68.兄の帰還
4月。
気が付けばナンテの誕生日は過ぎてしまい、11歳になっていた。
ネモイ辺境伯領にも遅めの春がやってきて各地の畑も本格稼働を始めているが収穫はもう少し先。
唯一ナンテの畑だけは成長の早い野菜の収穫が行われ領内の各地に配給していた。
これで森の民からの支援と併せて食料危機からは脱したと見て良いだろう。
そして春になったと言う事はもう1つ事件があった。
「父上母上、ただ今戻りました!」
「よくぞ帰った、ガジャ」
「元気そうで良かったわ」
辺境伯家に帰って来たのは、3年間王都の学園に通っていた長男のガジャだ。
18歳になったガジャは随分と精悍な顔つきになったように思える。
「お帰りなさい、お兄様」
「ナンテ! お前も大きくなったなぁ」
駆け寄って来たナンテをガジャはひょいっと持ち上げた。
昔に比べると大分大きくなったなと感慨にふけるガジャを余所に、ナンテはガジャの後ろにそっと佇む少女と目が合った。
クリッとした目に少し尖った耳。深い赤毛のショートヘアが落ち着いた印象を持たせてくれる。
ナンテと目が合ったところでそっと頭を下げる辺り、内気な性格のようだ。
「あのお兄様。そちらの方は?」
「ああ、紹介するよ。父上、母上。恋人のチュリです」
「ちゅ、チュリと申します。よろしく、お願いいたします」
ガジャにそっと背中を支えられるようにして前に出たチュリは緊張した様子で淑女の礼を取った。
それを受けて両親も穏やかな笑顔を浮かべながら応えた。
「君のことは手紙でガジャから聞いている。
今日からここを自分の家だと思ってゆっくりとすると良い」
「長旅で疲れたでしょう。まずは客間に案内しましょうね」
「ガジャは済まないが私と一緒に執務室に来てくれ」
父親に連れられて去っていくガジャの背中を見送った後、残った女性陣は一緒に客間へと向かった。
客間に着いたらまずは一息入れようとお茶を用意した。
なおお茶請けはお菓子ではなかった。
「あの、これは?」
「お茶請けよ」
「ジャーキー、ですよね」
「ええそうね」
どうやら見た目が似ているだけの別物、という事は無かったらしい。
酒のアテでもあるまいに、ジャーキーをお茶請けに出すのがこちらの常識なのだろうかとチュリは首を傾げた。
だけど別にネモイ辺境伯領でも普通ジャーキーとか燻製肉とかをお茶請けには出さない。
「去年の冷害はチュリさんもご存じでしょう?
それの影響で領内に穀物はほとんど残っていないの。
幸いお肉は十分な量が手に入るようになったから、こうしておつまみとして用意してみたのよ。
これが意外とお茶に合うから試してみて」
「は、はい」
言われて恐る恐る手に取りかぷっと噛んでみれば、途端に口の中に肉の旨味が広がった。
これ程の味の肉は王都でもなかなか手に入らないだろう。
ただやっぱり肉なので若干獣臭いというか後に引くものがある。
そこへお茶を一口飲めば爽やかな香りが鼻を抜けてスッキリさせてくれる。
「本当に美味しいです。
このお茶も飲んだことのない味ですけど、ハーブティーですか?」
「それは娘のナンテがプランターで育てた葉を使ってるのよ」
「まああなたが?」
「はい。アップルミントっていうハーブです」
まだ幼さの残るナンテが育てたと言われて驚いた。
自分がこの子くらいの歳の時は何をしていただろうか。
少なくとも何かを育てるような余裕は無かったように思う。
裕福な家では無いようだけど、心のゆとりはあるのだろうなと思った。
「ガジャ君から聞いていましたけど、ナンテさんはとてもお利口なんですね」
「はい! 畑の事なら任せてください」
「あらあらナンテったら」
貴族の娘としては若干ズレたところで胸を張るナンテにちょっと苦笑しつつもこの子らしいなと思う母親と、初対面ながらガジャから聞いていた通りの様子にほっこりするチュリだった。
「さて、本当はもっと色々お話したいのだけど初対面の私達と一緒では気が休まらないでしょう。
夕飯の時間になったら呼びに来るから、それまで休んでいて。
あとお湯を持って来るから旅の汚れを落とすと良いでしょう」
「はい、お気遣いありがとうございます」
そうしてチュリを残してナンテ達は退散することにした。
廊下を歩きながら母はナンテに問いかけた。
「あなたから見てチュリさんはどうかしら」
「えっと、そうですね」
少し話した印象としては、落ち着いていて礼儀正しい淑女と言った所。
我が家を見ても驚かないところからして、上流貴族の娘では無さそうだった。
ただ、何よりもナンテの目を引いたのは彼女の手だ。
「とても素敵な手をお持ちでした」
「あら。あの子の手に目立つ所があったかしら」
記憶に残っているのは綺麗に短く切り揃えられた爪くらいだ。
特に紅を差していた様子も無かったし、何がそんなに娘の気を引いたのか分からない。
「手の皮が厚くなっていました。
畑仕事ではないと思いますが、普段から何か作業をしている人の手です」
「なるほどね。
ナンテの言う通り彼女は色々と苦労を重ねて来たのでしょう。
だからここでは心安らかに過ごせるように気を配ってあげましょうね」
「はい!」
詳しい話はまだ聞いてはいないけれど、単身で、息子に連れられて、鞄1つで辺境にやってきた。
それはただ息子にべた惚れで付いて来たという話ではない。
親は居ないか娘に無関心で、きっと実家には戻れない状態だと思われる。
加えて自分で言うのもなんだけど以前から貧しい生活に慣れていないとここでの生活は相当厳しい。
はっきり言って甘やかされて来たお嬢様なら3日で逃げ出すことだろう。
多分王都に慣れていたら向こうの下町の方が生活しやすいと思う。
それでも嫌な顔1つせずに来たと言う事から彼女の身の上は察しがつくと言うものだ。
幸いな事は、ここは都会のようなギスギスした駆け引きは無く、心安らぐ自然なら幾らでもある。
1日でも早くここの生活を気に入ってもらえるように他の人にも伝えておこう。
そうして夕食の席で改めて全員揃って自己紹介などが行われた。
なお今日のメインディッシュは厚切りステーキである!
「ご、豪勢ですね」
チュリの口から思わずこぼれてしまったが、これだけ上物のステーキは王都でも高めのレストランに行かないと出てこないだろう。
ナイフを入れれば抵抗なく切れてしまうし口に含めば濃厚な肉汁を残して溶けるように消えていく。
「いったい何の肉なんですか?
こんなに美味しいお肉は食べたことがありません」
「それは……」
「今日はまだ秘密よ」
答えようとしたナンテを遮って母が悪戯っぽく笑った。
実は別に秘密でも何でもないのだけど、王都で暮らしていた人は魔物を食べるという習慣が無い。
ここで正解のオークジェネラルの肉だと伝えてしまうと、折角美味しく食べてたのに気分を害してしまうかもしれない。
なので今日の所はまだ言わない方が良いだろうと考えた訳だ。
「それと今日はチュリさんの歓迎会だから豪勢だけど、明日からはとっても質素になるから覚悟しておくのよ」
「は、はい! 1日1食でも我慢します」
「あーそうね。夏までの辛抱ですからね」
チュリの健気な返事に、他の皆は何とも言えない表情を浮かべた。
1日1食どころか2食の予定ではあるのだけど、1回の量が恐らく想像しているものの半分以下かもしれない。
あともう1月も過ぎれば豆類の収穫が出来るし、夏になればナンテの畑のジャガイモが収穫できる。
それまで彼女が耐えられるかどうかが心配だった。




