第7転 日本一の覚醒
ベヒーモス。
旧約聖書に登場する陸の怪物。最高の獣と謳われる神の被造物。モデルは象とされる事が多いが、河馬や牛であるという説もある。中世以降は暴飲暴食を司る悪魔と見なされるようになった。
◆ ◇ ◆
クリトの連続拳撃が俺を襲う。至近距離で繰り出される拳は最早弾幕だ。俺は反撃も忘れて回避に徹する。腕の長さよりも間合いを取れば拳撃は届かなくなるので、どうにか避け続けていられるが、俺から近付く事ができない。
「おらよっ!」
クリトの足払いが炸裂する。拳に専念していた俺は足元の攻撃に反応できない。転倒する俺にクリトはすかさず跳び乗り、拳を突き落とす。右の拳――【陸の王者】だ。
「ひえっ!」
横転して拳を躱す俺。目標を逃した【陸の王者】が路面を叩く。道路が粉砕され、十メートル級のクレーターとなる。逃げ遅れていたらどうなっていたか、想像するまでもない。
「くっ、クソ!」
蒼褪めながらも俺は路面を手で突き押し、素早く身を起こす。そのまま間髪入れず後方に跳躍した。少しでもクリトから距離を確保しようという怯懦だ。
「ちょこまかと。さっさと殺されろ、地球人」
クリトは悠然と俺を目で追う。余裕を隠そうともしない態度だ。握り締めた拳が発する威圧感に息を呑むのを止められない。恐怖で足が竦みそうになる。
「…………。お前、異世界転生者って事は元地球人だろ。それなのに、なんでそう簡単に人類滅亡なんて真似ができるんだ?」
威圧された自分を誤魔化すように俺は問いを口にする。
「決まっている。大義の為だ」
対するクリトは余裕からあっさりと答えた。
「おれ達異世界転生者の殆どは地球では不遇でな」
「不遇……?」
「うむ。イジメられたり引きこもりだったり、ブラック企業で過労死したり大病に冒されていたりな。おれも似たような境遇だ。
その一方で異世界では出会いに恵まれた。だから、地球に対して容赦はしないし、異世界に対しては同情する。異世界を守る為には地球を犠牲にしても構わないと考えている」
「……それが分からねえ。地球と異世界に一体どんな関係があるんだ? どうして地球人を滅ぼす事が異世界人を守る事になる?」
「何だ? 貴様、そんな事まで知らされてないのか?」
「何だって?」
困惑する俺にクリトは嘲笑を浮かべる。
「それもそうか。神々にとって貴様はただの尖兵。駒にあれこれと丁寧に教える必要もないな。それにどの道、貴様はここで死ぬのだから神々の事情など関係はあるまい」
「くっ……!」
クリトが歩を進める。近寄る殺意に俺はどうしても及び腰になってしまう。クリトがゆっくりと近付く度に一歩ずつ後退する。そんな俺の無様さにクリトは口角を歪めつつ、一息に仕留めようと地を蹴ろうとした。
その直前だった。
「百地!」
竹が俺の名を呼んだ。
振り返れば刀が円を描きつつ飛んできていた。難なく受け取る。刀が飛んできた方向を見れば、そこには粉砕されたリムジンを背景に竹がいた。服も肌も全身が切り傷だらけだが、ひとまずは五体満足だ。
視線を横に動かせば、鉱物の樹木が幾つも生い茂る中、甲冑の兵士達が倒れ伏していた。竹はクリトに弾き飛ばされたあの状態からどうにか復帰して、見事に兵士達に打ち勝ってみせたのだ。
「刀を抜きなさい、百地!」
あちこちから流血し、息も絶え絶えになりながらも竹が俺に訴える。
「刀を抜けば、あんたは『桃太郎』になる! あんたの前世が『桃太郎』だって事を重荷じゃなくて利用するのよ!」
「獣月宮、お前……」
「使命とか運命とかそんなのはどうでもいい。あんたが『ここで死にたくない』と思っているのなら、刀を抜いて戦って!」
「…………」
竹の喝に俺は僅かに息を止め、手元の刀に目を落とした。鞘に納まった刃を手に思い返すのは前世の記憶だ。
◆ ◇ ◆
鬼ヶ島に辿り着いた桃太郎が見たのは村だった。
人間の村ではない。鬼が作った村だ。
村は非常に貧しかった。土地は枯れ、真水も乏しく、作物が育たない。作物が育たなければ家畜も飼えない。到底生活などできる筈もない。
鬼達は何も欲望の為だけに村々を襲っていたのではない。自分達の村を養う為でもあったのだ。
だが、略奪は略奪である。勧善懲悪、因果応報。奪った者は奪われなければならず、殺した者は殺されなければならない。それが摂理だ。それが条理だ。
そうして桃太郎は殺戮を始めた。男も女も老人も赤子も分け隔てなくその手に掛けたのだ。
桃太郎は鬼退治という役目を背負わされて生まれてきた。生まれる前から使命が定められていた。彼自身もそれに疑問を持つ事なく育ち、鬼を討伐する旅に出た。その結末は惨劇で幕を閉じた。
血塗れの悔恨から彼は決意した。もう二度と使命を理由に戦う事はしないと。
◆ ◇ ◆
それから現在。今生の俺は命の危機に晒されていた。
二度と使命の為には戦わない。ならば、意地はどうか。
死ぬのは怖い。こうして転生した身ではあれど、感覚が朽ち果てていくあの絶望と自分が消えていく不安感は耐え難い。二度とどころか一度だって味わいたくないものだ。
「それに……」
祖父母や学友達を思い出す。俺がここで殺されれば彼らは泣くだろう。怒るかもしれない。死んだ俺の事を不甲斐ないと思うかもしれない。まさか復讐なんて考えるまではいかないだろうが。
それは嫌だな。嫌だ。だから、
「――ああ、死にたくねえな」
呼吸を一つ挟んで意を決し、鞘から刀を抜く。
途端、俺の中の何か――在り方と呼ぶべきものが一変した。抜刀した事で自分の中にある『桃太郎』のスイッチを入れたのだ。




