術は、貴社のような力任せのものではありません。より繊細で、精密です」
高遠は眼鏡の奥の瞳を眇め、静かに返した。
「ほう。その繊細な技術で、ウチの特許を掠め取ったと囁かれていることは知っているかね? まあいい。せいぜい我々の後を追いかけてくるがいい。トップを走る者の景色は、格別だよ」
高遠の表情は変わらなかった。だが、その握りしめられた拳の関節が白く浮き出ているのを、黒川は見逃さなかった。支配とは、相手の魂に消えない指紋を残すことだ。今宵もまた、彼は二つの魂に、深く、明確な指紋を刻みつけた。
やがて、偽りの賞賛と乾いた笑い声に満ちた時間は過ぎ去り、客たちは光の海へと散っていった。後に残ったのは、高級な酒と料理の残り香、そして絶対的な支配者である黒川自身だけだった。
彼は巨大な窓の前に立ち、眼下に広がるミニチュアの世界に再び目を細める。この静寂、この孤独、この万能感。これこそが、彼が求めてやまないものだった。
その、時だった。
空調の微かな運転音以外、何も聞こえないはずの完全な静寂の中に、異音が混じった。
キィ……。
まるで、遠くで鳴く虫の声のような、か細い金属音。黒川は眉をひそめ、音の源を探るようにあたりを見回した。嵌め殺しの窓の外で、風が鳴いているのか。いや、この高さではそんな音はしない。
彼はすぐに興味を失い、バーカウンターへ向かって重厚なクリスタルのデキャンタを手に取った。
だが、彼が琥珀色の液体をグラスに注ぐ、その瞬間。
キィ……、キィ……。
今度は、一度ではない。メトロノームのように、ごく微かだが、冷徹なほどに正確な間隔を置いて、その音は繰り返された。
黒川は訝しげに顔を上げ、部屋の中央に君臨する、城のごときシャンデリアを見上げた。ヴェネツィアの職人が手掛けたという、数千個のクリスタルガラスが編み上げられた芸術品。それが、ほんの僅かに、人の目にはほとんど捉えられぬほど、しかし確かに、揺れていた。
風はない。地震でもない。
なのに、それはまるで命を得たかのように、自らの重みを軋ませ、破滅への序曲を、静かに、静かに奏で始めていた。
Crescendo――だんだん強く。
その意味に、男が気づくはずもなかった。