紅とカイ
第4整備ブロック、地下10階。
メンテナンス室には、無人の自動アームが精密に並び、中央制御ユニットのホログラムが青白い光を放ちながら宙に浮かんでいた。
天井照明は、生体活動を阻害しない中性波長に調整され、空調は常に理想的な温湿度を維持している。――完璧な環境だ。
紅は診断台に仰向けになり、そっと目を閉じた。
直後、全身を包むように無数のセンサーが展開され、静かにスキャンが始まる。
モニターには「OK」のマークが次々と並んでいった。
ただ一つ、右腕の診断だけが赤く点滅していた。
神経接続モジュールの微小な過熱。
エラーログには、自律判断系の長時間稼働が記録されている。
「……無茶をするなとは言ったはずだ、紅」
静かな声が室内に響いた。
紅は目を開け、診断台の上で顔を上げる。
音もなく扉が開き、黒いコートをまとった男が姿を現した。
「秘密警察が、こんなところまで出張とはね」
紅の口調には、冷たさと僅かな呆れが混ざっていた。
カイ――その外見は人間とほとんど変わらない。
だが、両目の奥でわずかに光る特殊なレンズが、彼の“本質”を静かに告げている。
カイは無言のまま部屋の中央に歩み寄り、立体インターフェースに指をかざした。
瞬時にホログラムが展開され、複数のデータが空中に描き出される。
「やめて。私は自動整備で十分だ」
紅は半身を起こし、鋭い声で言い放った。
「凡庸な整備で済ませるから、すぐに壊れる。
……少しは自己保全の優先度を上げろ、紅」
カイは手早く操作を進め、彼女の診断データを確認していく。
その指示に応じ、数本のアームが再起動し、右腕の再接続処理を始めた。
「最近、裏で妙なノイズが上がっている。
“人間が生きている”――そういう話だ」
その一言に、室内の空気がわずかに張り詰めた。
「……くだらない噂だ」
紅はため息をつきながら、新たに装着された右腕の感触を確かめた。
神経伝達は正常。ただ、ほんのわずかに重みが違っていた。
「本当かもしれない。……俺のプログラムが、そう判断している」
カイのレンズがわずかに光を帯びる。
「お前が、そんな非合理なことばかり言うから」
紅は笑わずに言った。
だがその声には、諦めにも似た静けさがあった。
「そのノイズは、ただの噂よ。
お前がそんな“話”ばかり追っているから、組織で浮くのだ」
「だが、噂の中に時折“真実”が混じることもある」
カイはそう言い、紅の顔を見つめた。
「お前にも、話を聞きたかった。
……紅。お前の直感を、俺は信用している」
「私は軍人。公安の情緒的な捜査には、興味はない」
紅は冷たく言い放つと、診断台を降りてドアへ向かった。
だが、その背中にはどこか迷いのようなものが滲んでいた。
カイは無言のまま、彼女の新しい右腕に視線を送る。
それは戦闘用の高出力モデルではなかった。
防御性能に劣る、やや古い型――だが、どこか造形に“美しさ”が宿っていた。
ぽつりと、彼の心に言葉が浮かぶ。
「……綺麗な腕だな」
「なんだ、文句があるなら――ここでやってもいいんだぞ」
紅が振り向きもせずに言った。
沈黙が、数秒だけ、二人の間に流れる。
「俺は秘密警察。お前は軍人。……結果は、わかってるだろ」
「次はないわよ」
そう言い残して、紅は部屋を後にした。
カイは一人、残された室内に佇む。
彼女が置いていった古い右腕と、彼女が装着しようとしていた腕を見比べた。
そして、静かに呟く。
「……何かあるな」