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彼女の苦悩

隠れ家カフェの午後は、いつも静かだ。


古びたドアと、目立たない看板。見た目はただの古びた民家。

この店を見つけられるのは、ほんの一握りだけ。


カウンターの奥で、僕はエプロンを締め直し、フラスコに湯を注ぐ。

火をつけると、静かにお湯が沸きはじめ、気泡とともに立ち上る蒸気が、

ふわりと豆の香りを連れてくる。

やがて、その香りが、ゆっくりと世界の端を満たしていった。


少したって、カラン、とドアベルが鳴った。


「……い」


声をかけずとも、誰かわかった。

紅――あの紅が、そこに立っていた。


深紅のジャケットではなく、落ち着いたベージュのロングコート。

髪もまとめられていて、印象はだいぶ違う。

それでも彼女の「芯」だけは、変わらない。


「来たぞ。いつものを頼む」


彼女は奥の席に腰を下ろす。


この店は、そもそも客がほとんど来ない。見た目が民家のせいもあるが、

ここを訪れるのは、“静けさ”を必要とする者だけだ。


僕は黙って、一杯のコーヒーを淹れる。

深煎り、やや苦め。彼女が前に「好き」と言った味だ。


カップを置くと、紅はふっと息を吐いた。

その仕草が、妙に人間らしく見えた。


そしてぽつりと、言った。


「……この前の、仕事でな。ちょっとやりすぎてしまってな」

「気分が落ちているんだと思う」


声のトーンは低く、独り言のようだった。

何も言わずに、僕はカウンターでうなずく。


「止めなきゃいけなかった。あれが……大きな騒動になる前に。

でも、あの仕事をすると、壊れていく気がするんだ。自分の何かが」


手元で指を組む仕草に、微かに震えがある。

演算力も、統制機構も、完璧なはずの彼女が――こんな風に、揺れている。


「どれだけ考えても、“あれ”が正しいのか、自分でもわからなくなる。

正しく止めた、はずなんだ。

でも、それでも……」


言葉が続かない。代わりに、紅はカップを手に取り、そっと口をつけた。

一口。ほんの少し。けれど、それは確かに“味わう”ための動作だった。


「……このコーヒー、いいな」


彼女は目を伏せたまま、ぽつりと続ける。


「心が、こもっている気がする。温度も、香りも、味も……全部が、静かで優しい。

さっきまでのノイズが、少しずつ、消えていく感じがするの。そう思うのって……変か?」


「いや、変じゃないですよ。そう言われてとてもうれしい」


僕は小さく答える。


彼女の中にある“揺らぎ”は、確かに機械にはないものだ。

人工的に作られたはずの存在が、まるで人間のように悩み、躊躇し、そして苦しんでいる。

それが本物かどうかなんて、僕にはわからない。


でも――

ただ、今この瞬間、彼女はコーヒーを飲み、少しだけ、呼吸を取り戻している。

感情の重さを、ほんの少しだけ手放している。

それだけで、いいと思った。


窓の外では、夕暮れの色が少しずつ街に降りてきていた。

鉄の街に、やわらかな光が溶けていく。


「……また来ていいか?」


紅の声が、そっと落ちてくる。


僕は、またうなずいた。


「コーヒー、用意しておきます」


ほんの短い会話。けれど、たしかに何かがそこにあった。

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