70.辺境伯領の朝
ガジャとチュリがネモイ辺境伯家に帰って来て2日目。
朝食の席でチュリはその食事の豪華さに驚いていた。
「卵焼きとサラダとミルク……」
サラダはまぁいい。
食べられる野草を適当に盛るだけでもそれなりになる。
しかし卵とミルク。それを生み出す鳥と牛などの家畜を飼育することを考えると結構希少な食材だ。
食用にもなるそれらの動物を去年の飢饉で潰さずに維持するのはかなりの難行だっただろう。
それが朝食に出て来るのだからすごい事だ。
ただチュリは知らないがこれらも魔物の森で捕まえた鶏と牛から取れたものだ。
森の民がせめてもと連れて来てくれた。
魔物の森に生息するくらいなので普通の家畜とは違うけど。
「今朝飼育を担当している人達にお義姉さまのことを話したら分けて貰ったの」
「まぁそうだったのですね。なら後でお礼を言いに行かないと」
ナンテの言葉にチュリはなるほどと頷く。
それでこんなに豪勢な朝食だったのか。
あとお義姉さまというのはチュリの事らしい。
ガジャとはまだ婚約未満の状態なので気が早い気もするけど嫌な気はしない。
「ところでお義姉さまは今後どうされるのですか?」
「それなんだが、しばらくの間はお試し期間ということになった」
「お試し期間?」
ナンテの父から詳しく聞けば他の地域からやって来たチュリがこのネモイ辺境伯領で不自由なく生活できるか確認して問題なければ、と言う事らしい。
「具体的には夏ごろにガジャと婚約、秋に結婚の運びとする。
もしそれまでに問題があれば白紙に戻してくれて構わない」
「もちろん俺は白紙に戻す気はないよ」
「わ、わたしも頑張ります」
ナンテは知らない事だけどチュリに帰れる場所はもうない。
そして辺境伯を始め貴族家から追い出された場合、他の家で雇ってもらうのはかなり厳しい。
だから背水の陣とでも言える状態だ。気合も入ると言うもの。
「それでその、この地に馴染むにはどうするのが良いでしょう」
チュリの質問にナンテの父が笑顔で答えた。
「簡単で時間のかかる方法と、厳しいけど短時間で済む方法があるが、どちらにする?」
「それなら後者でお願いします」
「ふむ。なら今日からナンテと行動を共にすると良い」
「って、お父様。私は厳しくないですよ?」
父の言葉に抗議するナンテ。しかし、他の家族は妥当な評価だと頷く。
ナンテが厳しく指導することはないだろうけど、一緒に居るのは厳しいだろう。
常識がぶち壊されるという意味で。
「ちなみにもう一つの方法はガジャと行動することだ」
それにはナンテも納得した。
気心が知れた兄と一緒に居るのは確かに楽だろう。
だけどガジャが辺境伯領から離れていた3年の間に変わってしまった事も多い。
アウルム帝国とのあれこれも今から学ばなければならない。
それでは時間が掛かるのも当然だ。
その点、ナンテなら普段から街に出ていたし知らない事は無いだろう。
「それではナンテさん。よろしくお願いします」
「はいお義姉さま」
役割を与えられたナンテは気合を入れる。
そして朝食を終えてすぐにチュリと一緒に家を出た。
まず向かうは街の大通りだ。
「おはようございます。ナンテお嬢様!」
「おはようございます」
「お嬢様、今日もお元気そうで何よりです」
「サミーさん、おはようございます」
すれ違う人すれ違う人、みんなナンテを見つけると笑顔で挨拶していた。
ナンテも彼らに元気に返事を返していて息をつく間もない程だ。
「はぁぁぁ」
これすらチュリにとっては信じられない光景だ。
貴族の娘と庶民との距離が余りにも近い。
チュリが居た伯爵領では、まず貴族が領民の前に姿を現わすのは特別な行事の時以外にありえない。
直接言葉を交わす事などまずなかった。
そして一通り見回りを終えた後は街を北に抜ける。
そこには何故か農村があった。
「あら? なぜこんな近くにもう1つ村が?」
「ポテイト村です。
元々はただの畑だったんですけど、拡張を重ねていたらいつの間にか村になってました」
村に入ってみれば畑仕事をしている村人を多く見かけた。どの人も20歳そこそこの若い人ばかり。
今は春で農家は最も忙しい季節だ。
その彼らはナンテを見かけると街の人達以上に盛大にナンテに挨拶してきた。
「ナンテお嬢様~~!」
「村長~」
(え、村長?)
両手をぶんぶん振って飛び跳ねる人も居る。
それとなぜかナンテを村長と呼ぶ農民たち。
対するナンテも驚いた様子がないのでこれが日常なのだろう。
「あの、ナンテさんがこの村の村長なのですか?」
「はい、そうです」
「辺境伯様もまだ小さいナンテさんを村長に宛がうなんて随分思い切ったことをしましたね」
「あ、いえ。
ここは私が拓いた村なんです」
「は……?」
まだ11歳の少女が村を1つ創った?
そんなことは不可能だ。そう言いたいけど、事実目の前に村はある。
ここに来てチュリはナンテの父がどうしてナンテと一緒に居る事を『厳しい』と表現した理由を理解し始めた。
確かにこれは既存の常識が大きく揺らぐ事件の連続だ。
生粋の貴族では「ありえないわああぁぁ!!」と気がおかしくなってしまったことだろう。
「着きましたよ」
「ここは?」
「私の畑です」
ナンテ達の前には広大な畑があった。
これまで見て来た畑に比べると数段生育が良いというか早い。
それと、畑で作業しているのはナンテよりも小さい子供がほとんど。
あとはその子達の保護者なのか農家にしては重装備な大人が数人。
「あの方たちは?」
「警備隊の皆さんです。
向こうに見えるのは魔物が多く生息する森で時々集団で畑を荒らそうとやってくるんです」
「警備隊。ですが武器を持っていないですよ?」
「え、鍬を持っているじゃないですか」
「え?」
ナンテとチュリで顔を見合わせるが何故か話がかみ合わないようだ。
ナンテからしてみたら鍬1つあれば畑も魔物も耕せて便利だろうと思っていたし、草を刈ったり作物を収穫するために鎌もあれば大体事足りる。
逆に他に何が必要だろうかと悩むくらいだ。
そんなことよりここで立っていても仕方がない。
「じゃあ私達もやりましょうか」
「今度は何を?」
ナンテの手にはいつの間にか2本の鎌があり、その1つをチュリに渡すと青々と野菜が茂る畑の一角へと向かった。
「ここと隣の区画は本当はちょっと早いのですが、もう食べられるだけ成長しているので手分けして収穫しましょう」
「ふたりでですか?」
「はい。あ、収穫した野菜は後ろの箱に入れていってくださいね」
「いえそうではなく」
「収穫の仕方は今から見せますから真似してみてください。
根本付近を軽く手前に引くようにしながら鎌で刈り取る。
ね、簡単でしょう?」
「え、えぇ」
聞きたいことはそんなことではなかったのだけど、ナンテがもう始めてしまったのでチュリもやるしかない。
しかし、2区画とはいえかなりの広さだ。
女性2人ではどれだけ時間が掛かることか。
「って、もうあんな所まで!」
ほんの少し考え事をしている間にナンテはもう畑の向こう端に辿り着きそうだった。
なんて手際の良さ。むしろ自分なんて必要ないのかもしれない。
いや、自分は予定外の付き添い。
あの子は最初から自分ひとりでやるつもりだったんだ。
「これに付いて行くことがここで生きていく事なら頑張らないと」
これは確かにハードモードだ。
それに気づいたチュリは鎌を持つ手に力を入れた。




